狩人は闇に潜む 9
Chapter 9
38
『厄獣』迎撃の準備は順調だった。
アラドたちは熟練の『魔獣狩り』だ。そこは抜かりがない。
獲物の侵入を報せる鳴子は、細い糸を使ってあたりに張り巡らすものだが、マジの探索に持参していなかった。
しかし、彼らは森の樹々にからみつくツタのつるを見事に代用してみせた。
この森のツタ類は、細いながらも丈夫で、紐の代わりを充分に果たした。
それに、人間の手による紐や糸を使うより、自然に溶け込んで目立たなかった。
彼らはそうやって、自分たちを中心に半径50メルテあまりの範囲を索敵エリアとして完成させた。
「メッシーナはここから『厄獣』を探せ。
俺たちは向こうの茂みに身を隠す。
ちょうどいい凹みを見つけたから、お前でも見つけられねぇぜ」
アラドは自信たっぷりにメッシーナに話しかけると、
「任せろ、アラド」
メッシーナも余裕の表情で一本の樹に登り始めた。
索敵の中心は、森の中でひときわ高く大きな樹に据えた。
樹の周囲は、この大木に栄養を奪われているせいか、高い樹が生えておらず、遠くまで見渡すことのできる場所だった。
メッシーナは途中の太い枝まで登り、そこの枝葉に身を隠すのだ。
アラドたちが『罠』を仕掛けることにしたのは、森の中で、樹々がまばらになった場所だ。
本来、こういう場所に身を隠すのは難しいが、その分、獲物の動きもつかみやすい。
それに、彼らは自分たちの身を隠すスキルを信じていた。
決してうぬぼれから来るものではなく、長年の経験に裏付けられた自信である。
『厄獣』の得体のしれなさに不安を募らせたアラドだったが、これまで通りの作業を順調にこなしていくことで、すっかり落ち着きを取り戻していた。
今では、早く『厄獣』が現れないかと思っているぐらいだ。
もちろん、不安要素がないわけではない。
『厄獣』の動きを止める最適の武器、毒矢の残数は5本。
1本は最初に襲撃されたときに使っている。
残りは拠点の小屋に置いてきてしまった。
だからといって、そこへ取りに引き返すなど自殺行為だ。
これだけでやりくりするしかない。
そして、戦う人数。
当初の12名から、わずか3名にまで減ってしまっている。
戦力不足であることは否定できない。
だが……。
あのときは人数の多さが『あだ』になった――。
アラドはそう考えていた。
人数の多さを頼みに、ウザの遺体を見つけたときの対処は脇の甘いものだった。
『あれ』を見つけた時点で、細心の注意を払って周囲に目を配っていれば、『厄獣』の不意打ちに遭うことはなかった。あるいは、ああまで混乱することもなかった……。
今は3人だが、もっとも信頼する仲間とともにいる。
人数任せでもないから、こちらに油断などまったくない。
だから、勝てる。あの『厄獣』に――。
アラドは自分を奮い立たせるように考えながら茂みの中へ潜り込んだ。わずかな隙間から『罠』へ視線を集中させる。
アラドたちが仕掛けた『罠』は、幾重にも仕掛けられた罠だ。
まず、『厄獣』をおびき寄せるために、ウサギの死がいを据え置いた。
森の中に血の匂いを漂わせるためだ。
ウサギは、バット・ダガーの投げナイフで仕留めたものだ。
矢を消費させないために、バット・ダガーの投げナイフは役に立った。
* * * * * * * * * *
「これで『厄獣』を仕留められたら楽なんだが」
バット・ダガーは残念そうにナイフをくるくると手の上で回した。
「矢に塗る毒を使うか?」
メッシーナは腰にぶら下げたビンを持ち上げた。
バット・ダガーは首を振る。
「いや、ナイフ投げは意外とケガをする。
小さい切り傷をこさえるのは日常さ。
だから、そういうことで自分が毒にやられたら元も子もない」
「だが、お前の武器は剣とナイフだ。
それで『厄獣』に対処できるか?」
アラドは槍を持ち上げて言った。
3人の中でバット・ダガーが一番『厄獣』と相性が悪い。
もともと、バット・ダガーは『厄獣』の追跡係だったのだ。攻撃役ではない。
「最初にあいつと戦ってわかった。
こんなに樹々の生えた狭い森では、さすがのあいつも動きづらいらしい。
樹々を盾に距離を取れば、あいつの牽制は充分できる。
俺とやり合うために棒立ちになったところを、メッシーナの矢とお前の槍が仕留める。
どうだ?」
