第七話 いつも通りの落第
翌朝、俺はいつも通り乾いたパンをかじりながら教室へ向かった。
昨夜のことがまるで夢のようだった。だが、体の奥で静かに脈打つ熱が、あれが現実だったことを絶えず教えてくれる。
『相変わらずひどい飯を食っているな』
頭の中にアイシャの声が響いた。振り向くと、俺のすぐ隣を彼女が涼しい顔で歩いている。
銀の髪も、金の瞳も、昨夜のままだ。だが、すれ違う生徒たちは誰一人として彼女に気づかない。まるで透明な水の中を歩く魚のように、彼女はこの世界をすり抜けていく。
「あんたずっとついてくるのか」
俺は口を動かさないよう気をつけて小声で返した。
『当然だろう。私はお前の中にいるのだからな。それに五百年ぶりの外の世界だ。物珍しくて仕方がない。見ろ、あの窓の硝子。私の時代にはあんなに澄んだ硝子は作れなかった』
アイシャは廊下の窓や、行き交う生徒たちを、子供みたいな顔で眺めていた。
世界を滅ぼしかけた災厄と語り継がれる魔王が、朝の学舎の何もかもにいちいち感心している。その落差がなんだかおかしかった。
『あの壁の灯りは油も使わずに燃えているな』
彼女は廊下の魔導灯を指さした。
『まがいものとはいえ器用なことをする』
「あれは魔石で光ってるんだよ。授業で習う……いや、あんたには関係ないか」
『ふん。私の時代は、灯りが欲しければ、指先で陽だまりを生めばよかった。魔石だの術式だの回りくどいことだ』
当たり前のようにとんでもないことを言う。俺は思わず苦笑した。
この魔王にとっては、俺たちが必死に習う魔法など原始的な手品にすぎないらしい。
「よお、落第」
教室に入るなり、いつもの奴が足を突き出してきた。俺はそれを難なく、いや、危うく完璧に避けそうになって慌ててわざとつまずいた。教科書が床に散らばる。
『なぜ避けない』
アイシャが露骨に眉をひそめた。
『あの程度、目を瞑っていても躱せるだろうに。わざと転んでやる義理がどこにある』
その通りだった。昨夜からこの体はまるで別物だ。空気の流れも、相手の重心の傾きも、手に取るように分かる。あんな稚拙な足払い避けるまでもない。
だが、それを見せるわけにはいかない。落第は落第らしく、無様に転んでみせなければ。
「悪ぃ悪ぃ、空気みてえな奴がいるとは思わなくてさ」
どっと笑いが起きる。俺は黙って教科書を拾い集めた。
『いいのかこれで』
アイシャの声には微かな苛立ちが滲んでいた。
『こいつらは、お前を虫けらのように扱っているぞ。指一本で黙らせられるものを』
「いいんだよ」
俺は床を見たまま唇だけで答えた。
「今まで通りだろ」
だが、正直に言えば気分はそう悪くなかった。こいつらは俺を空っぽの落第だと信じ切っている。
今この教室で笑っている連中の全員を指一本で塵に変えられる相手が目の前にいるとも知らずに。その滑稽さが、三年間の屈辱をほんの少しだけ軽くしていた。
知らないって幸せなことだよな。心の中でそう嗤う自分がいて俺は少し驚いた。
こんな余裕、三年間一度だって持てなかったのに。力とはこういうものなのか。刃を隠し持っているというだけで、世界の見え方がこうも変わる。
『顔つきが変わったな』
アイシャが俺の横顔を覗き込んで言った。
『昨日までのお前は死んだ魚のような目をしていた。だが今は、少しだけ生きている者の目だ』
「そんなにひどい目をしてたか」
『ああ。見ていて気の毒になるほどな』
俺は苦笑した。確かに三年間、俺は死んだように生きてきた。何も期待せず、何も望まず、ただ嗤われるのに耐えるだけの日々。
だが今は、この胸の奥に誰にも見えない熱がある。それだけで同じ景色がまるで違って見えた。
