第十話 疑惑の眼差し
学外実習の翌日から、俺の周りに妙な空気が漂い始めた。
まず、セリアが俺を見る目が、明らかに変わった。
以前のようなあからさまな軽蔑は消えていた。かといって、感謝の言葉があるわけでもない。
廊下ですれ違うたび、彼女は何か言いたげに俺を見た。だが結局、何も言わずに目を伏せて去っていく。
『鬱陶しいな』
アイシャが率直に言った。
『あの女、お前に気があるのではないか?』
「ないない」
俺は即座に否定した。
「あいつは、俺を捨てた女だぞ。ただ混乱してるだけだ。落第で無力なはずの俺が自分を助けたっていう事実が、頭の中でうまく処理できてないんだよ」
厄介だった。
あの土壇場でつい助けてしまったせいで、セリアの中に「あれ?」という小さな疑問が生まれてしまった。落第生という、俺の完璧な仮面に、目に見えないひびが入りかけている。
そしてその疑問は、とうとう彼女に行動を起こさせた。
放課後、人気のない渡り廊下で俺はセリアに呼び止められた。栗色の髪を揺らし、彼女はどこか決まり悪そうに俺の前に立っていた。
「この間は。その、助けてくれて」
言葉が続かない。礼を言おうとしているのは分かるが、どうにも続きが出てこないらしい。皮肉な光景だった。
「気にするな」
俺はそっけなく答えた。
「たまたま、近くにいただけだ」
「たまたまで、あんなことができるものなの?」
セリアの目がまっすぐに俺を捉えた。
「あなた、魔法が使えないはずでしょう。それなのに、あの魔狼の前に真っ先に飛び込んで、私を引っ張り出した。あなた本当は何なの?」
核心を突かれた。だが俺は顔色一つ変えなかった。三年間、無表情でいることだけは得意になっていた。
「買いかぶりだ。俺はただの落第だよ。魔狼を倒したのは教官たちだろ」
俺は肩をすくめた。
「それとも何か? 助けなきゃよかったか?」
「っ、そうじゃ……!」
セリアは言葉を詰まらせ、それから唇を噛んだ。
「ごめんなさい。あなたのことずっと勘違いしていたのかもしれない」
その言葉に、俺は内心で苦笑した。
勘違いも何も。お前が見ている「落第のレイ」は、俺が必死に演じている仮面だ。その下にあるものを知れば、お前は腰を抜かすどころじゃ済まない。
「勘違いなんかじゃない」
俺は努めて冷たく言った。
「俺は、お前が思っている通りの空っぽの落第だよ。それ以上でも以下でもない。もう行っていいか」
俺は彼女の返事を待たずその場を後にした。背中に戸惑ったような視線が、いつまでも刺さっていた。
『冷たいな』
アイシャが面白そうに言った。
『あれで、余計に気になられるぞ』
「うるさい」
仮面を守るためとはいえ、後味は悪かった。
だが、本当に厄介だったのはセリアじゃなかった。
その日の昼。俺がいつものように中庭の隅で一人パンをかじっていると、すっと、目の前に影が差した。
クラリス・オルセンだった。
「少し、話せる?」
返事を待たず、彼女は俺の向かいの石段に静かに腰を下ろした。相変わらず感情の読めない紫紺の瞳。
だが、その奥には、明らかに以前よりも強く鋭い光が宿っていた。獲物を追う猟師の目だ。
「昨日の実習。妙なことがいくつもあった」
彼女は前置きもなく切り出した。
「まず、深部種の魔狼がなぜあんな浅い森に現れたのか。次に、なぜあんなにも都合よく、地面が崩れ、風が吹き、石の棘が現れたのか。そしてなぜ、無力なはずのあなたが、誰よりも先に動けたのか」
俺の背筋がすうっと冷えた。
「偶然でしょう」
俺は努めて平静を装って答えた。
「地盤がたまたま緩んでたんだ。俺はただ、無我夢中で体が動いただけで」
「地盤の崩れなら、何かしら痕跡が残るわ。だから私は、あとであの場所を調べに戻った」
クラリスは俺の目をじっと覗き込んだ。
「あの陥没は自然のものじゃなかった。極めて精密に制御された魔力の痕跡が残っていた。まるで、誰かが意図的に、しかし絶対に気取られないように、地面そのものを操ったような」
こいつは。
俺は内心で舌を巻いた。鋭いなんてものじゃない。こいつは現場に残ったわずかな痕跡だけを頼りに、真相のほんの一歩手前までたどり着いている。
「そして、実技評価のあの火」
クラリスはなおも続けた。
「小さいのに熱だけが講堂の端まで届いた。あれも今ならはっきり分かる。あなたは、膨大な力を無理やり小さく見せていた。違う?」
まずい。まずい、まずい、まずい。
こいつは俺が「力を意図的に隠している」という核心に、限りなく近づいている。あと一歩で俺の仮面は剥がされる。
『レイ、否定しろ』
アイシャが鋭く指示を飛ばした。
『だが、強く否定しすぎるな。かえって藪蛇になる。あくまで心外だという顔で、軽く受け流せ』
分かってる。分かってるが、そんな器用なことができる状況じゃない。
俺は必死に平静を装い、乾いた笑いをこぼした。
「買いかぶりすぎだよオルセン嬢。俺は落第だぞ? 三年間火花ひとつまともに出せなかった。あんただってはっきり見ただろう。あのみっともない、豆粒みたいな火を」
「見たわ。でもね」
クラリスは引かなかった。懐から一枚の紙片を取り出す。
「実習の後、私はあの陥没に残っていた魔力痕を正確に写し取った。それから、実技評価であなたが出した火の魔力の波形も記録した。……この二つ、根が同じなの。同じ性質を持った魔力よ。偶然でこんな一致が起きると思う?」
