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こちらメリヴェール王立探偵事務所 5 ~狩人は闇に潜む~  作者: 恵良陸引


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狩人は闇に潜む 10

Chapter 10


43


 陽が落ち始めている。


 赤く色を染めた太陽は遠くに見える稜線に隠れようとしていた。


 レトたち3人は、汗をしたたらせながら道を歩いていた。


 この中にアルキオネの姿がない。

 彼女は、出発時にレトの頭から飛び立つと、一羽でどこかへ飛んでしまった。


 レトは無言で飛び去る彼女を見送るだけだった。

 見送るしかできなかった、と表現するのが正しいのかもしれない。


 彼らは途中で細い沢を見つけ、そこで水の補充はできた。

 しかし、食事らしい食事は摂っておらず、彼らは空腹と、長い道を歩き続けた疲労に苦しめられていた。


 彼らが口にできたのは、痩せた樹に実っていたわずかな山ブドウのみである。


 「ここで休みましょう」


 レトはあたりを見渡せる丘の上で足を止めた。


 返事はなかったが、カップもペイピールも近くの岩に腰を下ろして大きく息を吐いた。


 レトはこれまで歩いてきた道を見下ろせる岩に腰かけて、地図を広げた。


……川は西に折れているので、ここから先は水の補給は望みが薄くなる。

 しかし、その分、このあたりは獣たちも敬遠したくなるような場所だ。

 『厄獣』はともかく、ほかの魔獣の類に狙われる危険は減るだろう……。


 レトはそのように考えた。


 あれから、3人は動物の類といっさい遭遇することもなく進んできた。


 それは、魔獣に襲われることを警戒したレトが、こうした危険を回避するために道を選んだ結果であった。


 レトはかつて、魔の森『ミュルクヴィズの森』を歩いた経験があった。『勇者の団』の一員として、魔候アルタイルの軍勢と戦っていたころのことだ。


 行軍中は、魔獣に襲われることはほとんどなかった。

 いくら血に飢えた魔獣といえども、大勢の人間たち相手に襲いかかろうとしなかったのだ。


 魔獣も、普通の獣と同じ思考で行動する――。


 これはレトが経験で得た知識だった。


 レトは3人ばかりしかいない状況で、何が一番の危険かを考えながら行動した。


 もちろん、『厄獣』からの襲撃は一番恐ろしい。

 しかし、それは一番の危険というわけではない。


 危険な生き物は『厄獣』以外にも存在し、それらに遭遇する危険のほうが大きいのだ。


 警戒すべき敵は『厄獣』だけではない、ということだ。


 次に問題なのは水の確保。そして、食料。


 ウザの探索のために、彼らは水以外を携行していなかった。

 状況が状況だったので、こればかりは悔やんでも仕方がない。


 レトは地図を頼りに、一番細い沢を探して、そこで水を補充した。

 川を避けたのは、そこに鰐魔が潜む危険があったからだ。

 レトは慎重に道を選んでいたのだ。


 魔獣との遭遇を避けたことと引き換えになったのは、食料の確保が困難になったことである。


 魔獣が多く存在するということは、そこには彼らの食料である獲物も豊富であることを意味する。


 逆に、魔獣がいないということは、そこは獲物も少ないということでもあるのだ。


……それでも、このあたりは、まだ果物や木の実が獲れる。

 これでどうにか飢えを満たすしかない……。


 獣の危険、水と食料の危険。これらはある程度のめどは立った。


――しかし……。


 レトは仲間を振り返った。


 カップもペイピールも無言のまま、したたる汗を拭うこともなくうなだれている。


……僕もかなり疲れている。しかし、ふたりの疲労はもっと深刻だ……。


 レトは細身の体格だが、意外と体力がある。

 かつての『討伐戦争』においても、もっとも元気に行軍していたものだ。


 王国兵士になることを目指し、子どものころから体力強化に努めてきた成果だ。


 そんなレトでも、今日の逃避行はかなり疲れるものだった。

 特別な訓練など受けていないカップやペイピールが相当にばててしまうのは当然だと言えた。


……今日はこのあたりで野宿するしかないか……。


 しかし、どこで休むのが正解なのか?