「上等だ。バット!」
アラドは上機嫌にバット・ダガーの肩を叩いた。
* * * * * * * * * *
現在、バット・ダガーは、アラドとはウサギの罠を挟んだ反対側の茂みに身を潜めている。
作戦は、こうだ。
まず、ウサギの血の匂いを嗅ぎつけた『厄獣』を誘い出す。
少し開けた場所に置いてあるので、すぐ見つけられるだろう。
『厄獣』はエサの近くまで寄るが、おそらく、すぐに食いつくことはしない。
もし、そんな単純なことをすれば、ウサギを囲むように仕掛けられた『輪』が吊り上げられて『厄獣』の首を締め上げることになる。
そんな方法で『厄獣』を仕留められたら『ありがたい』だ。
もちろん、それは見せかけの罠だ。
慎重な獣であれば警戒して、それ以上近づこうとせずに立ち去るだろう。
しかし、魔獣は血の匂いには抗えない。
なんとしてでも肉にありつこうとする。
これは豊富な経験で得た、彼らの『確信』だ。
魔獣は獲物欲しさに近寄ってくる。
ただし、罠を警戒して、その周囲と距離を取りながら一回りする。
実は、その先には落とし穴が待ち構えている。
ただし、地面に人間が触れた痕跡や匂いがあれば、賢い魔獣は、それも避けて通る。
落とし穴などで魔獣を仕留めるのは意外と難しいのだ。
しかし、それもアラドにとっては想定内だ。
本命は、地面を警戒して回り込む間に触れるであろう、頭上の木の枝にある。それらに触れた瞬間、枝のばねで手製の木の槍が茂みから放たれるのだ。
さすがの『厄獣』も、離れた場所からの急襲までは対処できまい。
もちろん、罠任せにせず、同時にアラドとバット・ダガーも飛び出して、牽制と攻撃を同時に行なう。
『厄獣』の動きを止めたところでメッシーナが毒矢を放つ。
狙うは、すべての動物共通の急所である首だ。
『厄獣』は背中や腕の皮が厚いらしく、矢や剣が通じなかった。
だが、さすがに首だけはそうでないだろう。
生命線である呼吸を犠牲に、首回りの皮を厚くした動物などいないのだ。
メッシーナは弓の名手で、一本の矢を放つと、続けざまに二の矢が放てる。
メッシーナとエサのウサギとの距離は、メッシーナがもっとも得意とする距離だ。
メッシーナがしくじる不安もない。
アラドは半ば勝利を確信して『厄獣』の登場を待った。
だが、『厄獣』はすぐに姿を現さなかった。
さすがに、これだけは我慢比べになる。
森の中にはウサギの血の匂いがそよ風に乗って広がっている。
この匂いに怯えたのか、付近に小さな獣の気配は消え去っていた。
この森に潜むという、魔犬ライラプスや鰐魔の姿もない。
もっとも、鰐魔は森の中でも沼に潜む魔獣なので、ここに姿が見えないのは不思議ではない。
魔犬ライラプスならあるいはと思ったが、幸い、彼らも姿を現さない。
今回はお前たちに用はない。
お前たちが引っかかって、せっかくの罠を台無しにされたら困る。
今回、お前たちは見逃してやる。
だから、お前たちは決して近づいてくるんじゃない。
アラドは額に流れる汗をぬぐうこともせず、辛抱強く待ち続けた。
どれだけの時間が経過したことだろう。
不意に、周囲に張り巡らした鳴子の「からから」と小枝同士をぶつけ合わせる音が響いた。
……来た!
アラドは槍を握り直した。
槍を握る手は汗で湿っている。
薄手の皮の手袋をしているので、汗ですべる心配はないが、それでも、自分がこうも緊張しているのだとアラドは気がついた。
……まるで、青二才のころの自分だな……。
アラドは苦笑いを浮かべた。
だが、こうも緊張させられるだけの相手であることは間違いない。
「さぁ……、早く来い、早く来い、早く来い……」
……この槍をぶっ刺してやる!
39
鳴子の反応は南側からだった。『厄獣』は回り込むこともなく、まっすぐアラドたちを追跡していたようだ。
梢で『厄獣』を待ち構えるメッシーナの耳にも、鳴子の音は聞こえていた。
メッシーナもまた、今か今かとはやる気持ちを抑えている。
……どうした? もう姿を見せてもいいころだ。
いや、まさか?
鳴子の音に反応して、あたりを警戒しているのか?
やつは、侵入をためらっているのか?
疑念や不安が胸の奥を叩いている。
動悸はせわしく、のどの奥から何かがせりあがってくるような感覚だ。
……『厄獣』はビビッて来るのをためらった?
