乂阿戦記7 第二章 灰燼の覇王と不滅の将軍-10 アスラ・イシヅカの正体
舜烈が反射的に身構えた。
阿烈も。
阿門も。
羅漢も。
その場にいた全員が、一瞬にして戦闘態勢へ移行する。
だが。
いつの間にか雷音の隣に立っていたアスラ・イシヅカだけは、いつもの柔和な笑顔を崩さなかった。
「ふふ。家族団欒中に失礼しますね」
黒紫色の法衣を整え、恭しく一礼する。
「私も皆さんと、少しお話をしたくなりまして」
「誰が――」
雷音の拳に炎が宿る。
「テメェなんかと話すかよ!!」
次の瞬間。
ドゴォォォン!!
雷音の拳が、アスラの顔面を真正面から打ち抜いた。
アスラの身体が地面を何度も跳ね、冥界の岩壁へ激突する。
「おやおや」
それでも。
笑っていた。
「……?」
雷音が眉をひそめる。
立ち上がったアスラの頬には、拳ほどの穴が開いていた。
「ふふ。いきなり殴るとは、随分と乱暴ですね」
「アンタのそのニヤケ面に穴開けたのに……」
雷音の顔から笑みが消える。
「なんで平然としてやがる?」
「……平然、ですか」
アスラは自分の頬へ指を伸ばした。
穴の縁を、ゆっくりとなぞる。
そこから血は一滴も流れていなかった。
代わりに。
「……なんだ、そりゃ」
雷音の背筋を冷たいものが走った。
皮膚の奥から覗いていたのは――無数の歯車だった。
大小さまざまな極小歯車が、複雑に噛み合って回転している。
カチ。
カチ。
カチ。
一定の間隔で、不気味な機械音が響いた。
「お前……」
雷音が拳を構え直す。
「人間じゃねぇな」
アスラは微笑んだ。
「今さらですか?」
ぱきり。
顔面に亀裂が走った。
「……!」
白い皮膚が陶器のように割れ、次々と剥がれ落ちていく。
その内側から現れたのは、黒金色の機械仕掛けの仮面だった。
時計盤を思わせる眼。
針のように細長い指。
胸の奥では、秒針の音が規則正しく鳴り続けている。
カチ。
カチ。
カチ。
「改めまして」
アスラ・イシヅカだったものは、芝居がかった仕草で一礼した。
「アスラ・イシヅカという名前は、あくまで仮のもの」
時計盤の瞳が雷音を捉える。
「私の名は――チクタクマン」
空気が変わった。
「邪神ナイアルラトホテップの権能、その一端にして、ナイ神父の命を受けて動く者です」
口元が歪む。
「まあ、人間の家族関係へ置き換えるなら……ナイ神父の息子であり、ナイアちゃんの兄のようなものですね」
「ナイ神父の……!?」
雷音の表情が強張る。
阿烈も目を鋭くした。
「では貴様、バベル教徒の一味か」
「一味?」
チクタクマンは心外そうに肩をすくめた。
「とんでもない」
「何?」
「私は彼らの味方ではありません」
機械の指を一本立てる。
「バベル社の機密へアクセスするため、幹部の一人として潜り込んでいただけですよ」
阿門が低く唸った。
「じゃあ……反物質エネルギーを暴走させて、世界そのものを滅ぼそうとしてる黒幕は……」
「バベル教徒と、バベル社内部の急進派です」
チクタクマンは即答した。
「彼らの目的は、奈落に封じられた三聖塔の顕現。そして、その中枢に存在するとされるアカシックレコードの奪取」
雷華が眉を寄せる。
「そのためなら世界が壊れても構わないってこと?」
「ええ」
「狂ってるわ」
「彼らにとっては、むしろ救済ですよ」
チクタクマンは楽しげに言った。
「より正確に言えば、旧約聖書の洪水伝承を模している。世界そのものを一度沈め、自分たち“選ばれた者”だけが箱舟へ乗って生き残る」
「選民主義か」
羅漢が吐き捨てる。
「その通り」
