第二十三話 生贄
クラリスは旧棟にほど近い、聖導騎士団が接収した一室に幽閉された。
審浄の名を借りた、実質の尋問だった。禁忌への関与を認めよ。共犯者を吐け。同じ問いが幾度も繰り返される。だが彼女は一言も屈しなかった。
俺は、巡回の隙を突いて、その部屋の近くまで忍び寄っていた。壁越しに、尋問の声が漏れ聞こえてくる。
「共犯者の名を吐け。禁忌の術を、誰から授かった」ザルムの副官の、苛立った声。
「何度でも言うわ。私は何も授かっていない。宰相家の罪を、法に則って調べただけよ」クラリスの声は、疲れてはいたが一歩も引いていなかった。「証拠のない罪で人を裁くあなたたちの方こそ、よほど禁忌に近いんじゃないの」
打擲の鈍い音が、壁越しに響いた。俺は拳を握りしめた。あの気の強い娘が、俺のために、あんな連中に痛めつけられている。飛び込んで助けたい衝動が、喉元までせり上がる。だが、いまはまだその時ではない。俺は自分にそう言い聞かせた。
尋問は夜を徹して続いた。だが、クラリスは決して折れなかった。ありもしない共犯者の名も、覚えのない禁術のことも、断固として認めない。その芯の強さが、かえってザルムの疑念を煽っているのが、壁越しにも分かった。潔白を貫けば貫くほど、狂信者の目には、それが強靭な隠蔽に映る。まっすぐな人間ほど、あの手の狂気には、都合よく利用されてしまう。
俺は、闇の中で歯噛みした。彼女を救うには、一刻の猶予もない。ザルムは、じきに痺れを切らす。証拠が揃わずとも、見せしめのために、彼女を火にかけるだろう。それが、狂信の論理だった。
俺はその夜、地下の広間で頭を抱えていた。
「まともに助けに行けば、俺が真なる魔法を使ったと一発でばれる。《浄眼》の前で力を振るえば、それこそあの男の思う壺だ」
力を使えないというのが、これほどもどかしいとは思わなかった。あの魔狼を、指一本で消し飛ばせる。あの荒くれ者を、一瞬で沈めた。それだけの力を抱えていながら、いちばん助けたい相手の前で、俺は手も足も出せない。真なる魔法は、諸刃の剣だった。振るえば、守りたいものごと焼き尽くしてしまう。
「だから、頭を使え、か」俺は呟いた。「力に頼れないなら、なおさらだ」
「そうだ。力で叩き潰すのは最悪の手だ」アイシャは腕を組んでいた。「あの男は、それを待っている。真なる魔法さえ引きずり出せれば、あの男の狂った聖戦は正しかったことになる。お前が力を見せた瞬間、あの娘もろとも焼かれる」
「じゃあ、どうすれば」
「フォンティスの時と同じだ」声に鋭さが戻った。「力ではなく、急所を突け。あの男にも必ず、隠したい傷がある。狂信者ほど、その傷は深い」
「急所、か」俺は呟いた。「金でも脅しでも動かない男の、いちばん柔らかいところ」
「そうだ。あの手の男が最も恐れるのは、死ではない。おのれの信仰がまやかしだと暴かれることだ」アイシャは言った。「信仰こそが、あの男の背骨だ。それを折れば、あの男は立っていられなくなる。剣を振るうより、ずっと効く」
信仰を折る。だが、どうやって。英雄の嘘そのものを暴くには、まだ手札が足りない。俺は、もっと身近で、もっと確実な一手を探した。あの男の足元にある、動かしがたい矛盾を。
思考は、意外なところから繋がった。ザルムがクラリスに着せた罪は、封じの道具に通じていること。ならば、その罪をいちばん深く犯しているのは誰か。答えは決まっている。世でいちばん封じの道具に通じ、それを溜め込んでいる集団。ほかならぬ、聖導騎士団そのものだ。
俺は、思わず口の端を吊り上げた。狩人の掲げる正義が、そっくりそのまま、狩人自身を刺す刃になる。これほど痛快な返し技も、そうはない。
狂信者の急所。俺は考えを巡らせた。ザルムは金では動かない。脅しも効くまい。あの男を突き動かしているのは、絶対の信仰だ。英雄の教えと、聖導騎士団の正義。
だとしたら。その正義そのものが、まやかしだと突きつけられたら、どうなる。