まさか、冗談じゃねぇぞ。
血の匂いを嗅ぎつけた魔獣にビビる感覚なんてありゃしねぇ!
必ず、必ずやつは現れる!
血と肉を欲して、必ず!
メッシーナは矢を二本手に取ると、そのうちの一本をゆっくりと弦にかけた。
弦を引き絞る音を立てないために、慎重に、ゆっくりと、矢をつがえ始めた。
自分が登っている大木は見晴らしがいい。
周囲のどこから『厄獣』が迫ろうとも、自分は把握できる。
万が一、『厄獣』がこの大木に迫ろうとも、アラドとバット・ダガーが挟撃してくれるし、大木の周囲には簡単な罠も仕掛けてある。
そう、万全の態勢だ。
この状況は、食卓に大きな皿を置いている状態と同じだ。
自分は今、フォークとナイフを両手に持って、ご馳走が皿に載せられるのを待っている。
あとは、その皿に『厄獣』というご馳走が自ら乗っかるのを待つだけなのだ。
しかし……。
『厄獣』は姿をなかなか現さない。
メッシーナはすっかり矢を放てる態勢になっていた。
今なら、一瞬の間も空けることなく矢を放てる。
……鳴子を警戒して、引き返したのか?
メッシーナはそのように考え始めた。
基本的に、鳴子は普通の獣を追い払うのに使われる。
厳しい生存競争を生き抜く自然の獣たちは警戒心が強いのだ。
しかし、魔獣は違う。
鳴子の存在など気にもしない。
だから、『魔獣狩り』は鳴子をよく利用する。
普通の獣を追い払い、魔獣の侵入を把握するために。
『厄獣』は魔獣の中でも別格の存在だ。
『最強』で『最凶』。
鳴子に触れたことなど、ノミが背中に乗ったほどにも感じないはずだ。
じゃあ、この状況をどう考える?
鳴子に引っかかったのは別の獣、あるいは魔獣ということか。
ありうる。ありうるが、しかし……。
メッシーナは首を振った。
……いや、並みの獣を近づけさせないために、俺たちはウサギの死がいを置いたんじゃないか。
臆病な獣は追い払い、獰猛な魔獣だけをおびき寄せるために。
もし、鳴子にかかったのがほかの魔獣であれば、なおのこと、すぐ姿を確認できたはずだ。
血と肉の気配に、やつらは抗いきれないのだから。
すぐに『エサ』に飛びつくはずなのだ。
じゃあ、この違和感は何なのだ?
鳴子の音が聞こえたのが一度だけというのも気になる。
こちらに迫っているのであれば、ほかの鳴子も反応するはずだ。
鳴子は、罠を中心とした同心円状に展開している。
聞こえたのは、もちろん一番外側の鳴子だ。
こちらへ迫るにつれて、次に近い鳴子、さらに近い鳴子へと、音が聞こえるはずだ。
しかし、鳴ったのは外側からの一度きり。
それは、つまり、『厄獣』が罠の外側から一歩も足を踏み入れていないことを意味する。
……くそっ! 失敗か?
メッシーナが心の内で舌打ちしたとき、再び鳴子の「からから」という音が響いた。
さっきより近い音だ。
メッシーナは安堵のため息をついた。
……ようやく、こっちへ来る気になったか……。
ずいぶんと用心深いやつだな。
最初の鳴子で、しばらくあたりを探っていたのか。慎重なやつだ。
だが、この我慢比べは俺たちの勝ちだな。
お前は我慢できずに罠へ足を踏み入れた。
もうすぐ決着のときだ!
「からから」
ほとんど間を置かず、別の鳴子が鳴り響いた。音はかなり近い。
『厄獣』がさらに近づいていることを示す音だ。
……さぁ! どこから現れる?
がさり。
メッシーナが見張る正面の茂みが大きく揺れるとともに、黒いものが盛り上がるように姿を見せた。
いかにも堅そうな、黒茶色の毛に覆われた巨大な塊だ。
……来た! 『厄獣』
メッシーナは黒い塊に狙いを定めた。
『厄獣』らしき黒い塊は、茂みで足を止めると、そのままじっと動かなくなった。
茂みから出ると、エサのウサギは目と鼻の先である。
この期に及んで、相手は警戒しているようだ。
……何だ、本当に用心深いやつだな。
すぐ目の前にエサがあるとわかっているだろうに。
そこで足を止めるか。
メッシーナは少し呆れていた。
エサと見れば脇目もふらず襲いかかる魔獣とは思えない。
しかし、これは普通の熊の行動でもない。
普通の熊であれば、おそらく、顔だけは出して見せるだろう。
このように茂みに顔を隠して、あたりをうかがうなどはしない。
……だが、頭隠して何とやらだ。
でかい背中は隠しようがねぇぜ!
