乂阿戦記7 プロローグ
『乂阿戦記7 変身ヒーローの勇者様と歌って戦う魔法少女は冥界で亡き母神達と邂逅す』
プロローグ 母の胸に眠るもの
イ・シュリは夢を見ていた。
それは、雪の降る夜だった。
白い雪が、音もなく庭へ積もっていく。
窓の外は薄暗く、遠くに並ぶ街灯の明かりが、ぼんやりと滲んでいた。
暖炉の火が、ぱちぱちと小さな音を立てている。
幼いシュリは、厚い毛布に包まれながら、母の膝の上に座っていた。
まだ三つか、四つ。
世界が今よりずっと大きく見えていた頃。
父の背中は山のように高く。
母の腕は、何よりも安全な場所だった。
「お母さま」
幼いシュリが顔を上げる。
母イ・シェラは、静かに娘を見下ろした。
腰まで伸びた艶やかな黒髪。
雪のように白い肌。
赤い衣。
そして、どこか寂しそうな紅い瞳。
「どうしました?」
「お外、まっしろです」
「雪が降っていますから」
「ゆき、すきです」
「そうですか」
母シェラは、ほんの少しだけ微笑んだ。
その笑顔を見ると。
シュリは嬉しくなった。
母は、あまり大きく笑わない。
いつも静かで。
いつも少しだけ遠くを見ている。
けれど、シュリが何かを話すと。
母は必ず耳を傾けてくれた。
「お母さまも、ゆき、すき?」
シェラは窓の外を見た。
白い雪。
暗い空。
古い坂道。
何かを思い出すように。
紅い瞳を細める。
「昔は、あまり好きではありませんでした」
「どうして?」
「寒いからです」
「お母さま、さむいのにがて?」
「いいえ」
「じゃあ、どうして?」
幼いシュリは不思議そうに首を傾げる。
シェラは少し困ったように沈黙した。
その時。
部屋の反対側から、穏やかな声が聞こえた。
「お母さんには、雪の日の思い出があるんですよ」
風牙麓だった。
暖炉の近くで薪を整えていた父が、振り返って笑う。
優しい瞳。
戦場では恐れられる剣士だと聞かされても、幼いシュリには、とても信じられなかった。
父はいつも穏やかだった。
大きな声を出すことも、怖い顔をすることもほとんどなかった。
「おもいで?」
「そうです」
麓は立ち上がり、母娘のそばへ歩いてくる。
そして、シェラの肩へそっと毛布を掛けた。
「お父さんとお母さんが、初めて会った日も雪が降っていました」
「そうなの?」
「はい」
シュリは目を輝かせる。
「お父さまと、お母さま、ゆきであったの?」
「そうですよ」
「麓」
シェラが静かに夫を見る。
「余計なことを教えないでください」
「余計なことではありません」
「恥ずかしいです」
「では、少しだけにしましょう」
麓は娘の隣へ座った。
「お父さんは、雪の中で一人きりだったお母さんに、傘を渡したんです」
「かさ?」
「はい」
「お母さま、かさ、もってなかったの?」
「持っていませんでした」
「びしょびしょ?」
「雪ですから、びしょびしょにはなりません」
「でも、あたま、まっしろ?」
シュリが母の黒髪を見上げる。
シェラは少し考え小さく頷いた。
「そうですね」
「お母さま、ゆきだるまみたい」
「……」
シェラが無言になる。
麓は口元を押さえた。
「笑わないでください」
「すみません」
「お父さま、わらってる」
「笑っていませんよ」
「わらってます」
シュリが父の頬へ手を伸ばす。
麓はその小さな手を握り、今度は隠さずに笑った。
シェラもほんの少しだけ笑った。
暖炉の火。
雪の降る窓。
父と母の笑顔。
幼いシュリはこの時間が永遠に続くのだと思っていた。
家族はいつまでも一緒で父はいつも優しく母はいつも自分を抱いてくれる。
何一つ失われない。
そう信じていた。
その夜。
シュリは母と同じ寝台で眠った。
父は隣の椅子に座り、古い本を読んでいた。
眠れずにいたシュリは母の胸元へ耳を当てた。
どくん。
どくん。
規則正しい鼓動。
母が生きている音。
その音を聞いているとなぜだか安心した。
「お母さま」
「何ですか?」
「ここに、だれかいる?」
母の身体がほんの僅かに硬くなった。
麓も本から顔を上げる。
「どうして、そう思うのですか?」
「ときどき」
シュリは母の胸へ頬を寄せたまま答える。
「お母さまじゃないこえ、きこえる」
シェラは何も言わなかった。
暖炉の火がぱちりと鳴る。
「どんな声ですか?」
麓が静かに尋ねた。
シュリは少し考えた。
「おとこのひと」
「何と言っていますか?」
「よく、わからない」
幼いシュリは目を閉じる。
母の胸の奥。
鼓動よりもさらに深い場所。
そこに誰かがいる。
見えない。
触れられない。
けれど確かに、こちらを見ている。
怖い気配。
刃のように鋭く雪の夜よりも冷たい気配。
けれどなぜかシュリはそれを恐ろしいとは思わなかった。
「でも」
シュリは小さく呟く。