 魔犬ライラプスの襲撃に備えるのであれば、木の上で休むのがいい。

 しかし、『厄獣』は熊類だ。確かめていないが木登りは得意とみていいだろう。

 つまり、木の上だと事実上逃げ場がなくなるのだ。


 そうであれば、この丘が一番ましか。


 レトは立ち上がると、ふたりのそばへ歩み寄った。


 「皆さん、今夜はここで野宿しましょう。

 ここであれば広さがある分、いざというときに動きやすいです」


 ペイピールはだるそうに頭をもたげた。

 「ここで野宿だぁ……?」


 レトはうなずいた。「ええ」


 「ここは危険じゃないのか?

 これだけ開けていると、魔獣の類に襲われたりしないか?」

 カップも顔をけだるそうにあげて尋ねた。疲労のせいで目の下に隈ができている。


 「ここが安全だとは言えません。

 ですが、このまま森に入るよりだいぶましです。

 それに、ここであれば、魔法陣で防衛態勢を整えることもできます」


 「魔法陣で防衛態勢?」ペイピールが尋ねた。


 「昨日、メルルが拠点の丘で展開していたものと似ています。

 もっとも、僕は彼女と扱える魔法の種類が違うので、昨日とは違う魔法陣になりますが」


 「それで、ここは安全になるんだな? 任せる」

 カップは力のない声で言った。

 おそらく、もう歩かずに済むのであれば、どうでもよいというのが本音のようだ。


 レトはふたりにうなずいてみせると丘を下った。丘への入り口に剣を突き立てると、レトは左手に右手を添えて目を閉じた。

 すると、左腕を覆う鎧が淡く輝き、その光は剣に吸い込まれるように流れていく。

 光は剣を伝って地面に広がり、そこに大きな魔法陣が浮かび上がった。


 「まずはひとつ……」


 レトは深い息を吐くと、小さくつぶやいた。


 それから、レトは丘の周囲を回り、同じ作業を繰り返した。


 レトが丘の上に戻ったころは、あたりはだいぶ暗くなっていた。

 レトがふたりの様子をうかがうと、ふたりは地面に寝そべって、そのまま眠り込んでいた。

 『厄獣』に襲われる恐怖より、睡魔のほうが勝っていたようだ。


 「でも、そのほうが良いです」

 レトは真顔でうなずくと、ふたりの間に転がる岩の前に座って、岩にもたれた。

 その姿勢のまま、レトは剣を抱えて目を閉じた。



 夜が更けてきた。


 夜になって登り始めた月は、すでに西の空へ傾いていた。


 青白い月の光が丘の上を優しく照らす。


 座ったまま眠っていたレトは、急に目を開いた。

 その姿勢のまま左右に目をこらす。


……かすかに聞こえていた鳥の声や虫の声が消えた。

 まるで、森全体が息をひそめたようだ……。


 レトは自分の胸元に目を向けた。

 レトの胸には、王国より特別な職務についている証となる銀色のメダルがぶら下がっている。

 そのメダルが、まるで光を受けたように輝いていたのだ。


 レトはため息をついた。


 「やれやれです。