「なあ、アイシャ」俺は顔を上げた。「あの騎士団は、封じの道具を狩り集めてきたんだよな。世に漏れ出さないように」
『ああ。連中は、その番人だ』
「じゃあ、この世でいちばん封じの道具を溜め込んでるのは、誰だ?」
アイシャが、はっと息を呑む気配がした。
『……聖導騎士団、そのものだ』
「そうだ」俺は頷いた。「フォンティスが集めた程度の数じゃない。連中は代を継いで、封じの道具を回収し続けてきた。つまり、この国でいちばん禁忌の道具を抱え込んでるのは、それを狩る側の、あいつら自身だ」
頭の中で、絡まっていた糸が一本に繋がっていく。
「ザルムは、クラリスを『封じの道具の記録に通じているから禁忌だ』と決めつけた。だったら、その理屈でいちばん罪深いのは、道具そのものを大量に抱えた聖導騎士団だ。あいつの論理を、あいつ自身に返してやればいい」
それは、フォンティスを崩したときと同じ理屈だった。相手を上回る力で叩き潰すのではない。相手が振りかざす刃の切っ先を、そのまま相手自身へ向け直す。虚ろな器が、放たれた力を飲み込んで、その重みで相手を沈めるように。俺の戦い方は、いつもそうだ。持たざる者には、持たざる者の戦い方がある。
『相変わらず、えげつない発想をする』アイシャが、感心とも呆れともつかぬ声で言った。『だが、悪くない。狂信者を、その狂信ごと道連れにする。実にお前らしい手だ』
「褒め言葉として受け取っておくよ」俺は肩をすくめた。「持たざる者は、相手の力を借りるしかない。宰相のときは査問官の刃を借りた。今度も同じだ。あの二つの権力を、噛み合わせてやる」
『査問局と聖導騎士団。犬猿の仲の二匹を、同じ骨の前に並べてやるわけか』アイシャの声に、獰猛な笑みが戻った。『いいだろう。噛み合った獣は、こちらが手を下すまでもなく、勝手に喉笛を狙い合う』
『……なるほどな』アイシャの声に、獰猛な笑みが混じった。『狂信者を、その狂信の論理で縛り上げるか。だがレイ。それを突きつけるには証拠がいる。聖導騎士団が封じの道具を抱えているという、動かぬ証拠がな』
「証拠なら、もうこの学院に来てる」
「デュラン・ヴァイス、か」
王室査問官。フォンティスの一件で、封じの道具の流通をいまも追い続けている男。宰相家が抱えていた道具の一部が、騎士団へ流れていたとしたら。その痕跡を掴んでいるのは、あの猟犬をおいて他にいない。
問題は、どうやってデュランを動かすかだった。あの査問官は、俺に恩を売る義理などない。それどころか、俺の底を覗きたがっている、油断ならない相手だ。
だが、そこにこそ勝機があった。デュランと聖導騎士団は、王家の中で長年、角突き合わせてきた宿敵同士。デュランにとって、聖導騎士団の秘匿を暴くことは、査問局の悲願であり、またとない手柄になる。俺が餌を撒く必要すらない。ただ、獲物の在り処をそれとなく教えてやればいい。あとは、あの猟犬が勝手に牙を剥く。
問題は、査問局と騎士団が、王家の中で決して仲がよくないことだった。片や証拠と法で秩序を守る査問局。片や信仰と武で禁忌を焼く騎士団。互いの領分を長年侵し合ってきた、宿敵同士。
その反目を利用する。
俺はその夜のうちに、クラリスの幽閉された部屋へ忍んだ。聖導騎士の巡回の隙を、常人離れした感覚で読み切り、影から影へ移る。窓の格子越しに、囚われた彼女へ声をかけた。
「クラリス」
彼女ははっと顔を上げた。憔悴の色はあったが、その眼の光は少しも翳っていない。
「……レイ? 馬鹿なの。こんなところに来て、あなたまで捕まったら」
「すぐ出す」俺は格子越しに低く告げた。「一つだけ教えてくれ。お前が集めた封じの道具の記録。デュランに渡した写しの、控えは、まだあるか」
「……あるわ。私の部屋の床下に」クラリスは、俺の意図を瞬時に察したようだった。頭の回転の速さは、こんな時でも鈍らない。
