第十一話 王室査問官
実技評価から半月が過ぎた。
俺の周りの「妙な空気」は、消えるどころか静かに熟成されていた。
学外実習の魔狼騒ぎ。無力なはずの落第が、真っ先に動いてセリアを助け出したという事実。噂は尾ひれをつけて広がり、いまや俺はただの嗤いものではなく「よく分からない何か」として、遠巻きに見られるようになっていた。
嘲笑には慣れていた。だが、この訝しむ視線には慣れない。嗤う相手はこちらに興味がない。訝しむ相手はこちらを観察している。
『居心地が悪そうだな』
廊下を歩く俺の隣で、アイシャが涼しい顔で言った。
『だが、悪くない兆候だ。連中はもう、お前という存在を「無」として片づけられなくなっている』
「ちっとも褒め言葉に聞こえないんだが」
俺は口の中だけでそう返して足を速めた。
その日、学院に見慣れぬ馬車が入った。
黒塗りに金の紋章。王家の紋だった。しかも、剣と天秤を組み合わせたあの意匠。俺でも知っている。王室査問局。この国の秩序に仇なす者を、裁くよりも先に暴き出すための王家直属の機関だ。
降りてきたのは一人の男だった。
歳の頃は三十半ば。柔和な、人のよさそうな笑みを浮かべている。だが、その目だけが笑っていなかった。落ち窪んだ眼窩の奥で、灰色の瞳が、校舎を、生徒を、空気そのものを、値踏みするように舐めていく。
「王室査問官、デュラン・ヴァイスと申します」
男は出迎えた学院長に穏やかに一礼した。
「なに、ほんの定例の視察ですよ。半月ほど前、この一帯で少々……奇妙な魔力の揺らぎが観測されましてね。念のため、というやつです」
半月前。
俺の背筋を冷たいものが走った。俺がアイシャと契約を交わし封印を破ったあの夜。
『……来たか』
アイシャの声からいつもの軽さが消えていた。
『気をつけろ、レイ。あの男、感応持ちだ。魔力の気配を鼻で嗅ぐ猟犬のように追える。この学院でいちばん危険な人間だと思え』
「奇妙な魔力の揺らぎ、って」
俺は柱の陰で声を潜めた。
「あれは、あんたの封印が破れたときの……」
『そうだ。私が五百年ぶりに目覚めたあの一瞬の衝撃。あれがこの国の「核」に触れた。英雄の遺産は、その揺らぎの出所をいまも探している。この男はその手足だ』
「じゃあ、俺のことが、もうばれて……」
『落ち着け』
アイシャが遮った。
『まだ猶予はある。あの夜、爆発したのは一瞬の「衝撃」だけだ。いまのお前の器は、何も注いでいなければ、深い海の底のように静まり返っている。三年間あらゆる測定器がお前を「空」と映してきたのと同じ理屈だ。あの査問官も動いていない海は嗅ぎ取れん』
「つまり、力を使わなきゃばれない」
『そういうことだ。裏を返せば――ここで一度でも本気を出せば、あの男は即座に食らいついてくる。蝋燭一本灯すのすら、これからは命がけだと思え』
背中にじっとりと汗が滲んだ。
クラリスだけでも手に余るのに、今度は王家が猟犬を放ってきた。しかもその猟犬は、俺の力の匂いを正確に嗅ぎ分けられる。
息を潜めるしかない。今まで以上に、深く、静かに。俺はそう自分に言い聞かせた。
だが、世界はそれを許してくれなかった。
その日の午後。実技演習の最中にそれは起きた。
「なあ、落第」
アレク・フォンティスが、演習場のど真ん中で声を張り上げた。査問官の視察を、上級生や教官たちが遠巻きに見物している、その真っただ中で。
俺は嫌な予感がした。
「最近妙な噂を聞くんだ。お前があの魔狼騒ぎで大した働きをしたとか。無力なはずのお前が、な」
アレクは芝居がかった仕草で両手を広げた。
「オルセン嬢も言っているそうじゃないか。お前は何かを隠している。ただの落第じゃない、とね」
演習場がしんと静まった。
まずい。話の持っていき方がまずい。俺は努めて無表情を保った。
「だから、はっきりさせようと思ってな」
アレクはにやりと笑った。
「名誉決闘だ、レイ・ヴァンフォード。貴族の作法に則り、正式に申し込む。お前が本物の魔法使いなのか、それとも、みんなを謀ってきた卑劣な詐欺師なのか。この場で白黒つけようじゃないか」
どよめきが演習場を駆け抜けた。
名誉決闘。貴族がその名誉を賭けて行う公式の果たし合い。学院も正式な作法に則ったものであればこれを認めている。
そして、申し込まれた側が正当な理由なくこれを拒めば、それは臆病者の烙印であり、貴族としての名誉の完全な放棄を意味する。
つまりこういうことだ。受ければ首席に嬲られる。断れば詐欺師として、自ら罪を認めたことになる。没落貴族の三男が名誉まで捨てれば、俺の家は本当に終わる。
アレクの笑みが、それをはっきりと物語っていた。逃げ道は塞いだぞ、と。
そしてその一部始終を。
馬車のそばに佇んだ王室査問官デュラン・ヴァイスが、あの笑っていない灰色の瞳で、じっと眺めていた。
『……面倒なことになったな』
アイシャが低く唸った。
『よりにもよって、あの猟犬の目の前で力を試される羽目になるとは』
俺は拳を握りしめた。
力を見せれば査問官に嗅ぎつけられる。見せなければ、詐欺師としてすべてを失う。
あの日の掲示とまったく同じだ。進むも地獄、退くも地獄。ただ今度は、見物人の中に俺の匂いを追う猟犬が混じっている。