 あれだけ周囲に罠を張り巡らしたというのに、それにはまったく引っかからなかった、ということですか」


 レトは立ち上がって剣を構えた。


 「罠の内側に侵入者を告げる術式を張っておいて正解でした」


 レトは丘の一角に話しかけるようにつぶやいた。


 丘の上にはいくつもの岩が転がっていたが、その中でひときわ大きな岩が横たわっていた。


 しかし、レトの言葉に反応するように、その岩はむくむくと大きくなりながら動き出した。


 「どうやって罠を避けたんです?」


 月の光が岩の全体像を浮かび上がらせる。


 頭から背中にかけて走る三本の銀色の筋。岩に見えた『それ』は巨大な生物だった。


 「ウォオオオオオオオオ!」


 『厄獣』は、レトの問いに答えるように咆哮した。


44


 「な、なんだ!」


 『厄獣』の咆哮に、ペイピールは驚いた声をあげて身体を起こした。

 そして、『厄獣』が自分のすぐ近くまでいることに気づいた。


 「う、うわぁあああああ!」


 ペイピールは跳び起きると、カップのそばへ駆け寄った。


 「お、おい、おっさん、起きろ!」


 カップは揺り起こそうとするペイピールの手を払いのけた。

 「起きているわい、馬鹿者」


 カップは不機嫌な声で立ち上がり、腰の筒から矢を抜き出す。


 「おい、レト!

 早く逃げよう!

 お前のギューンって飛ぶやつで!」


 「もちろん、それは考えています」

 レトは『厄獣』から視線をそらさずに答えた。


 「ですが、その前にできるだけの抵抗はしようと思っています。

 皆さんもどうか、あと少し付き合ってください。

 あと、丘から逃げ出さないように。

 この丘の周囲は雷撃の魔法陣に囲まれています。

 そこに足を踏み入れると感電死してしまいます」


 「おいおい、そんな危ない魔法陣があったのなら、どうして、やつには通じていないんだ?」


 「その謎を明かすために、もう少し粘るつもりなんです」


 「やれやれ。

 その好奇心で死ななきゃいいんだがな」

 カップは矢をつがえながらつぶやいた。


 「好奇心じゃありませんよ」

 レトはそう言うと、剣先を『厄獣』に向けた。


 「火炎剛球インフェルノ!」


 レトの剣から炎が噴き出し、その炎は『厄獣』の眼前に迫った。


 『厄獣』は目の前に迫った炎に動じる様子を見せなかった。

 前肢を振り上げると、力強く炎を振り払った。


 「炎を打ち消しやがった!」

 ペイピールが叫んだ。


 「火を怖がらないのか!」

 カップも驚きの声をあげる。


 「まだです!」


 レトはふたりをかばうように右腕を広げた。

 剣は左手で握ったままだ。


 「衝撃波インパクト!」

 凄まじい衝撃の風が『厄獣』を襲う。

 しかし、『厄獣』は四肢を踏ん張り、その衝撃に耐えてみせた。


 「ウォオオオオオオオ!」


 勝ち誇っているのか、夜空に向かって咆哮をあげる。


 「だ、ダメだ。まったく通じてねぇ……。

 おい、もういいだろ?