「じゃあ」
雷華が剣先をチクタクマンへ向けた。
「あなたは何が目的なの?」
「私ですか?」
時計盤の眼が細くなる。
「玩弄です」
「……は?」
「遊ぶことですよ」
誰も言葉を返せない。
「私たち――ナイアルラトホテップは、人間を滅ぼしたいわけではありません」
カチ。
秒針が進む。
「だって、滅ぼしてしまえば遊び相手がいなくなってしまうでしょう?」
「……」
「泣く。怒る。足掻く。裏切る。それでも誰かを救おうとする」
チクタクマンの声が、どこか陶酔した響きを帯びる。
「そんな滑稽で、美しくて、予測不能な人間という生き物を――私たちは愛しているんです」
雷音の拳から炎が噴き上がった。
「ふざけんな」
「はい?」
「俺たちはテメェらの見世物じゃねぇ」
「ええ」
チクタクマンは嬉しそうに笑った。
「だからこそ面白い」
時計の眼が、雷音だけを見つめる。
「赤の勇者」
「……」
「あなたは、きっと世界を救おうとする」
「当たり前だ」
「バベル社を止める。三聖塔の暴走も防ぐ。そして、世界そのものの滅亡も阻止しようとする」
雷音は答えない。
「ですが」
秒針の音が止まった。
カチ。
「その先には、選択が待っている」
チクタクマンが笑う。
「世界を救うために――」
一拍。
「神羅さんを犠牲にするか」
「…………」
時間が止まったようだった。
雷音の顔から表情が消える。
雷華も。
阿門も。
羅漢も。
誰もすぐには反応できなかった。
「……何だと?」
雷音が、ようやく声を絞り出した。
「断言しましょう」
チクタクマンの時計眼が、ぎょろりと回転する。
「どれほど奇跡を望もうとも――彼女は、またしても“世界の礎”となる」
雷華の小さな拳が、ぎゅっと握られる。
「アイナクィンの環は、すでに回り始めています」
「やめろ」
雷音が低く言う。
「不滅の将軍であろうと」
「黙れ」
「灰燼の覇王であろうと」
「黙れって言ってんだろ……!」
「その連環から逃れることはできない」
紅阿の顔から血の気が引く。
チクタクマンは静かに告げた。
「女神ユキルは、今生でも世界を救う」
そして。
「――その代償として、殉じる」
「黙れえええええ!!」
雷音の炎が爆発した。
「黒の魔王アシュタロスと同じこと言ってんじゃねぇ!!」
今にも飛びかかろうとする雷音を、獅鳳が腕で制した。
「待て、雷音」
「離せ!」
「聞くことがある」
獅鳳はチクタクマンを睨んだ。
「塵芥の親父――クレイジーナックルを殺した連中に手を貸したのも、お前か?」
「手を貸した、というより」
チクタクマンは首を傾げた。
「時計を少し進めただけですよ」
雷音の殺気がさらに膨れ上がった。
「てめぇ……!」
「怒りなさい」
チクタクマンは楽しげだった。
「憎みなさい。復讐へ走るもよし、踏み止まるもよし」
両腕を広げる。
「そのすべてが――実に人間らしい」
その瞬間。
ドン――。
冥界の大地が沈んだ。
「もうよい」
阿烈だった。
全身から覇王の闘気が静かに立ち昇っている。
「這い寄る混沌の息子よ」
怒鳴ってはいない。
だからこそ恐ろしかった。
「貴様の戯言には飽きた」
チクタクマンが振り返る。
「ワシの父者を玩具にし、家族を巻き込み、世界そのものを盤上の駒として弄ぶ」
阿烈の拳が握られる。
「その罪――軽くないぞ」
「いいですねぇ、覇王」
チクタクマンは心底嬉しそうに笑った。
「ですが」
指を一本立てる。
「今、私を殴っている暇がありますか?」
「何?」
指が鳴った。
パチン。
遠く離れた冥界の空。