メッシーナは狙いを定めたまま思った。
そして、考えた。
このまま、やつが動き出すのを待っても仕方がないのではないか。
距離は、充分にやつを狙える位置にある。
つまり、今、やつを狙い撃つのも可能ということだ。
やつは茂みに顔を隠している状態だ。
つまり、視界は良くない。
おそらく、やつの神経はエサであるウサギの周囲に集中している。
まさか、頭上から矢が狙っているとまでは考えもしないだろうし、飛んでくる矢は視界に捉えづらく、避けるのは困難なはずだ。
もし、ウサギの周囲に張り巡らせた罠に勘づかれることがあれば、『厄獣』はそのまま後退して姿を消すかもしれない。
つまり、機会を逸することになる
熊は学習能力の高い生き物だ。
一度見破った罠には二度と引っかからない。
このまま取り逃がすことになれば、やつはさらに手ごわい相手になるだろう。
やるのなら今しかないのではないか?
メッシーナは慎重に狙いを調整した。
体格から判断して、急所の首もとはちょうど茂みの真ん中あたりだ。
そこへ矢を撃ちこむ。急所を外すかもしれないが、こちらには『二の矢』がある。
もし、一本目が急所を外したら、『厄獣』は顔を茂みから出して、こちらを視認しようとするだろう。
そうなれば確実に急所である首の位置も見えるようになる。
二射目はそのときに命中させるのだ。
メッシーナはこうして、これまで獲物を仕留めてきた。
矢を続けざまに放てる、メッシーナだからこそできる技だ。
……やるぜ、俺は! 必ずやつを仕留める!
万が一、それで仕留められなくても問題はない。
『厄獣』は狙撃者である自分を狙って大木へ突進するだろう。
そのとき、両側からアラドとバット・ダガーが飛び出して、『厄獣』に襲いかかる。
『厄獣』がふたりに対処しているすきに、こちらはとどめの三射目を放てばよいのだ。
こちらに近づけば近づくほど、こちらの弓の精度は上がる。
さすがに三射目となれば、急所を外すことなく射貫けるだろう。
完璧だ。
メッシーナは腹を決めると、さらに弦を引き絞り、矢を放った。
そして、標的に当たったかを確認することもなく次の矢をすばやくつがえる。
矢はまっすぐに茂みに突き刺さって奥へと消えた。
黒い塊がぐらりと揺れる。
……命中した! しかも、首だ!
メッシーナは確信した。
急所を外せば、すぐに身体を起こすはずだからだ。
メッシーナは続けざまに二射目を放った。
次の矢も同じように茂みを貫き、黒い塊はぶるぶると身体を震わせた。
「やった! 二本とも急所に命中させたぞ!
やつは毒で動けない状態だ!
アラド! バット! とどめを刺せ!」
メッシーナが怒鳴ると、アラドとバット・ダガーは身を潜めていた茂みから姿を現した。
「まったく、勝手をしやがって!
でも、よくやった!」
アラドはメッシーナに怒鳴り返すと、槍を構えたまま茂みへ突進した。
アラドも獲物の姿を確認していたのだ。
アラドはバット・ダガーに目くばせすると、茂みの両側から飛び込んだ。
そして、そのまま槍を突き立てようと獲物に身体を向けた――。
40
「何?」
アラドは、ぽかんと口を開けた。
向こう側では、バット・ダガーも同じように口を開いている。
そこには『厄獣』の姿はなかった。
いや、『厄獣』と思ったものは残っている。
それは……、大きな、何かの獣の毛皮だった。
いや、何かではない。巨大な熊の毛皮だ。
そして、それにはアラドもバット・ダガーも見覚えがあった。
メッシーナが放った矢は、かつて首があったと思われる個所を正確に貫いていた。
しかし、矢が貫いているのは、人間が首回りに毛が当たらないように縫い込んだ柔らかい布だ。
……これはマジが羽織っていた毛皮!
毛皮だけがなぜ?
毛皮が『厄獣』のように見えたわけはすぐにわかった。
茂みの裏には別の茂みがあり、この熊の毛皮は、それを覆うようにかけられていたのだ。
茂みはこんもりと盛り上がっており、それを覆った毛皮は、まるで熊の背中のように見せたのだ。
「やつをおびき寄せるつもりが、逆におびき寄せられた?」
アラドの額に汗が流れた。
慌ててあたりに目をやる。
「うわぁああああ!」
背後から悲鳴が響いた。
振り返ると、厄獣の巨体がメッシーナが登っている大木に向かっている。
メッシーナは慌てて矢を放っているが、まるで狙いが合わず、地面に突き刺さっただけだ。
まるで予想外の方角から『厄獣』が現れたので、メッシーナは軽い恐慌状態に陥っていたのだ。
……まさか!