 あのギューンってやつで……」


 ペイピールはレトの肩に手をかけてささやいた。

 完全に戦意を消失している。


 カップも弓を降ろすと、レトのかたわらに立って肩に手を置いた。


 「そうですね。ギューンってやつ、やりましょうか……」


 レトがそうつぶやくと、『厄獣』はさらに吠えながら立ち上がった。


 まるで通せんぼするように両腕を広げて立ちふさがる。


 「まさか……、そこも読まれているって言うのか……?」


 ペイピールの口から怯えた声が漏れる。


 「いいえ。今回は出し抜きます」


 レトは左手の鎧に右手を添えた。


 「離脱魔法イクストリケーション!」


 すると、『厄獣』の手前の岩が金色に輝くと、勢いよく『厄獣』めがけて飛び上がった。

 岩は『厄獣』の胸あたりを直撃し、さらに空へと舞い上がった。


 『厄獣』は岩に持ち上げられる形で空中に飛ばされる。


 「ウォオオオオオオオオオオオオ!」

 「な、な、なんだってぇえええ!」


 『厄獣』の咆哮とペイピールの叫び声が同時に夜空へ響き渡った。


 『厄獣』は空中に高く舞い上がり、そのまま丘のふもとへ落下していった。

 どおんという激しい音とともに地響きが丘全体を震わせた。


 続けて、巨大な太鼓を打ち鳴らしたかのような音が響くと、鋭い雷光が『厄獣』の落ちたあたりを貫いていった。


 「僕が仕掛けた魔法陣は発動しなかったわけではないようですね……。

 まぁ、空中に放り上げた『厄獣』が雷撃の魔法陣の上に落ちてくれたのは偶然ですが……」


 レトは冷静な声でつぶやいた。


 「おいおいおい。

 レト。あんた、俺たちは離脱魔法イクストリケーションで逃げるんじゃなかったのかぁ?」

 ペイピールはレトの肩をゆさゆさと揺さぶった。


 レトは少しだけペイピールに顔を向けた。


 「ちゃんと離脱魔法イクストリケーションを使いましたよ。

 ただ、今回魔法の対象にしたのは、僕自身の身体ではなく、あの大岩なんですけどね。

 離脱魔法イクストリケーションって、名前だと逃げるための魔法に思えるでしょうが、その効果は物体を力任せに遠くへ放り投げるものです。

 だから、逃げるためではなく、こうやって攻撃に転用するのも可能なんですよ。

 今回は、丘の上で一番大きな岩に術式を埋め込んで、『厄獣』めがけてぶつけてやったんです」


 「だからって……、ムチャクチャだぁ!」

 ペイピールはレトの肩にすがったまま絶叫した。


 「……で、やったのか?」

 カップはレトの肩越しに丘の下を見つめる。


 「……どうでしょうか。

 今ので倒せたのであればありがたいのですが」

 レトの言葉が終わらないうちに、

 「ウォオオオオ!」

 と、『厄獣』の咆哮が聞こえてきた。


 「……まだ、元気みたいですね……」


 「ど、どうするんだよ……?