霧の向こうに、巨大な影が浮かび上がった。
「……!」
黒い塔。
いや。
三本の巨大な塔が、重なり合うように空間の向こうから姿を現しかけている。
まだ完全な実体ではない。
だが、その輪郭は確実に濃くなっていた。
「三聖塔……!」
ミリルの顔色が変わる。
コンパクトを開き、数値を確認する。
「まずいのだ! ユグドラシルから漏れてるエネルギーが、塔の座標へどんどん吸われてるのだ!」
羅漢が舌打ちした。
「バベル教徒が顕現を始めたのか?」
「正解です」
チクタクマンが拍手する。
「そして彼らには、十一人委員会第六席――Dr.レコキスタも協力している」
「レコキスタ……!」
阿烈の目が険しくなる。
その間にも、チクタクマンの身体は少しずつ崩れ始めていた。
肉体が壊れているのではない。
無数の歯車へ分解されている。
「バベル社は三聖塔を呼ぶ」
カチ。
「私は、その結果を観測する」
カチ。
「そして皆さんは――勇者としての使命を果たす」
身体の半分が歯車へ変わる。
「ということで、申し訳ありませんが家族ドラマは一時中断してください」
「誰のせいだ!」
雷音が怒鳴る。
「バベル教徒を止めていただけませんか?」
「テメェも敵だろうが!」
「それは否定しません」
チクタクマンはあっさり認めた。
「ただし、今の彼らは術式制御に失敗しかけています」
全員の表情が変わる。
「このまま三聖塔を無理やり現世へ引きずり出せば――人類圏どころか、世界そのものが崩壊する危険がある」
「……だから俺たちに止めろって?」
「ええ」
チクタクマンは頷いた。
「人類が全部消えてしまったら、私は誰をおちょくればいいんです?」
「最低なのだ!」
ミリルが叫んだ。
「褒め言葉として受け取っておきます」
チクタクマンは軽く後方へ跳んだ。
「待ちやがれ!!」
雷音が紅蓮の炎を纏って追う。
「逃がすかァァァ!!」
拳が届く。
その寸前。
チクタクマンの身体が、無数の時計仕掛けの蝶へと変わった。
「なっ!?」
黒金色の蝶が、冥界の空へ舞い上がっていく。
最後に声だけが残った。
『踊りなさい、勇者たち』
カチ。
『滅びの秒針は――』
カチ。
『もう動き始めています』
カチ。
最後の音と共に、気配が完全に消えた。
「……クソッ」
雷音は拳を握ったまま、遠くに浮かぶ三聖塔の影を睨みつける。
「相変わらず……ナイ神父の一族は逃げ足だけは速ぇ」
その隣へ阿烈が立った。
阿門。
羅漢。
雷華。
ミリル。
獅鳳。
そして、まだ完全には記憶を取り戻していない舜烈も、静かに拳を構える。
「父者」
阿烈が低く言った。
「家族会議の続きは、後になりそうですな」
舜烈はニヤリと笑った。
「うむ」
黒い塔を見上げる。
「まずは、あの不愉快な時計野郎と、バベルの阿呆どもを叩き潰す」
「よし!」
雷音も拳を打ち合わせた。
「家族会議は後回しだ!」
「さっきまで一番混乱してたの雷音なのだ」
「それはそれ!」
ミリルがコンパクトを掲げる。
「冥界ステージ――完全に世界救済イベントへ突入なのだ!」
「もうレース要素どこ行ったのよ……」
雷華がため息をつく。
だが、その剣はすでに抜かれていた。
雷音は黒い塔へ身体を向ける。
「行くぞ、みんな!!」
そして一斉に駆け出した。
冥界の空では、三つの光が不気味に明滅している。
シルマリルリオン。
三聖塔。
アカシックレコード。
そして――。
カチ。
どこからともなく、聞こえた気がした。
滅びへ向かう秒針の音が。
九つの世界を巡る戦いは――ここから、本当の地獄へ踏み込んでいく。