やつはメッシーナの毒矢を一番警戒して、やつの位置を探るのと同時に、俺たちをメッシーナから引き離したというのか?
……マジから奪った熊の毛皮をおとりにして、メッシーナから先に矢を撃たせて位置を把握し、俺たちが毛皮に向かっている間に、メッシーナを襲うつもりだったのか?
厄介な弓を先に始末して有利になるために!
アラドは『厄獣』のあとを追いながら考えた。
「馬鹿な、馬鹿な、そんな馬鹿なことが……」
――やつにそこまでの知恵があるというのか!
『厄獣』は大木にとりつくと、するすると木に登る。まるで、木の幹を走るようだ。
木の幹には『厄獣』対策で、毒を塗った『とげ』を刺しておいた。
しかし、『厄獣』は『とげ』の位置を知っているかのように、『とげ』を避けながら幹を登っていく。
……まさか……。
すぐ、エサに飛びつかなかったのは、俺たちが張っていることを察して、すべての罠を確認するためだったのか?
恐慌に陥りながらも、メッシーナは『厄獣』の行動を分析した。
実際、そうでなければ、こうも容易く、この大木をよじ登れるはずがなかった。
メッシーナは4本目の矢をつがえていたが、放つことができない。
自分の足もとは太い枝が広がっており、『厄獣』を狙うことができないのだ。
……これも計算なのか?
メッシーナは絶対の『恐怖』を感じた。
生まれて初めて味わう、『死』を間近に感じる恐怖だ。
「飛び降りろ、メッシーナ!
そこから離れるんだ!」
アラドは絶叫に近い声で叫んだ。
メッシーナは弓と矢を手放すと、大きく空中へ身を躍らせた。
その瞬間――。
『厄獣』も木から跳びはねると、まっすぐ空中のメッシーナへ飛んでいった。
巨体をものともしない大きな跳躍だ。
「嘘だろ!」
バット・ダガーの口から悲鳴があがった。
『厄獣』はメッシーナの胴体に嚙みついた。
巨大な牙がメッシーナの胸を貫き、メッシーナの口から血があふれ出した。
「メッシーナ!」
アラドの口からも悲鳴があがった。
『厄獣』の口から「ばきばき」とメッシーナの身体を嚙み砕く音が響く。
『厄獣』はそのまま地響きを立てながら地面に降り立った。
メッシーナを咥えたままだ。
メッシーナは両手をだらりとさせて、『厄獣』の口にぶら下がっていた。
メッシーナの両目は虚無の表情で、どことも見ていない、すでに生を感じさせないものだった。
「メッシーナ……」
アラドの口から呆然とした声が漏れた。
一瞬で、ほんの一瞬で、情勢が変わってしまった。
もはや、この地は『厄獣』を狩る場などではなくなった。
『厄獣』を仕留める最高の罠は、今や自分たちを絡み取る危険な場所と化していたのだ。
「ば、バット……」
アラドは『厄獣』に視線を向けたまま話しかけた。
ここにはたしか、あの罠が……。
「へ、下手に動くな。こ、ここは俺たちが……」
「うわぁあああああああ!」
かたわらから悲鳴が響き、見ると、バット・ダガーは自分の胸に手を当ててよろめいていた。
自ら仕掛けた、バネ仕掛けの槍が胸に突き刺さっているのだ。
「バット!」
アラドが叫んだ瞬間、『厄獣』が動いた。
『厄獣』はメッシーナを離すと、アラドめがけて突進したのだ。
アラドはすばやく向き直ったが、『厄獣』のほうが早かった。
『厄獣』が振りおろした前肢は、アラドの槍をへし折り、そのままアラドの身体に叩きこまれた。
アラドはもんどりを打ちながら地面に倒れこみ、そのまま動かなくなった。
『厄獣』の一撃はアラドの肺を潰しただけでなく、地面に叩きつけた衝撃で首の骨をも折ってしまったのだ。
バット・ダガーは地面に両ひざをついて、弱々しく息を吐いていた。
胸を貫いた槍は自力で抜くことができず、傷も深いものだった。
そんなバット・ダガーへ、『厄獣』はゆっくりと近づいている。
勝利を確信したかのような、堂々とした足取りだ。
「くそっ……、よせっ……、近づくな……」
バット・ダガーは口のはしに血のあぶくを浮かべながらつぶやいた。
力なく手をひらひらさせるのが精いっぱいだ。
『厄獣』はバット・ダガーの正面から向き合った。
口の周りを血に染めながら、黒く鋭い瞳でバット・ダガーを見据える。
『厄獣』とバット・ダガーの顔の距離は、ほんのわずかだった。
バット・ダガーは怯えた目を『厄獣』に向ける。
『厄獣』は、その目の前で大きく口を開いた。
そして、バット・ダガーの命を砕く、白い牙を眼前に見せつけた……。
41
「おい、レト。どうして先へ進む?