 あの、岩をギューンとするやつは、まだ残っているのか?」

 ペイピールは声を震わせながらレトに尋ねる。


 レトは首を振った。

 「あの仕掛けは、あれひとつきりです。

 正直なところ、あれが最後で、最大の罠だったんです」


 しかし、レトの声は冷静だった。

 「とはいえ、けっこう痛めつけるのには成功したようです」


 『厄獣』が落ちたところは、土煙が舞って様子が見えなかったが、レトが話し始めたころにはだいぶ晴れてきていた。


 『厄獣』は土煙のなか、少しよろめきながら四肢で起き上がっていた。

 月明かりに照らされた『厄獣』の顔にはいく筋もの血が流れて地面にしたたっている。


 「まだ、続けますか?」

 レトは『厄獣』に話しかけるようにつぶやいた。


 しかし、『厄獣』は向きを変えると、伸びあがるようにして跳びはねた。大きな跳躍だ。


 勢いよく一本の樹の梢につかまると、樹の枝を伝いながら森の中へと姿を消していった。


 「……なるほど。樹上から魔法陣を飛び越えたわけですか……」

 レトは納得したように自分の顎に手をかけた。


 「おい、あいつを取り逃がすのか?」

 ペイピールは『厄獣』の消えた先を指さした。レトは首を振る。


 「僕たちが『厄獣』を撃退できたのは、『厄獣』にとって、僕の魔法が初見だったこと。地の利がこちらに有利だったことからです。

 逆に、暗い森の中は、『厄獣』の独擅場どくせんじょうです。

 あれは、ただ撤退したのではありません。

 もし、僕たちが調子に乗って後を追いでもしたら、返り討ちにするために誘っているわけでもあるのです」


 「やつは、そこまでのことができるって言うのか?」


 「僕の仕掛けた罠をかいくぐって、ここまで迫ってきたのです。

 そのぐらいのことはできるでしょう」


 レトの返事に対するペイピールの言葉はなかった。

 彼はただ、無言で森の奥を見つめながら震えていた。


45


 「おい、夜が明けたぞ」


 カップが声をかけてきた。


 あれから、3人は交代で眠ることにした。

 『厄獣』は撤退したものの、自分たちのことを諦めたと思えなかったからだ。


 レトは迎撃の魔法陣を張り直したが、それがどこまで通用するのか彼自身も懐疑的であった。


 「『厄獣』は人間の痕跡を視覚と嗅覚で勘づいているようです。

 さらに、その痕跡が罠を仕掛けたことまで分析できている。

 かなり知能が高い。

 僕たちが、まだ生きていられるのは、本当に運が良かっただけのように思います」


 魔法陣の展開を終えて戻ってきたレトは、ふたりに自分の考えを告げた。


 「なぁ……。やっぱり、アラドたちは……」


 「現時点では何も結論できません。

 ですが、最悪のことを覚悟して行動するべきでしょう」


 ペイピールが不安そうにつぶやいたが、レトは冷静な態度で応じるにとどめた。

 カップは無言だった。


 それから、見張りの順番を決めて、夜明かしをすることにしたのである。


 カップの声で起こされたふたりは、目をしょぼしょぼとさせながら起き上がった。

 快適とは言えない地面の上では、充分な睡眠が取れなかったのだ。


 「おはようございます、カップさん。

 何か気になることはありましたか?」


 レトは目をこすりながら尋ねた。


 「無かった、と言いたいところだがな。

 何せ、夜目が効くわけじゃないんだ。

 たしかなところはわからねぇよ。

 ただ、ほれ……」


 カップは東の空を指さした。


 「こうして、俺たちはお天道様が拝めたんだ。

 上出来じゃないか、なぁ?」


 こういう状況下では、カップのような存在は心が助かる。

 レトは微笑んだ。「そうですね」


 「腹減ったなぁ……」


 目覚めの一杯と、水を飲んでいたペイピールが、水筒から口を離してぼやいた。


 「水だけじゃ、腹はふくれねぇよ……」


 「あまり、水ばかり飲まないようにしてください」


 レトはペイピールに注意を促した。

 「ここから先は、水の補充ができるかわからないんです」


 「おい……、いったいどこに向かってんだ、俺たちは?」


 レトはペイピールの前に地図を広げた。

 カップはペイピールの頭越しに地図をのぞき込む。


 「僕たちの現在地はここです。

 僕たちはウルバッハ領を横断する川を越えて、北へ進んでいます。

 少し西へ進めば、ケドルさんが言っていた枯れた川に着くでしょう。

 僕たちは、この枯れた川と並行して北へ進みます。

 山をひとつ越えることになりますが、そこまで行けば、東西を走る道に出ます。

 西へ向かえばウルバッハ領、東へ向かえばプライネス領です。

 この道の東端はプライネス領主、カルロス・プライネスの屋敷に通じていますから、そこまで行けば助かると思います」


 「東西に走る道……。

 わかるぜ、フォーン街道だ。

 たしかに、ご領主様の屋敷に通じている。

 なんだよ、ずいぶんと歩いているじゃねぇか。

 いや、逆に言えば、あそこからここまで近づいたって言えるのか……」


 ペイピールは呆れた様子だ。


 「ウルバッハに行くほうが近くないか?」

 カップは自分の顎を撫でながら尋ねた。


 「おい、おっさん!

 何で、俺がウルバッハに助けを求めなきゃなんねぇ?