嘲笑が痛くない。侮蔑がこたえない。なぜなら俺はもう知っているからだ。
こいつらが俺を測るために使っている物差しが間違っていることを。俺の中にあるものは、最初からこいつらには測れないことを。
これは優越感とは少し違った。むしろ静かな解放だった。
三年間、俺を縛りつけていた「落第」という言葉が、実は俺自身の価値を決めるものではなかった。そう気づいただけで、肩にのしかかっていたものが少しずつ消えていくようだった。
一限目は、また実技だった。
教官が生徒を順に当てていく。詠唱一つで、炎が舞い、氷が煌めき、風が的を撃ち抜く。
俺の番になると、教官はやはり気まずそうに「ヴァンフォードは見学で」と言った。いつもの、憐れむような態度だった。
だが今日は、その憐れみがほんの少しだけ心地よかった。見学でいてくれるなら、力を隠すのにこれほど都合のいいことはない。俺は素直に壁際へ下がった。
演習が半ばに差し掛かった頃事件は起きた。
アレク・フォンティスがこちらを見てにやりと笑ったのだ。学院首席にして宰相家の嫡男。セリアを俺から奪った、あの男。
「なあ落第。せっかくだ、久しぶりにお前の魔法とやらを見せてくれよ。もしかしたら、三年ぶりに何か出るかもしれないぞ?」
教室が期待と嘲りの入り混じった空気で沸いた。教官が止めようとしたが、アレクは構わず続けた。
「ほら、これを使え」
彼は指を鳴らし宙に小さな炎の球を生み出すと、それを俺の足元へ放った。挑発だ。避ければ臆病者当たれば見世物。どちらに転んでも俺を笑い者にするための計算された一手。
炎が俺の足元で爆ぜる。
『レイ』
アイシャの声が鋭くなった。
『そのままでは火傷するぞ。だが避ければ器を疑われる』
俺が判断するより先に、俺の体がーーいや、俺の器が勝手に動いていた。
足元に迫った炎の熱がすうっと吸い込まれるように消えたのだ。俺の中の底なしの虚無が、無意識にそれを一滴残らず飲み込んでいた。火の粉ひとつ俺には届かない。
「あれ?」
アレクが怪訝な顔をした。放ったはずの炎が、まるで最初から存在しなかったかのように跡形もなく消えている。
「なんだ、今の。不発か? この私の炎が?」
周囲がざわついた。だが誰も真相には気づかない。アレクの魔法がたまたま失敗した。せいぜいそういうことにしかならない。
「ちっ、しけてやがる。演習の空気が湿ってるんだろ」
アレクは苛立たしげに舌打ちして、興味を失ったように背を向けた。
演習は何事もなかったかのように再開された。だが、その場には腑に落ちない顔をしている者がいた。
指導教官のモラン先生だ。
三年間俺のそばで、俺の無数の失敗をいちばん近くで見てきた人。そのモラン先生が消えたアレクの炎の跡と俺の顔を交互に見比べて、微かに眉を寄せていた。
彼はアレクの魔法がそう簡単に不発になる腕ではないことを知っている。
何かがおかしい。そう感じている顔だった。
だが、先生は結局何も言わず視線を演習に戻した。まさか、三年間ゼロだった落第生が炎を飲み込んだなどと思いつくはずもない。
それでも、俺は肝を冷やした。クラリスだけじゃない。俺のことを長く見てきた人間ほど、この小さな「違和感」に敏感なのだ。
俺は、心臓が痛いほど鳴っているのを感じながら、うつむいた。
危なかった。俺の意志とは無関係に力が働いた。制御できていない証拠だ。あと少し反応が大きければ、炎を飲み込むどころかこの教室ごと吹き飛ばしていたかもしれない。
『たいしたものだ』
アイシャが感心と警戒の混じった声で呟いた。
『無意識であれほどの炎を綺麗に無効化するとは。だが、危うい。お前の器はお前の意志より先に反応する。守りとしては優秀だが、隠す上ではむしろ厄介だぞ。いつどこで暴発するか分からん』