どうして、アラドたちを待たない?」
北へ向かう山道。
ペイピールは先頭を歩くレトに話しかけた。
ペイピールは後ろを気にしている。
ペイピールの視線は、すぐ後ろを歩くカップの、その奥へと向けられていた。
これまで歩いてきた、細い獣道が森の奥へ消えている。
3人はこれまで、この道を歩いて北を目指していたのだ。
「だいぶ待ちましたよ」
レトは荒い息を吐きながら答えた。
足を止める様子はない。
「僕は、ただ、位置を把握するためだけに、あそこに留まっていたわけではありません。
アラドさんたちが僕たちを探す様子があるか確認していたのです。
もし、アラドさんたちが、僕たちと合流することを目指していたのであれば、すでに合流できていたか、僕たちを探す声が聞こえたはずです。
僕たちと、アラドさんたちとの距離は、それほど離れていたわけではありませんからね」
「だったら、もう少し待てばいいだろ!
あいつらはまだ、俺たちを探しているかもしれないじゃないか!」
「そうかもしれません。
ですが、そうじゃない可能性のほうが高いのです」
「おい……」
「僕は今、賭け事をするつもりはありません。
生き延びるために必要なことをする。それだけです。
ペイピールさんは、あの『厄獣』がどれほど危険か考えられていますか?」
「当たり前だ! あれはヤバいやつだ!
だからだろうが!
仲間を見捨てて俺たちだけで逃げるのが正しいのか!
ここは、あいつらを待って、力を合わせてやつと……」
「戦うのですか? 『厄獣』と。
アラドさんたちと合わせた6人で」
レトは足を止めて振り返った。
「僕は、それで勝てるとは思えません。
『厄獣』の行動は、こちらの予想を超えたものでした。
罠を見破り、逆に罠を利用してこちらを攻撃する。
『厄獣』の知能は非常に高いものです。
もしかすると僕たち以上かもしれない。
加えて、あの体格、パワーです。
僕たちが少数集まったところで敵いません。
しかも、ここは人間にとって動きづらい森です。
地の利も『厄獣』側にあるのです。
アラドさんたちは、『厄獣』に追いつかれたか、あるいは、僕たちと合流することを断念して、違う道を進んでいると考えたほうがいい。
つまり、アラドさんとの合流は望みが薄すぎるのです」
「だからってよ!
お前は簡単に割り切ってられるのか?
下手すりゃ、あいつらを見捨てて逃げることにもなるんだぞ!」
ペイピールはレトを睨みながら怒鳴る。
レトはその怒りに燃えた視線を冷静な表情で受け止めた。
「正直、割り切ってはいません。
ですが、ここが戦場だと考えれば、僕はこうするしかないんです。
たとえ、非情とののしられようと、この決断こそが、僕たちの全滅を避ける唯一の道だと」
「ぜ、全滅だと……」
「僕は、最悪、そこまでの危険があると考えています。
さっきも言いましたが、『厄獣』は非常に知能が高い。
そして、僕たちを『狩る』つもりでいる。
ウザさんを食べることなく罠に利用したのがその証拠です。
『厄獣』の目的は、僕たちを『捕食』するのではなく、『殺戮』することなのです」
「『殺戮』……。俺たちを狩り殺すのが、やつの目的だと?」
「そう考えれば、あの吊り橋のことも理解できるのです」
「吊り橋……? あれは勝手に綱が切れたんじゃないのか?」
ペイピールは不思議そうな表情で問いかける。
レトは首を左右に振った。
「あの吊り橋が安全に渡れるものなのか、僕たちは最初に確認しています。
そのときには何の異常も見られなかった。
弱くなっている箇所、切れかかっている箇所はまったく無かったんです。
それなのに、あの吊り橋の綱は切れた。
僕たちが最初に渡ったあと、何者かが綱に切れ込みを入れたのです」
「それはケドルのしわざじゃないのか?