 俺はプライネスの用心棒だぜ!」


 「そこは状況に応じて判断しましょう。

 プライネスへの帰還が困難であれば、僕たちはウルバッハへ行く選択もするべきです。

 プライネスだの、ウルバッハだの、そんなことを言ってるのは人間だけの都合です。

 『厄獣』にとっては、そもそも国境すら関係ないのですから」


 レトの言葉に、ペイピールは次の言葉を飲み込んだ。

 ただ、不満そうに頬をふくらませただけである。


 「さて、方針も決まったところで……」

 レトはゆっくりと立ち上がった。

 「行くとしましょうか」


 * * * * * * * * * *


 ふかふかのわら草のお布団――。


 メルルは草の匂いに包まれながら眠っていた。


 一軒の農家の馬小屋だ。

 メルルは、昨夜はここに泊めてもらったのだ。


 昨日、ウルバッハの屋敷を抜け出したあと、メルルはプライネスへ戻るべく、街道をさまよい歩いた。


 距離があることはわかっている。

 ただ、馬車が通ってきた轍がまだ残っていた。

 それを辿れば、少なくともプライネスの屋敷に着くだろう。

 ジドーたちがプライネスの屋敷に立ち寄ったことはわかっていたからだ。


 とは言っても、朝から飲まず食わずで、体力は限界だった。

 ふらふらとしながら、ようやく一軒の小屋の脇に井戸があるのを見つけた。


 メルルは水を求めて井戸に手をかけたところ、井戸の持ち主である農婦に見つかったのである。


 そこは、年老いた農婦と小さな女の子ふたりが暮らす家だった。

 ふたりとも、例のプレートを首に着けていた。

 農婦が着けているのは年季が入っているらしく、名前の部分が黒ずんで読み取れなかった。


 逆に女の子のプレートは夕日を反射するほど新しいものだった。

 女の子は5才ほどであろうか。

 手足が細く、かなり痩せこけていた。

 初めは農婦の脚に隠れて、その隙間からメルルの顔をうかがうようにしていたが、慣れてくると、メルルのそばに寄るまでになった。

 しかし、その態度はぎこちなく、子どもらしい好奇心さえ持つことをためらわせているようだ。


 こんな小さな子どもの姿にさえ、圧政の陰が垣間見える。


 自分は今、ウルバッハ領にいるのだと、メルルは実感した。


 農婦には、魔獣に襲われて、ここまで逃げてきたと伝えた。

 嘘とは言い切れないが、ずいぶんと話をはしょった形だ。

 だが、さすがにウルバッハ家のことで見聞きしたことは話せなかった。


 農婦はメルルを温かく迎えた。

 水を飲ませてくれたあと、食事も出してくれた。

 薄い色のスープに小さい芋が転がっているものだった。

 メルルの実家も貧しい農家であったが、ここまでわびしい食事を見たことがなかった。


 少し戸惑いながらも、メルルは感謝の言葉を伝えて、それを口に運んだ。


 やはり、おいしくはなかった。


 しかし、空腹の身体には、それだけでもありがたい。

 メルルはようやく疲れた身体が軽くなった心地がした。


 メルルが食べている様子を、小さい女の子は興味深そうに眺めていた。

 頬が痩せこけているが、瞳が大きく、好奇心で目をキラキラとさせていた。

 メルルと目が合うと、慌ててテーブルの端に顔を隠す。ただ、頭の上でまとめた髪の毛がひょっこりとのぞいている。

 メルルは思わず微笑んでしまった。


 農婦とはあまり会話できなかったが、それでも、いくらか事情を知ることができた。


 もともと、この家には息子夫婦と住んでいたらしい。

 しかし、息子はある日、家に戻らなくなり、やがて、息子の嫁も姿を消した。


 そして、それはここで珍しいことではないという。


 こうして、年老いた農婦は、ひとり残された孫娘とともに、この家で暮らしているのだった。


 農婦は、こうしたことをぽつりぽつりと取り留めのないように語ってくれた。

 感情を感じさせない、静かな口調だ。

 メルルはそこに、農婦の諦観を感じ取った。


 おそらく、息子夫婦に何が起こったのか、この農婦はわかっているのに違いない。

 しかし、そのことで怒ることも、いや、悲しむことさえ諦めてしまっているのだ。


 人間から喜怒哀楽を奪ってしまえば、何が残るのだろうか。