「わたしのこと、みてる」
シェラの紅い瞳が揺れた。
「見ている?」
「うん」
「怖くありませんか?」
「こわくない」
シュリは即答した。
「どうしてですか?」
「だって」
母の胸へさらに強く抱きつく。
「お母さまのなかにいるから」
シェラは息を止めた。
幼い娘の言葉。
何も知らないはずの少女のあまりにも真っ直ぐな言葉。
シェラはゆっくりとシュリの背中へ腕を回した。
「そうですか」
「うん」
「ならば」
シェラの声がほんの少しだけ震えた。
「きっと、あなたを守ってくれます」
シュリは目を閉じる。
「お母さまと、いっしょ?」
「ええ」
「お父さまも?」
麓が椅子から立ち上がる。
そして寝台の横へ膝をついた。
「もちろんです」
「みんな、いっしょ?」
「はい」
麓は娘の小さな頭を撫でた。
「ずっと一緒です」
その言葉を聞いてシュリは安心した。
眠りへ落ちる直前、母の胸の奥から低い声が聞こえた気がした。
――眠れ。
優しい声ではなかった。
けれど不思議と温かかった。
――お前は、俺たちが守る。
誰の声だったのか。
幼いシュリには分からなかった。
ただ、その声を聞くと父と母、二人だけではなくもう一人、自分を見守ってくれる何者かがいるような気がした。
雪の夜。
母の胸に抱かれながらシュリは静かに眠りについた。
それが失われる前の家族の記憶だった。
⸻
「……お母さま」
自分の声でシュリは目を覚ました。
薄暗い部屋。
見慣れない天井。
冷たい石壁。
窓の外には青白い月が浮かんでいる。
冥界ヘルヘイム。
八年前に失った母が眠る世界。
シュリは寝台の上で身体を起こした。
胸が苦しい。
夢の中ではあれほど鮮明だった母の声が目を覚ました途端遠ざかっていく。
父の笑顔。
暖炉の火。
雪の夜。
そして、母の胸の奥から聞こえた名も知らぬ声。
シュリは自分の胸元へ手を伸ばした。
首飾り。
母が遺した、記録石の収められた首飾り。
指で触れた瞬間、淡い赤い光が灯る。
鼓動のように。
一度。
二度。
小さく脈打つ。
「今の夢は……」
ただの夢ではない。
そう思った。
忘れていた記憶。
幼すぎて。
言葉にできず。
心の奥へ沈んでいたもの。
母は確かに自分を抱いていた。
父は確かに笑っていた。
そして。
母の中には誰かがいた。
冷たく。
鋭く。
けれど自分を守ると言った誰か。
シュリは首飾りを握りしめる。
「あなたは……誰なのですか」
問いかけても答えはない。
ただ。
首飾りの赤い光だけが僅かに強くなった。
その時。
部屋の扉が叩かれた。
「シュリ」
父の声。
八年前よりも。
少し低く少し疲れた声。
シュリは慌てて涙を拭った。
「起きています」
扉が開く。
旅装に身を包んだ風牙麓が立っていた。
腰には剣。
肩には外套。
かつて夢の中で見た穏やかな父と同じ顔。
しかし。
その目には、長い年月を戦い抜いた者の覚悟が刻まれている。
「眠れましたか?」
「はい」
シュリは答えた。
けれど声が少し震えた。
麓はそれに気づいたようだった。
だが何も追及しなかった。
「間もなく出発します」
「分かりました」
「怖いですか?」
シュリは首飾りへ目を落とす。
怖くないと言えば嘘になる。
これから向かう先には巨大な機械神。
敵軍。
邪神の術式。
そして八年間眠り続けている母がいる。
母が自分を覚えているのか、今も同じ姿なのか、目覚めた時自分を抱いてくれるのか。
それとも夢の中で言っていたように
自分を傷つけようとするのか。
分からない。
それでもシュリは顔を上げた。
「怖いです」
正直に言った。
父は静かに頷く。
「そうですか」
「ですが」
シュリは寝台から降りた。
杖を手に取る。
外套を羽織る。
母の首飾りを胸元へ収める。
「行きます」
麓の瞳が僅かに柔らかくなる。
「お母さまを迎えに」
「ええ」
父は微笑んだ。
「一緒に行きましょう」
二人は部屋を出た。
石造りの回廊。
窓の外には九つの世界を繋ぐ巨大な神樹がそびえている。
根は冥界の底へ伸び、枝は空を貫き、その先には人の知らぬ世界が幾つも存在していた。
氷の世界。
炎の世界。
死者の世界。
神々の世界。
そして。
すべての始まりへ繋がる世界。
長い旅が始まる。
母を取り戻すため。
家族の失われた時間を取り戻すため。
そして母の中に眠っていたあの名も知らぬ者の正体を知るために。
シュリは回廊の先を見る。
夜明け前の空。
青白い月の向こう。
神樹の枝の隙間から僅かな光が差し込み始めている。
「お母さま」
胸の中で呼びかける。
「今、迎えに行きます」
首飾りが小さく脈打った。
まるで遠い場所で眠る誰かがその声に応えたかのように。
シュリは父と共に歩き出す。
神樹の九つ世界を巡る冒険が今、静かに始まった。




