とりっくおあとりーと
◇ ◇ ◇
「そこ、座ってもいいかい?」
「うん。
いい、けど」
笹本さんが、おもむろに私の机の前を指さす。
――だから、というわけでもないのに、
私はほとんど反射で頷いていた。
こんなふうに声を掛けられるなんて、
考えたこともなかったから。
きっと清継君なら、
この不意のサプライズに、喜びのあまり失神しているだろう。
「ほいじゃ失礼」
彼女は椅子を引き、
私の正面に、するりと収まる。
背もたれを抱え込むようにして、
腕に顎を乗せるその仕草は、どこか気だるくて、自然体で。
それから、ゆったりと口を開いた。
「向崎と話すの、ずいぶん久しぶりな気がするね。
実際は、そんなに時間経ってないはずなのにさ」
「うん、そうだね。
……不思議」
「どうして今さら話しかけてきたんだ、って思ってるだろ?」
「うん」
迷いなく頷く。
本当に、澄んだ瞳だった。
少し前の笹本さんとは、まるで別人みたいで。
――いや、違う。
変わった、というより。
何かを削ぎ落として、残ったものが、今のこの人なのかもしれない。
そう思うと、息が浅くなる。
あの日の出来事が、
それだけ大きなものだったということだ。
笹本さんは、淡い笑みを浮かべて、
少しだけ肩をすくめた。
「正直だね。
じゃあ私も正直に言うと――
あんたに話しかけるの、普通に怖かったんだ」
「……怖かった?」
「あの日、私が自演したせいでさ。
汐森、クラスの連中から白い目で見られるようになっただろ?
原因作った私のこと、殴りたくて仕方ないんじゃないかって。
ずっと、そう思ってた」
「そんなこと……」
「ないのかい?」
食い気味に、返される。
言葉が、詰まる。
「汐森と仲のいい板橋や五里は、私に毎日殺意を向けてくるよ。
自業自得とはいえ、
いつ襲撃されるか分からない恐怖で、また不登校になりそうだ。
お家から出たくないよ」
笹本さんにも、恐怖心があったなんて。
正直に言えば、少しだけ驚いた。
――失礼だけど。
そういう感情は、
もうどこかに置いてきてしまった人だと思っていたから。
透き通った瞳が、
こちらをじっと覗き込む。
「あんた、今さ。
私に恐怖心なんて欠落してる、って思ったでしょ?」
「心読まないでよ!?
だって笹本さん、前は人間味がないというか……
マネキンみたいに生きてる感じ、しなかったんだもん」
「はは。言い得て妙だね」
短く笑ってから、彼女は続ける。
「少し前の私は、
確かに“生きてなかった”よ」
その言い方は、妙に静かで。
「心臓が脈打ってるだけのマネキンさ。
ショーウィンドウ越しに人を眺めるみたいに、全部が他人事で。
誰かが心を向けてくれても、手を差し伸べてくれても――
私はずっと、俯いてた」
一拍。
「だから、それに気付けない。
ほんと、大馬鹿者だよ」
自嘲の言葉なのに、
そこには不思議と湿り気がない。
「ほんと、クソ野郎だったなあ」
「……笹本さん、変わったね」
そう口にすると、
彼女は一度、視線を天井へ逃がした。
蛍光灯の白い光を受け止めるように見上げてから、
ほんの少しだけ――
嬉しそうに、言う。
「ああ。
変わらなくちゃいけないって、思ったんだ。
私みたいな人間のために、泣いてくれる人がいるなんて。
想像してもみなかった」
その声は、どこか遠くを見ている。
「もしあの時、死んでたら――
そのことにも気付けないまま、ずっと後悔してただろうね」
淡々とした口調の奥で、
後悔と決意が、折り重なっているのが分かる。
私は、少しだけ躊躇ってから、尋ねた。
「じゃあ……清継君には、感謝してるの?」
「感謝?