俺は背中に冷たい汗が伝うのを感じながら、必死に平静を保った。
こいつは痕跡を証拠として突き合わせている。ただの勘じゃない。学者のように緻密に、俺を追い詰めてくる。
「悪いが、俺にはその波形とやらが何を意味するのかさっぱりだ」
俺はあくまでとぼけた。
「魔法が使えないんだから当然だろ。専門的なことは、専門家のあんたに任せるよ」
「とぼけるのね」
「とぼけてない。知らないだけだ」
クラリスはしばらく俺の顔を食い入るように見つめていた。俺の嘘を、その紫紺の瞳で剥がそうとするように。だが、俺は三年間の無表情でそれを受け止めきった。やがて、彼女は小さく息をついて紙片を懐に戻した。
その沈黙が、痛いほど長く感じられた。彼女の頭の中で、無数の可能性が天秤にかけられているのが分かる。
そして、彼女は意外なことを言った。
「私はね。あなたのことが、ずっと引っかかっているの。三年前、あの《真理の水晶》を壊した落第生。本来ありえないはずの現象。でも、私は今でも、あなたを『不正を働いた、ただの詐欺師』だと思っている」
俺は内心でそっと安堵しかけた。まだそこか。まだ詐欺師の線で止まっているのか、と。
「だけど、昨日その考えが少しだけ変わった」
彼女の瞳が、刃のように鋭く光った。
「あなたはただの詐欺師なんかじゃない。もっと何か、危険なものを隠している。禁じられた魔法か。あるいは、それ以上の得体の知れない何かを。私にはまだそれが何なのか分からない。でも、必ず暴くわ。この学院にそんな爆弾を放置しておくわけにはいかないもの」
彼女はすっと立ち上がった。銀の髪が昼の光にさらりと揺れる。
「宣言しておくわ、レイ・ヴァンフォード。私はあなたの正体を、必ずこの手で突き止める」
そう言い残して、クラリスは去っていった。最後までその足取りに迷いはなかった。
俺は、その後ろ姿を見送りながら深いため息をついた。
『とんでもなく面倒な娘に、目をつけられたな』
アイシャが腕を組んで唸った。
「ああ、まったくだ」
だが、と俺は思う。クラリスは俺を「危険な何か」だと疑っている。真実、俺が真なる魔法の担い手であり、この国の歴史そのものを根底から覆しかねない存在だということには、まだたどり着いていない。
彼女の疑いは恐ろしく鋭いが、その矛先はまだ少しだけ方向がずれている。
それに、不思議と悪い気はしなかった。
三年間、誰も俺を見なかった。空気のようにいないものとして扱われてきた。
そのクラリスが今、俺を見ている。たとえそれが疑いの目であっても、確かに俺という人間を見ている。俺がここに存在すると、認めている。
皮肉な話だ。三年間の孤独の果てに、俺を最初に「見つけた」のが、俺を暴こうとする敵だなんて。
だが、考えてみれば。俺を空っぽと切り捨てた連中よりも、俺を「何かを隠している」と睨むクラリスの方が、よほど俺の本質に近いところを見ている。
的外れな称賛より、鋭い疑いの方がいっそ心地よい。そんなひねくれた気持ちさえ湧いてくる。
もっとも、彼女がいつか俺の正体にたどり着いたとき、俺たちがどうなるのか。それだけはまだ分からない。
「さて」
俺は立ち上がり、雲の流れる空を見上げた。
「これから、どうなることやら」
『退屈はしなさそうだな』
アイシャが悪戯っぽく笑った。
その横顔を見て、俺も少しだけ笑った。
三年間、俺の世界はただ灰色だった。何も期待せず、何も望まず、石ころのように息をしているだけの、色のない日々。だが今は隠すべき力があり、暴こうとする敵がいて、そして隣には、五百年の孤独を分かち合える変わり者の相棒がいる。
まだ、何も成し遂げてはいない。世界を塗り替える日は、はるか先だ。俺を嗤ったあいつらへの意趣返しも、偽りの歴史を暴く戦いも、まだ始まってすらいない。
だが、確かに、歯車は静かに回り始めていた。
空っぽだと嗤われたこの器の中で。真なる魔法が、いつか来るその日を待って、静かに脈打っている。
焦らず、静かに、誰にも気取られぬように。俺は、その日を待つことにした。
だが、その夜。
地下で制御の訓練をしていた俺に、アイシャがふいに真剣な顔で告げた。
「レイ。一つ、伝えておかねばならんことがある。お前が契約で私を封印から解き放った、あの夜から。この国の『核』が、かすかにざわつき始めている」
「核?」
「王家だ。正確には、王家が代々、玉座の奥深くで守り継いできた、『英雄の遺産』。五百年前、あの男が真なる魔法を封じるために遺した、忌まわしい仕掛けだ。あれが、目覚めた私の気配をうっすらと嗅ぎつけつつある」
俺の背筋が冷えた。
「向こうはまだ気配の出所までは掴んでいない。だが、時間の問題だ。いずれ必ず、この学院に王家の手の者が調べに来る。そうなる前にお前は力をつけねばならん。蝋燭を少しずつ松明に変えていくのだ。誰にも気取られぬままで」
クラリスだけじゃない。今度はこの国の頂点そのものが、闇の奥で、じわりと俺の方へ顔を向け始めている。
落第と嗤われた男爵三男の静かな戦いは。まだ始まってすらいない。だが、迫りくる嵐の足音だけは確かに聞こえ始めていた。
ただし、俺の隣で退屈そうに欠伸をしているこの魔王が、その「静かに」をいったいいつまで許してくれるのかは、また別の話だったが。
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