 そして、その存在は『人間』と言えるのだろうか。


 農婦はメルルに優しさを見せてくれた。

 だからこそ、このひとはまだ人間であることが保たれているのだ。

 メルルはそう思った。


 夜が更けると、農婦は今夜は馬小屋で休むといいと言った。

 客をもてなせるような家でないことを詫びながら。


 メルルは首を振った。

 農婦の家は狭く、ところどころ壊れていた。


 おそらく息子夫婦が使っていたであろうベッドも脚が壊れて使い物にならなかった。


 農婦と孫娘は、残されたひとつのベッドで寝ているようだった。


 唯一残されたベッドを自分が使うわけにはいかない。

 農婦に謝ってもらうことなど何もない。

 むしろ、こんな状況でもメルルを気遣ってくれたことに感謝しかなかった。


 こうして、メルルは馬小屋で束になったわら草にもぐり込んで一夜を明かしたのである。


 わら草の中は心地よく、メルルは昔の夢を見ていた。

 田舎で家族と暮らしていたころの夢だ。


 無骨ながらも優しい父。

 普段は穏やかながらも、怒ると怖かった母。

 いつも笑顔だが、行儀作法にはやかましかった姉。

 メルルの後ろをくっついて自分の真似をしたがった妹。

 甘えん坊で、泣きべそばかり見せていた末の弟。


 そんなみんなと食卓を囲んで笑っている光景。


 食卓に並んでいるのは粗末ながら、たくさんの料理。

 母と姉が腕を振るって作ってくれた美味しい料理だ。


 メルルは夢中になって料理を頬張り、姉がたしなめ、妹たちが笑い出す。


 個性はばらばらなのに、家族一緒にいると、何かひとつになった気持ちになれる――。


 自分が置いてきた世界の夢――。



 突然、腕をつかまれて、メルルは夢の世界から目覚めた。

 腕をつかんでいたのは見たことのない男だ。


 「え、え、何?」


 メルルはわけがわからない状態のまま、力づくでわら草から引きずり出された。


 身体中にからみついたわら草を落とすこともできずに、小屋の外へと連れ出される。


 馬小屋の前には、体格のいい男たちが取り囲んでいた。


 その中にひとりだけ、見覚えのある顔があった。


 「よう、お嬢ちゃん。ここで会うなんて奇遇だな」


 ケドルが、これまで見せたことのない残忍な笑みを浮かべて立っていた。


46


 メルルは抗ったが、少女ひとりの腕力は知れている。

 両腕をつかむ男の力は強く、とても逃れられようがなかった。


 魔法を使おうと口を開きかけると、


 「おい、こいつは魔法使いだ。

 呪文を唱えさせるな」


 と、ケドルの指示が飛んだ。


 すぐにメルルの口は押えられ、さるぐつわをかまされてしまった。


 メルルは抗いながら周りの様子を確かめようとした。自分を迎え入れてくれた農婦たちは無事なのか……。


 農婦は孫娘の手を引いて、ケドルのすぐ後ろに立っていた。

 メルルは驚いて両目を見開いてしまった。

 何が何やら意味がわからない。


 農婦はたどたどしい口調で、自分たちはあの魔法使いの娘に脅かされて、仕方なく泊めてやったのだとケドルに説明している。

 メルルが眠っている間に、隙を見て通報をしたのは自分だ。

 自分は領民として、しっかり役目を果たしたのだ、と。


……そんな……。


 メルルは、農婦によってケドルたちに密告されたのだと知った。


 昨夜の農婦に、そんな考えがあるようにまったく見えなかった。

 どこにでもいる、朴訥な農婦だった。


 それなのに、メルルが眠っている間に、彼女はウルバッハ家の連中に、自分の馬小屋にメルルがいることを密告したのだ。


 ふいに、メルルはレトが話していたことを思い出した。

 ウルバッハ領では、領民に互いの行動を監視させ、密告させる制度があるということだった。


 つまり、農婦はその制度に従っただけにすぎない。

 たとえ、それが領民同士の結びつきを弱め、領主がいつまでものさばり続けるのだとわかっていても、彼らはそうするしかないのだ。

 いつ、誰が自分を密告するか知れたものでないからだ。


 メルルは農婦の表情をじっと見つめた。

 農婦は、メルルの視線に気がついて顔をそむける。

 その横顔には、メルルを売ったことに対する後ろめたさは感じられない。

