乂阿戦記7 第三章 沈黙の賢者シュリは母の記録を探す-2 ルドラ一家の来訪
「……迎えに来た、だと?」
風牙麓の声が低く沈んだ。
先ほどまで娘との再会に穏やかな表情を浮かべていた男の目に、かつて戦場で魔王ルドラと渡り合った英雄の鋭さが戻っている。
ベッド脇の点滴台が、僅かな魔力の揺らぎに震えた。
だが、ルドラは動じない。
法衣の裾を揺らしながら、ゆっくりと病室へ足を踏み入れる。
その姿は魔王というより、幾度もの死地を越えてきた武人そのものだった。
鍛え抜かれた肉体。
鋭い眼光。
そして、戦場を知る者だけが持つ静かな威圧感。
「勘違いするな、風牙麓」
ルドラは冷たく告げた。
「貴様と剣を交えに来たのではない。少なくとも、今はな」
「ならば何をしに来た」
「言ったはずだ」
ルドラの視線がシュリへ向く。
その瞬間だけ、険しかった表情が僅かに和らいだ。
「シュリを迎えに来た」
「わ、私を……?」
シュリが息を呑む。
「ああ」
ルドラは静かに頷いた。
「お前は我が義妹シェラの娘だ。つまり、俺の姪でもある」
その名が出た瞬間。
風牙麓の表情が強張った。
イ・シェラ。
シュリの母。
風牙麓の妻。
そして、ルドラの義妹。
かつてバエル教徒による魔女狩りの犠牲となった、優しき女。
「……その名を」
風牙麓がゆっくりと立ち上がる。
「軽々しく口にしないでください」
ルドラの目が細くなった。
「軽々しく?」
病室の空気が歪む。
「貴様が、それを言うか。風牙麓」
「何?」
「シェラを守れなかった男が」
一瞬にして室温が下がったように感じられた。
シュリの顔から血の気が引く。
「ルドラ叔父様……」
その声に、ルドラは我に返ったように口を閉じた。
怒りを押し殺すように拳を握る。
「……すまん」
シュリを見て、僅かに目を伏せた。
「お前の前で言うべきことではなかった」
だが、風牙麓は黙らなかった。
「言いたいことがあるなら、言いなさい」
静かな声。
「昔のように」
ルドラが苦笑した。
「昔のように、か」
その笑みには懐かしさよりも、長年煮詰め続けた怨嗟が滲んでいた。
「貴様は昔からそうだった。正義を語り、民を守り、剣を振るい、英雄と呼ばれた」
風牙麓を真っ直ぐ見る。
「だが――一番近くにいた女一人を守れなかった」
風牙麓の拳が震えた。
「……シェラを殺したのは、バエル教徒です」
「知っている」
ルドラは即答した。
「だが、奴らが来る前に逃がすことはできたはずだ。守ることだってできた。貴様ほどの男ならな」
「…………」
「俺は、シェラを守れなかった貴様を恨んでいる」
ルドラの声は静かだった。
「今でもな」
重い沈黙が病室へ落ちる。
神羅は唇を噛み、エドナも言葉を挟めずにいた。
その時オームが一歩前へ出た。
「ルドラ将軍」
呼ばれた瞬間。
ルドラは即座に姿勢を正した。
「これは失礼いたしました、オーム王子」
「え?」
先ほどまで殺気を放っていた男が、片膝をついて深々と頭を下げる。
「ゴーム王陛下の御子の前で、無礼な姿をお見せいたしました」
オームは少し困ったように眼鏡を押し上げた。
「いえ……その、ここは病室ですので、もう少し静かにしていただければ」
「承知しております」
さらにルドラはエドナへも頭を下げる。
「エドナ姫も、ご無事で何よりです」
「え?」
エドナが目を丸くする。
「ウチにも敬語なん?」
「当然です」
ルドラは真顔だった。
「ゴーム王陛下の血を引く姫君に対し、無礼は許されません」
「うわ……」
エドナが小声で呟く。
「ルドラさん、強面やけどめっちゃちゃんとしてるやん……」
オームが苦笑する。
「つい先ほどまで病室の空気を凍らせていた人とは思えませんね」
「礼節と私情は別です」
「切り替えが極端すぎます」
その時だった。
廊下の向こうから、重々しい足音が響いてきた。
ドスン。
ドスン。
ドスン。
「まったく……病院で殺気を撒き散らすな」
低く、年季の入った声。
「孫が怖がるじゃろうが」
病室の扉が開く。
入ってきたのは、巨大な体躯を持つ老ゴブリンだった。
赤みを帯びた褐色の肌。
古びたトレンチコート。
