28 その温もりに包まれて……(エピローグ)②
玄関の扉が閉じられた瞬間のことだった。
そこには鎖から解き放たれた獣がいた。
獣と書いてケダモノ。
そういう魔性を帯びた何者かが俺の身体を押し倒して、舌なめずりしていた。
熱い吐息を吐きながら血走ったような目を剥いて、獣は俺の胸元に顔をうずめていた。
「おい、黒宮。予想はしてたが、いい加減にしろよ?」
俺は眉間をピクピクさせながら黒宮の肩を引き離そうとするが、やけに抵抗される。
「前にも言ったかもしれないけれど、白里くんの匂いでいっぱいなんだもの。我慢しろというほうがムリな話よ」
相変わらずこいつの発作はどうにもならないらしい。
というか、こんなやりとりに慣れてきてしまっている感もある。
人間の適応力というものは、凄まじいものなんだなぁと思わず天井を仰いでしまう。
それにしても……。
こうして密着していると、俺のほうも気が気じゃなくなってくる。
女の子特有の柔らかい感触がそこかしこから感じられるし、香水だろうか柑橘系の匂いがやんわりと鼻孔をくすぐる。
黒宮の黒髪がさらりと流れて俺の鼻先に触れる。
なんというか俺のほうまで獣になりそうだった。
このまま行くとまずい。
想定外の方向へ進んでしまう。
だが、その前に筋は通したい。
それこそが今日の目的だし、俺が優先するべきことだ。
……正直、その後だったらどれだけ乱れ狂ってもいいんだけど、今だけは正気に戻らなければならない。
俺は高鳴る心音を無視して、黒宮へ語りかける。
「黒宮、分かったから今は放してくれ。話が終わったらいくらでも付き合うから。だからもう少し待て」
黒宮はぴくりと肩を震わせると、ようやく顔を上げた。
「その話、二言はないわね」
「ぶ、武士に二言はない」
思わず、変な言い回しになってしまったが(武士ってなんだよ)、黒宮はうっすらと笑みを浮かべていた。
「そう、じゃあこの日本刀に賭けて誓ってもらおうかしら」
反り返るように膨張していた俺の身体の一部分をなぞるようにさすりながら、黒宮はそんなふうに言いやがった。
もともと覚悟していたことだ。今更後ろには退かないさ。
「望むところだ」
とりあえず俺たちは身体を起こしてリビングへ向かった。
さて。いよいよ俺にとっての本番だな。
俺は心を落ち着かせるために、深呼吸をひとつした。
「こっちに来てくれ」
椅子に腰掛けた俺は、黒宮を向かい側へ座らせ、グラスに烏龍茶を注いだ。
お互いに唇を湿らす程度に口に含んで、ゴクリと喉に流し込んだ。
時間稼ぎというよりは、通過儀礼に近い。
話さない理由を潰す。
覚悟を定め、照準を引き絞るようなものだ。
「さて。まずはどこから話そうか……」
黒宮は顎に指を当てると、少し間を開けて答える。
「……そうは言っても、私、ある程度は察している部分もあるのだけれど……」
「そりゃあそうだろう。分かってるけどさ、それもこれも通過儀礼と言うかなんというか、全部話しておきたいんだ」
「……まるでこれからシンと戦いに行くみたいな台詞ね」
「いや、まぁ、被ってるのは認めるけどなぁ」
なんというか心外だった。
茶化されるのも、揶揄されるのも。
いやしかし、見事に被ったものだ。
「白里くん、いま、被ってるって言った?」
「良いから! そこ、食いつかなくて良いから!」
相変わらず、最悪なところを拾うな、こいつは。
しかもちょっと気にしてるとこなのに。
「被ってない! ……少ししか」
「あら。カリのほう、いえ失礼、間違えたわ。仮のほう、ということね」
「どういう間違え方だ。そもそも日本人の七割近くは仮のほうらしいぞ。だから俺はおかしくないし、恥ずかしくもない」
「あら。被っているのは恥ずかしい部分を隠したいからなのかと思っていたのだけれど、そういうわけではないのね」
「そんなセンチメンタルな理由で被るわけがあるか! 日本人男性のほとんどがのっぴきならない理由で被っているんだ! そんな可哀想な目を向けるんじゃない!」
「……ごめんなさい。白里くんの股間についてこんなに長く会話ができるのが嬉しくて、ついつい凝視してしまったわ」