俺は額に浮いた冷や汗をそっと拭った。
その時痛いほどの視線を感じた。
顔を上げると教室の反対側から、クラリス・オルセンがこちらをじっと見ていた。あの感情の読めない紫紺の瞳で。
彼女はアレクの炎が消えたあの一瞬を見ていた。そして今俺を値踏みするように観察している。まるで、消えた炎の行方を俺の顔の上に探すように。
まずい。俺は慌てて視線を逸らした。
彼女は俺を詐欺師だと疑っている。あの測定の日からずっと。もしさっきの炎の消失に何か引っかかるものを感じ取ったのだとしたら、彼女の疑いはまた一歩真実へと近づいてしまう。
その後もクラリスは何も言ってこなかった。それがかえって不気味だった。
昼休み。俺はいつもの中庭の隅で、乾いたパンをかじりながらため息をついた。
「あんな無意識の反応があと何度か続けば、いずれ誰かに気づかれる」
俺は隣に腰かけたアイシャに小声でこぼした。
「制御を早く身につけないと」
「そう焦るな」
アイシャは俺の手のパンを物珍しそうに眺めながら続けた
「五百年ぶりに目覚めた私に比べれば、お前の適応は目を見張るほど速い。ところで、それはうまいのか?」
「うまくない。硬いし味もしない」
「ではなぜ食う」
「金がないんだよ。没落貴族の三男だぞ俺は」
「ふむ」
アイシャは少し考えて言った。
「いずれ、真なる魔法で地を肥やせるようになる。麦でも果実でも、好きなだけ実らせればいい。五百年前はそれが当たり前の光景だった」
俺はパンを噛む手を止めた。
傷を癒し、水を湧かせ、痩せた土地に実りをもたらす。さっき地下で聞いた言葉。それが当たり前だった世界。今の炎で人を焼くことしか教えない魔法とはまるで違う。
あいつらが「まがいもの」と呼ばれる理由が、少しだけ腹の底で分かった気がした。
「だが、その前に」
アイシャは真顔に戻った。
「あの銀髪の娘だ。あれは危険だぞレイ。他の連中とは目の付け所が違う」
「ああ。分かってる」
クラリスの紫紺の瞳を思い出して、俺はまた一つため息をついた。
その日の放課後。掲示板の前にいつになく人だかりができていた。俺も何気なく背伸びして覗き込み、そして血の気が引いた。
『実技評価試験の実施について』
全学年対象。魔法の発動を実技で審査し一定の基準に満たぬ者は進級不可。そうはっきりと書かれていた。
つまり俺は。人前で魔法を使わなければならない。
落第として失敗すれば退学。かといって、真なる魔法を見せれば災厄として狩られる。
どちらを選んでも行き着く先は破滅だった。
俺の周りでは生徒たちが浮き足立って話し込んでいた。
「腕の見せどころだな」
「審査員に気に入られれば、卒業後の推薦にも響くぞ」
「今から何を披露するか決めておかないと」
彼らにとって実技評価は自分を売り込む晴れ舞台だ。誰がいちばん派手な魔法を見せられるか。そういう華やかな競争。
だが俺にとっては違った。同じ舞台が俺には断頭台に見えた。
力を見せれば死ぬ。見せなければ終わる。このたった一枚の掲示が、俺の首にじわじわと縄をかけていく。同じ言葉を読んでいるのに俺とこいつらとでは意味するものがまるで違っていた。
掲示板の前で立ち尽くす俺の隣で、アイシャが小さく唸った。
『面倒なことになったな』
「ああ」
俺は掲示を見上げたまま答えた。
「面倒なんてもんじゃない。文字通り、命がかかってる」
周りの浮かれた喧騒がやけに遠く聞こえた。俺だけがみんなとは違う崖の縁に立たされている。その孤独は、三年前と何も変わっていない。ただ隠すものが正反対になっただけだ。
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