あいつは俺たちを裏切って逃げた。
ついでに俺たちをいけにえにするために、吊り橋に切れ込みを入れたんじゃないのか?」
「それはありえません。やったのは『厄獣』です」
「根拠はあるのか?」
「ケドルさんの行動を考えてみましょう。
僕たちを置いたケドルさんは、まず、あの橋を渡って、向こう岸へ向かったはずです。
ルピーダさんがしたように、カンタ村への撤退があのとき最良の行動だった。
ケドルさんは一目散に橋を渡って村まで逃げたはずです。
もし、僕たちをいけにえにして逃げるつもりなら、綱に切れ込みを入れるなんて微妙なことはしません。
こちらの岸へ確実に残すため、橋はさっさと落として逃げ道を取り除くでしょう。
切れ込みを入れる、ではなく、切ってしまうはずです」
「う、うむ……」
ペイピールはうなった。
「それと、切れ込みがあったのは、吊り橋を渡った側の柱ではなく、渡る前の柱からぶら下がる綱でした。
ケドルさん自身が危なくなるのに、橋を渡る手前で綱に切れ込みを入れることはしませんよ」
「そ、そうか……。そうだな……」
さすがに、ペイピールも納得するしかなかった。
「レト。お前、さっきはずっと黙り込んでいたのは、そういうことを考えていたからなのか」
カップが肩を揺らしながら尋ねた。肩には弓をかけている。その位置を直したようだ。
「そうです、カップさん。
僕は、今ここにある状況を、偶然そうなったではなく、意図的に……、この場合は『厄獣』によって、ですが、仕組まれたものだと考えています。
そうなれば、僕たちの利点は、離脱魔法によって、『厄獣』の想定以上の距離を稼げていることでしょう。
つまり、あの場で時間を費やすことで、その利点を自ら捨てることになるのです。
だからこそ、僕は決断しました。
まだ、『厄獣』に追いつかれないうちに、この場から離脱するべきだと」
「おい、プライネスの若いの」
カップはペイピールに声をかけた。
「ここはレトに従って先へ進もう。
たしかに、アラドが追いつく様子がなかったのはおかしい。
あいつらは俺たちが飛ばされる方角を見ていたはずだしな。
あいつらと合流するのは諦めて、とにかく一番近くの村へ助けを求めるんだ。
なぁに、ウルバッハの連中だって、『厄獣』に襲われるなんて願い下げだろうから、協力を取り付けることはできるだろうさ」
ペイピールは頭をかいた。
「……ったく、わかったよ!
だったら、さっさと行こうぜ!
ぐずぐずできないんだろ!」
ペイピールはレトの前に出ると、今度は自分が先頭に立って歩き始めた。
42
ケドルたちを乗せた馬車は、プライネスの屋敷で一度は停まったが、それ以降は一度も停まることなくウルバッハ領へ戻っていた。
プライネスの屋敷を訪れると、思っていた以上にプライネスの用心棒たちが屋敷を守っていることがわかった。
執事のジドーは、それを悟ると、部下たちを表に出すことはせず、あくまで領主の使いとして、書簡を届けに来た姿勢を貫いた。
屋敷の門で、プライネスの執事に会うと、ルピーダに話したものと同じ用件を告げ、書簡を預けた。
門の陰には何人もの男たちが潜んでいた。
ジドーが下手に動こうものなら、門をはさんでウルバッハ家とプライネス家との抗争が勃発しかねない状況だ。
ジドーは冷静な姿勢を保ったまま、くれぐれも領主に伝えてほしいと頭を下げて門から辞した。
こうして、両家の戦闘は回避されたのだった。
ケドルはほかの用心棒たちと同じように馬車の中でジドーの戻りを待っていた。
「屋敷へ戻れ」
ジドーは馬車へ戻ると、静かな表情のまま馭者に行き先を告げた。
そのままケドルの座る長椅子に戻る。
「どうやら、『当たり』でしたか」
ケドルはささやくように尋ねた。
「カルロスはいない。
向こうの執事はそう答えた」
ジドーの返事は短かった。
「それを信じるので?」
「ウルバッハが攻めると予想したのであれば、カルロスが屋敷に留まっている理由はない。
屋敷のことは用心棒たちに任せて、自分は別の手勢を連れてどこかへ身を隠すだろう。
私の応対をした執事のそばには見慣れぬ男たちがついていた。
おそらく、私が知る手練れの連中は、カルロスのそばにいるということだろう。
『当たり』というより、『空振り』というのが正確だ」
「だから、ジドーさんの予想が『当たり』なのでしょう?」
「ふん」
ジドーはケドルの軽口に鼻息で応えた。
「状況は確認できた。
あとは、こちらの取るべきことを粛々とこなすだけだ。
まずは、各地の物見の体制を対『厄獣』用に変更する。
『厄獣』の侵入をいち早く察して、やつの現在地を把握するのだ。
『厄獣』に我々は何の手出しもしない。好きにさせておく。
ご領主様の見立てでは、やつはおそらく魔素の多い地域を目指して領内を横断するだろうとのことだ」
「指をくわえて見てろってことですか?」
「そういうことだ。放っておけ。
それとも、お前は熊と喧嘩して齧られたいとでも?」
ケドルは首を振った。
「とんでもない。まっぴらですよ、そんなの。
ただ、『狩り』の相手としちゃ、大物だと思うんですがね」
「ご領主様の趣味には合わぬ。
ご領主様が好むのは、必死で逃げる獲物だ。
こちらに歯向かうようなものではない」
「たしかに、そうでしたな」
ケドルはぴしゃりと自分の額を叩いた。
「『厄獣』はミルコ山地南端の『ベルク・ホーフ山』へ向かうのであれば、予想通りであるし、都合も良い。
やつがここに居座ることなく通り抜けるのであれば、何も問題はない。
それがご領主様のお考えだ」
「その間、どれだけ領民が食い散らかされるか知れませんぜ」
「お前がそれを気にするのか?」
「まさか。ただ、誰かが領外へ訴えたりしまいかってだけで」
ジドーは腕を組んだ。
「お前は何のために雇われている?