鋭い眼光と、長年の戦場経験を物語る厳つい顔。
ハイパーゴブリンロード――金剛悪鬼ドルガ。
ゴーム王麾下十大将軍の一人。
そして、ルドラとシェラの父にして、シュリの祖父でもある。
「おじいちゃん!」
シュリの声が弾んだ。
その瞬間。
ドルガの厳つい顔が、嘘のように崩れた。
「おおおおおお!! シュリィィィィ!!」
「えっ」
次の瞬間には、老ゴブリンは凄まじい速度でシュリのもとへ駆け寄り、膝をついていた。
「怪我はないか!? 怖い思いはしておらんか!? 腹は減ってないか!? まんじゅう食うか!?」
「お、おじいちゃん」
「冥界名物の黒蜜霊魂まんじゅうじゃぞ!」
「今は大丈夫だから……」
「遠慮するな! 孫は食べるのが仕事じゃ!」
エドナが思わず吹き出した。
「相変わらず孫に激甘やな、ドルガじいや」
「当然ですじゃ」
ドルガは胸を張った。
「孫とは甘やかすためにおる!」
「堂々と言い切った……」
オームが呆れたように呟く。
だが、次の瞬間。
ドルガの顔から笑みが消えた。
「ルドラ」
「……親父」
「お前は昔から、一言多い」
ドルガが息子を睨む。
「シュリの前で麓君を責めるな」
「しかし――」
「しかしではない」
ドルガの声が低くなった。
それだけで、ルドラですら言葉を止めた。
「シェラを失った悲しみは、ワシも同じじゃ」
風牙麓が目を伏せる。
「だからといって、そのすべてを麓君一人に背負わせるな」
「ドルガ殿……」
ドルガは今度は風牙麓を見る。
その眼差しには、今も消えぬ怒りもあれば、悲しみもあった。
だが、それ以上に長い歳月を耐えてきた者の疲れが滲んでいる。
「麓君」
「はい」
「ワシも、お前を完全に許したわけではない」
「……承知しています」
「だがな」
ドルガはシュリの頭へ大きな手を置いた。
「シェラが命を懸けて遺したこの子の前で、残された家族が憎しみをぶつけ合ってどうする」
風牙麓も、ルドラも黙った。
シュリは胸元で両手を強く握りしめ、二人を見つめる。
「お父さん……ルドラ叔父様……」
小さな声だった。
それでも、病室にいる全員の胸へ届いた。
「私は、二人に喧嘩してほしくないです」
風牙麓が息を呑む。
ルドラの表情も僅かに揺れた。
「お母さんのことを、忘れてほしくない」
シュリの頬を涙が伝う。
「でも……お母さんのことで、ずっと憎み合ってほしくもないです」
「シュリ……」
「私は……」
唇を震わせながら、それでも言葉を続ける。
「また家族に会えて、嬉しいんです」
誰もすぐには答えられなかった。
その時。
「そうだそうだ!」
病室の外から、場違いなほど明るい声が飛び込んできた。
「シュリを泣かせる奴は、父親でも叔父でもまとめてぶっ飛ばすぞ!」
「何?」
全員が振り返る。
扉の前には、一人の青年が立っていた。
逆立った銀髪。
鋭い目つき。
軽薄そうな笑み。
だが、その瞳には真っ直ぐな熱が宿っている。
ルドラの息子――シドラだった。
シュリを見るなり、両腕を大きく広げる。
「シュリィィィ!! 兄ちゃんが来たぞ!!」
「シドラ兄様!」
シュリの顔が、一気に明るくなった。
「元気だったか!? 怪我してないか!? ちゃんと飯食ってるか!?」
「大丈夫です!」
「そうか! よかったぁぁぁ!」
シドラは胸を押さえ、感極まったように天を仰ぐ。
「ぐはっ……妹が可愛い……! 冥界まで来た甲斐があった……!」
エドナが半眼になる。
「出た、シスコン」
シドラは即座に振り返った。
「エドナ様。それは違います」
「何がや」
「妹を大切にする兄として、当然の務めです」
「それを世間ではシスコン言うねん」
「納得できません」
オームが苦笑しながら口を挟む。
「お久しぶりですね、シドラさん」
その瞬間。
シドラはぴしっと姿勢を正した。
「これはオーム王子。ご無沙汰しております」
「君も、そこはちゃんとしているんですね」
「父が父ですので」
シドラがちらりとルドラを見る。
ルドラは腕を組んだまま、何も言わなかった。
だが。
シュリへ向けられたその目だけは、先ほどよりもずっと穏やかだった。