「でも、どうやって渡すの」クラリスが格子の隙間から俺を見た。「私はここから出られない。あなたが査問官に接触すれば、あなたも目をつけられる」
「心配するな。俺は、いちばん怪しまれない人間だからな」俺は口の端で笑った。「なにせ、《浄眼》にすら映らなかった、正真正銘の落第だ。そんな男が糸を引いてるなんて、誰も思わない」
クラリスはしばらく俺を見つめ、それから、ふ、と息を漏らした。「……本当に、変な人ね。こんな時に、そんな軽口を」。だが、その声には微かな安堵が滲んでいた。
「一つだけ、約束して」クラリスが格子の向こうから言った。その声が、初めて、微かに揺れた。「あなたが助けに来て、それであなたが捕まるなんてことに、なったら。私は一生、自分を許せない。だから、無茶だけは、しないで」
俺は、その言葉に少し驚いた。俺を暴こうとしていたはずの娘が、俺の身を案じている。
「善処するよ」俺は格子越しに笑ってみせた。「まあ、無茶をせずに聖導騎士団を敵に回す方法があるなら、教えてほしいくらいだけどな」
「……まったく」クラリスは、呆れたように、けれどどこか救われたように、小さく笑った。その笑みが、暗い牢の中で、やけに鮮やかに見えた。「まさか、あの記録で騎士団を?」
「察しがいいな」
「……無茶よ。聖導騎士団を敵に回すなんて」だが、彼女は微かに笑った。「あなた、本当にどうかしてる」
「よく言われる」俺は格子の隙間から、彼女の目をまっすぐ見た。「待ってろ。必ず出す」
クラリスはしばらく俺を見つめ、それから、そっと視線を落とした。
「……どうして、そこまでするの。私はあなたの敵よ。あなたの秘密を暴こうとしている」
「敵かもな」俺は格子から身を離した。「でもお前は、俺のために動いて、そこにいる。それで、じゅうぶんな理由だろ」
答えを待たず、俺は闇に溶けた。背後で、彼女が小さく息を呑む気配が、確かに伝わってきた。
その足で、俺はクラリスの部屋へ回り、床下から記録の控えを回収した。分厚い綴りだ。彼女が危険を冒して集めた、労苦の結晶。これを正しく使えば、狂信の刃をへし折れる。
あとは、これをデュランの目に触れさせる算段だった。俺は、査問官がよく通る中庭の一角に、その一部を偶然落ちていたように見せかけて置くことにした。デュランほどの男なら、その断片を見れば、必ず全体を嗅ぎ当てる。直接手渡すより、ずっと安全で、ずっと確実だ。俺の名は、どこにも残らない。
もっとも、賭けは賭けだ。デュランが餌に食いつく保証はない。あの男が、聖導騎士団との全面衝突を避けて、見て見ぬふりをする恐れもある。そうなれば、クラリスは焼かれ、俺の策は崩れる。だが、やるしかなかった。手をこまねいていれば、確実に彼女を失う。ならば、たとえ五分でも、勝ち筋のある賭けに、すべてを乗せる。
俺は闇に紛れて旧棟の地下へ戻り、最後の段取りを頭の中で何度も確かめた。明日、すべてが決まる。
舞台は整いつつあった。狂信の刃を、その刃自身の論理でへし折る。あとは明日、ザルムがクラリスの審浄を公開で執り行う、その場で。すべてをひっくり返す。
勝算は五分。だが、五分あれば、賭けるにはじゅうぶんだった。
その夜、俺はほとんど眠らなかった。段取りを何度も頭の中でなぞる。餌はもう撒いた。あとはデュランが動くかどうか。そればかりは賭けだ。
だが不思議と、恐れはなかった。守るべきものが、はっきりしているからだ。かつての俺は、失うものを何も持たなかった。だから何にも本気になれなかった。いまは違う。あの娘を助ける。ただそのために、頭が冴えていく。
窓の外が白み始めた。夜明けだ。決着の日が来た。俺は身を起こし、冷たい水で顔を洗った。鏡に映るのは、落第の顔だ。無力で、うだつの上がらない、いつもの顔。だが、その奥に宿る覚悟だけは、誰にも見えないはずだった。
支度を終え、俺は部屋を出た。廊下はまだ薄暗い。だが、じきに日が昇る。あの娘を、必ず取り戻す。その一念だけを胸に、俺は歩き出した。