怖い。
前々から分かってはいたが、この女はかなり怖い。
空恐ろしいと言ってもいいだろう。
そんな生暖かい視線を股間に向けられる心境が理解できるか。
俺は一生知りたくなかったよ、こんな心境は。
「けど、私としては、こうして白里くんと取り留めのない会話をしているだけでも十分満たされるし、幸せだわ。スジや茂みを通さなくても構わないんじゃないかしら」
「ちょっと待て。いまどうしてスジと茂みを並列に並べたんだ?」
「……? スジって女性の股間の俗称でしょう? 主に茂みがない人に対しての」
「だからなんでお前はそういうのをキョトンとした顔で尋ねるの? もう少し恥じらいとか戸惑いみたいのはないわけ?」
しかし黒宮は、ほけっととぼけた顔をしたまま頭を傾ける。
「これも前に言ったような気がするのだけれど。私は白里くんに好かれていると感づいたとき――まぁ、それは勘違いだったわけだけれど――ともかくそのときに一通りの妄想をしたわ。だからそういう羞恥心みたいなものはほとんどそのときに踏み越えてしまったみたいなのよね」
「人として大事な感覚を軽々と放り捨てないでもらいたいもんなんだが」
「……私にとってそれだけ、この恋が特別だったというだけの話よ。それとも白里くん、そんな私の恋心すら否定するつもりなのかしら」
そんなふうに言われると、答えに窮してしまう。
恋心を否定するなんてあまりに乱暴だし、俺にとってもその恋心は嬉しいものなのだ。
だから、恋心を盾に取られると、俺は反撃の手を失ってしまう。
「分かった分かった。余計なことを言って悪かったよ。勘違いから始まったとはいえ、お前に恋されて良かった。心の底からそう思うよ」
「分かれば良いのよ、分かれば……」
そこで黒宮が顔を背けた。
赤らんだ顔を横髪で隠そうとしているらしい。
相変わらず照れるポイントが謎だが、可愛いので良いとする。
そんなこんなで準備運動も十分かな。
俺はもう一度烏龍茶の入ったグラスに口をつけると、そのまま話すべき言葉を口にした。
「まずは俺のトラウマについて、聞いてほしい」
空気が変わったことに気づいたのか、黒宮は神妙に頷いた。
今回は別に補足するようなことはないよな。
「いえ、ひとつ買い忘れたものがあったのよね。それだけがどうにも心残りだわ」
そうか。じゃあ、今日はこのへんで……。
「ちょっと待って! どうして聞いてくれないの? これはとても大事な話なのよ」
お前が言う大事な話が大事だった試しがないんだが……。
「安心して。決して後悔はさせないから」
地雷臭しかしないが、そこまで言うなら聞こう。
聞きたくないけど、聞こう。
あーいやだなー。嫌な予感しかしないなー。
「スケベ椅子を買っておくべきだったわ」
じゃあ聞いてくれ。俺のトラウマは3つあるんだ。
「ちょっと待って。以前2つだと言ってなかったかしら。どうして今になって1つ増えているの?」
リアルタイムで1つ増えてしまったからな。これは仕方なかった。
どうしようもなかったな。うん。
「どうして? 全ての男性の憧れでしょう? スケベ椅子であれやこれやしたりされたりするのが、男のロマンなのではないの?」
いや、もちろんそういう憧れのある男性もいるんだろうけども。
少なくとも普通は憧れはしないと思うぞ。
「おかしいわ。もしかして、私はわたしの知らない世界線に来てしまっていたのかしら」
そんなSF用語出してこなくてもだいじょうぶだぞ。
おかしいのは世界線じゃなくて、お前の中の常識だけだから。
「けど、白里くん。ひとつだけ聞かせてちょうだい」
なんでせう?
「して欲しい? して欲しくない? どっちなのかしら」
その質問はズルいだろう。
「良いから答えて」
別に取り立てて特別して欲しいわけじゃないけども、まぁそれでもあえて答えるとするなら、あえて答えるならの話だけど……。
……どっちかと言うと。
……。
……………………して欲しいです。
「ふふん、聞けて良かったわ。いつか買って試しましょうね」
…………ああ、そうだな。