そういう者を逃がさぬためであろう。
そもそも、チョプスの件は、お前たちが油断していたから、あそこまで逃げられたのではないか。
役目を果たせない用心棒など、木偶の坊と言うしかない」
「厳しいお言葉で」
ケドルは首をすくめた。
「まぁ、この程度でやり過ごすことができれば問題はあるまい。
領民は、ブドウの収穫とワインの製造に必要な人員さえ押さえられれば、多少減ってもかまわんのだ。
ここから逃げる者、逆らう者はすべて取り除く。
我々がやることに変わりはない。いいな?」
「了解です、執事殿」
それからのふたりは、馬車がウルバッハの屋敷に到着するまで会話しなかった。
馬車はそれほどの時間を走ったわけではなかった。
おそらく、ウルバッハの屋敷は緩衝地帯に近い、領内でも東端側にあるようだった。
「馬を休ませてやれ」
馬車が停まると、ケドルは立ち上がって馭者に声をかけた。
「今日はもうどこにも出かけない」
馭者は無言でうなずくと、馭者台を降り、馬の背中に手をかけた。
馬車が停まったのは屋敷から少し離れた小屋の前だ。
そこはどうやら厩舎らしい。
ジドーはケドルや用心棒たちを従えて、そのまま屋敷の中へ入っていった。
馭者は馬からハーネスを外すと、優しく首を撫でながら厩舎へ連れて中へ消えた。
その場には馬が外されて幌かぶった荷台が3台残された。
やがて、荷台のひとつがうごめくと、後ろからひとりの少女が顔を出した。
メルルだ。
メルルはあたりにひとの姿が見えないことを確かめると、そっと荷台から降りた。
地面に降り立つと、少しよろめいた。足もとがおぼつかないらしい。
実際、隠し床の中は快適とはかけ離れた場所だった。
地面との衝撃はまともに来るし、耳元はガラガラと車輪の音が響いてやかましいものだった。
そのせいで、ジドーとケドルとの会話はところどころ聞き取れなかった。
しかし、それでもふたりの会話の大筋のところはつかめていた。
メルルがこんな思い切った行動をとったのは、ウルバッハ家があれほどにも王国からの救援を拒むのか、その理由を探るためだ。
不快を通り超えた『隠し床』の乗り心地で後悔しまくりであったが、その苦労をした甲斐はあったのかもしれない。
少なくとも、ウルバッハ家は領民の安全を守る考えがないことは確実だ。
この事実だけでも王国側に救援を頼む口実にはなる。
ただ、それだけではウルバッハ家を罰するわけにいかないのが問題ではあるが……。
――ここから逃げる者、逆らう者はすべて取り除く。
――我々がやることに変わりはない。
執事の発言は、圧政者ならではのものだ。しかし、これを「聞いた」という話だけでは何の証拠にもならない。王国の本格的な介入は望めないだろう。
……でも、レトさんたちや、領民の皆さんが危ないです。
問題の解決にはつながらなくても、今は、この状態だけでもどうにかしなきゃ……。
ただ……。
思い付きだけで行動してしまったために、今の自分は潜入の準備などしていない。
食料はもちろん、水でさえ携行していない状態だ。
普段使っている樫でできた魔法の杖も置いてきてしまった。
……今、自分が持っているものって……。
メルルはポケットをごそごそと探りながら、その場から立ち去った。