 しかし、役目を果たしたという誇らしさも見られなかった。

 そこに、人間らしい感情を見出すのは難しかった。


 農婦はただ、自分たちは被害者なのだということをひたすら訴え続けていた。


 孫娘は不安そうな表情を隠そうともせず、祖母の顔を見上げ続けている。

 何が祖母をここまで必死にさせているのか、この子にはまだわからないのだろう。

 それがわかるようになったとき、この子もまた、祖母と同じ表情で生きていくことになるのだろうか……。


 メルルはその様子を見て、涙があふれそうになった。


 このひとのことを、私は決して恨むまい――。


 メルルはそう心に決めた。


 このひとは何も悪くない。

 このひとはただ、孫娘との暮らしを守りたいだけなんだ。

 悪いのは、むしろ自分だ。

 自分のせいで、彼女たちは命の危険にさらされることになってしまったのだ。


 そう。農婦はただ、危険を回避するため、異物を取り除いただけだ。


 メルルという、異邦の地から入り込んできた異物を……。


 メルルは連れ去られる前にどうにか、農婦と女の子に視線を向けた。

 農婦は顔をそむけたままだが、女の子はメルルの顔を見つめている。

 メルルが連れ去られることがわかったのだろう。

 女の子の唇は恐怖でわなわなと震え、今にも泣きだしそうだった。


……怖がらないで……。


 メルルはさるぐつわをかまされたまま、必死で笑顔を作った。

 女の子に向けて、笑顔で強くうなずいてみせる。

 女の子はきょとんとして、続けて困惑の表情を浮かべた。

 メルルの笑顔の意味がわからなかったのだろう。


 しかし、女の子の表情から恐怖は消えた。今はそれだけでいい。


 メルルは覚悟を決めて顔を伏せた。

 それで抵抗しない意志を示したのだ。

 それにこれ以上、作り笑いを続けるのは難しかった。

 笑顔を失った自分の顔を見せて、女の子を再び恐怖に陥らせるわけにはいかないのだ。


 ケドルはおとなしくうなだれているメルルの姿に満足したようだった。


 「こいつを屋敷へ連行する。

 馬車に乗せろ」


 ケドルは部下に命令した。


 メルルはさるぐつわに加え、両手を後ろ手に縛られて馬車の荷台に放り込まれた。


 「よし、行くぞ!」


 ケドルの合図で馭者は手綱を振るった。

 メルルは荷台で身動きのできないまま、馬車で連れ去られた。


 * * * * * * * * * *


 「おい、今度は本当に飛ぶんだよな?」


 ペイピールはレトの肩につかまりながら尋ねた。


 一夜を明かした丘の上だ。

 3人は、この丘から離れて北へ進むことにしていた。

 ただし、丘の周囲はレトが張り巡らした罠の魔法陣が残っている。


 罠を安全に回避すると同時に、間近まで迫った『厄獣』との距離を広げるため、レトは再び『離脱魔法イクストリケーション』を使うことにしたのだ。


 「今度は本当に僕たちが飛びます」


 レトは請け合った。


 「『太古の裂け目』に向かうなんてないよな?」


 カップは少し不安げだ。

 最初にレトが話したことを覚えているのだ。


 「今回は鎧に仕込んだものではなく、一から地面に展開した魔法陣を使います。

 方角、距離も含めて計算されていますから大丈夫ですよ」


 レトの自信に満ちた答えに、カップも安心したようだった。

 彼も大きな手を伸ばしてレトの肩をつかむ。


 「では、北の街道目指して飛びます。

 『離脱魔法イクストリケーション』!」


 レトが魔名を唱えると、3人は光の球体に包まれ、次の瞬間には空へ飛翔していた。



 丘から離れた森の中。


 高い大木の梢から、赤く光るふたつの目が枝葉の中から丘の上を見つめていた。

 まるで監視しているように。


 その目は、3人がはるか遠くへ飛び去るのを見届けると梢から消えた。


 大木が揺れ、木の葉がさざめくと、そこから一頭の巨大な熊が姿を見せた。

 『厄獣』はするすると大木から降りると、確信を持ったような足取りで3人が飛び去った方角へと歩き出した……。

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