――冗談」
一言で、切り捨てる。
「私は結果的に救われたけどさ。
汐森の選択を“ありがたい”なんて、思えないよ」
視線が、まっすぐにこちらを射抜く。
「向崎さ。
自分を犠牲にしてまで、誰かを助けることって。
――美しいと思うかい?」
問いかけは、静かだった。
けれど私は、言葉を詰まらせる。
清継君は、自己犠牲の果てに、笹本さんの“今”を作った。
嫌われると分かっていて、
それでも悩んで、選んだ。
――なら。
それを、愚かな行為だと糾弾する必要はないだろう。
慎重に、言葉を選ぶ。
「自分のことを二の次にしてでも、
他の誰かのために行動できるのは……
素敵なことだと思う」
「さすが、向崎は優等生だね」
笹本さんが軽く笑う。
“正解”をなぞったような回答だと評するその声音には。
ほんの少しだけ、
棘のある皮肉が混じっていた。
「確かにさ。
自分を捨ててまで他人のために動くなんて、簡単にできることじゃない。
称賛されるべきことだよ」
「……笹本さん、何が言いたいの?」
「称えられて終わるから、美談になる。
でも、それで終わらせちゃいけないって話さ」
そう言って、
笹本さんは私の机の上のプリントを取り上げる。
空欄だけの紙面を一瞥して、
小さく息を吐いた。
「優等生になると、奉仕先にも頭を悩ませるんだね。
それとも、地雷系メンヘラかまってちゃんには見えない文字で書かれているのか」
「もう、返してよ」
「ほい」
指先を離すと、
プリントがするりと手元へ戻ってくる。
白紙。
何も決められていない事実だけが、
改めて浮き彫りになる。
そんな自分に、
少しだけ苛立って、奥歯を噛んだ。
その様子を見て、笹本さんがくすりと笑う。
「汐森の行くボランティア先、当ててみようか?」
「……何で清継君の話になるの?」
「決められない理由、どうせあいつ絡みでしょ」
あっさりと言い切られる。
胸の奥を、指でなぞられたみたいに、
ざらりとした感覚が走った。
「それから、
自己犠牲を美談で終わらせちゃいけないって話の続きさ」
少し考えるように視線を泳がせてから、
「……児童養護施設、これだろ?」
「……正解」
迷いなく当てられる。
まるで、最初から分かっていたみたいに。
私は思わず、彼女の顔を見た。
――清継君のことなら
何でも知っている、みたいな顔。
その表情が。
どうしようもなく、癇に障る。
人を嫌うことなんて、ほとんどないのに。
どうしてだろう。
この人の前だと、
心の奥に小さな棘が立つ。
理由なら、もう気付いている。
「どうして分かったの。
清継君なら、それこそ市のマラソン大会スタッフとか選びそうじゃない。
人目につくし、“良い人やってます”ってアピールできるし」
「はは、確かに。
あいつなら不特定多数に良い人アピールしたがりそうだ」
楽しそうに笑ってから、すぐに表情を引き締める。
「でも、選ばない」
断言。
「候補にすら入れてないはずだ。
第三希望にもね」
……笹本さんの言った通りだ。
私は横目で、清継君のプリントをちらりと見たけれど、
第三希望にもマラソン大会スタッフは書かれていなかった。
「スタッフって、沢山いるでしょ?
誰がやったって、だいたい同じだ。
せいぜい、“愛想の良いスタッフA”とか、“気遣いのできるスタッフB”とか。
参加者の記憶に残るのは、その程度の情報だけ」
一拍。
「それってさ。
汐森の理想とする『良い人』じゃないんだよ」
視線が、わずかに細められる。
「あいつの言葉を借りるなら……そうだな。
ボランティアモブ――」
言い切る。
「モブキャラになるんだ」
「……!」
「でも、養護施設なら違う。
あそこは“関係”が生まれる場所だ」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「手っ取り早く、“誰か”になれる。
モブじゃない、“何者か”に」
「そんな言い方、やめてよ」
思わず、声が強くなる。
「清継君は……誰にでも愛想を振りまくけど、
それは本当に、誰かの役に立ちたいと思ってるからで――」
「どうして?
——どうして、役に立ちたいと思う必要があるんだい」
被せるように、問いが落ちる。
「どうして、自分を犠牲にしてまで、
他人を幸せにしなくちゃいけないんだい?」
「それは……」
「向崎はさっき言ったね。
“自分のことを二の次にしてでも、
他の誰かのために行動できるのは素敵なことだと思う”って」
その言葉を、なぞるように繰り返す。
「でも――自分を二の次にし続けた本人は、
果たして幸せなんだろうか。」
沈黙が、落ちる。
「美談で終わらせられるのは、いつだって外側にいる人間だ。
それを“いい話だね”って眺めてるだけの、第三者」
視線が、揺れない。
「でも、当事者は違う。
誰かのためにしか生きられない人間は、
ずっと、自分を後回しにし続ける」
言葉が、静かに突き刺さる。
「それって、孤独だと思わないかい?」
「……孤独だから」
かろうじて、声を絞り出す。
「手っ取り早く、それを埋めようとする……ってこと?」
「そうだよ」
即答だった。
「汐森は、クラスで嫌われ始めた。
だから、その孤独を――別の場所で埋めようとする。
私は、そうなると思ってた」
言い切る。
「だから、感謝なんてできないんだよ。
あいつが私を救ったことに」
その言葉は、冷たいのに。
どこか、痛みを含んでいた。




