4-12
ティア・エルシア・ウィットランドという少女は、自分の事を取り立てて優秀だと思った事は無かった。
彼女の前には、常に兄であるアーチライト・コルア・ウィットランドがいた。兄妹としてどうしても彼と比べられ、あるいは自ら自分と彼を比べ続けてきたティアは、自分自身に劣等感すら抱いていたはずだった。
「私は、負けたのか……」
それでも、今まさに立ち上がる事すら出来ない現状は、ただ衝撃だった。
腕は動く。足にも力が入らないわけではない。思考は乱れ、時々飛びもするが、意識は保ち続ける事が出来ている。まだ動けるはずの身体、それでもティアが地面に突っ伏しているのは、精神的な要因によるものが大きい。
どこかで、自分はアンナよりも上だと思っていたのだろう。大陸式魔術等級では十二と判別され、十一のアンナを一つ上回る事に加え、ティアはアンナが身体の一部にしか適応できない変成術を全身に展開する事が出来る。それだけの理由で、内心では一対一で戦って負ける事は無いと思っていたのかもしれない。
アンナに敗北した事実よりも、むしろ、自分がそう思っていたという事実、そしてその見立ての甘さに、ティアは衝撃を受けていた。
「……いつまでも、こうしているわけにはいかないな」
軽く呟き、身体に力を入れる。意外なほど軽く持ち上がった胴体を、それほど労せず下半身が支える。
立ち上がる事は出来た。そして、その体勢を保つ事も。痛みや疲労感は全身を覆い続けているが、肉体的な損傷としてはその程度であり、立ち続けられない道理はない。
だが、立ち上がったティアは、そこでまた動きを止めてしまう。
何をすればいいのか、どこに行けばいいのか。目的を見失ったからこそティアは先程まで地に伏していたのであり、どうにか身体は起こせても、その根の部分は変わらない。
「考えろ、か……」
どこかはぐらかすようだった、アンナとの会話を思い出す。結局、当初の目的であった決闘についての事はほとんど語られず、代わりにアンナは諭すように幾度もその言葉を口にしていた。今、これからの指針については、その言葉通りティアが考えるしかない。
「……ニグルに会いに行こう」
今から闘技場に向かったところで、今度こそアンナに行動不能にさせられるのが目に見えている。仮にそうならずとも、今の状態のティアに出来る事はほとんど無い。それならせめて、アンナから聞けなかった決闘の詳細だけでも知っておきたい。
目的を定めたところで、しかしティアの足は動けない。ニグルと連絡の付かない現状では、その居場所を推測する必要がある。
「どちらにしろ、同じか」
闘技場にいる可能性を考えたところで、そちらに向かう選択肢は最初から無いと切り捨てる。そうと決めてしまえば、そこからは騎士団本部に向かうだけだ。
「……レーニア?」
早足に歩き始めたティアは、その先の路地に無造作に転がっていた自身の愛剣を視界に収め、立ち止まる。戦闘手段としての短剣を奪っていったアンナが、ティアの主兵装である魔術剣をこの場に置き去るような事がありえるだろうか。想定の外の事態に戸惑いながらも、戦闘の最中にティアが手元から失って以降、魔術剣がそこにそのまま放置されていた事は揺るぎない事実だった。
剣をゆっくりと手に取り、試すように二度振ってから、腰の鞘に収める。剣を手にした事で、それでもティアの足の向く方向は変わる事はなかった。
細く長い指先が、机の上で踊る。不規則なそれは、楽しげでもあり、ただの手慰みのようでもあり、あるいは苛立ちを押し殺しているようでもあった。
自らの指を眺めるニグル・フーリア・ケッペルの表情もまた、笑みのようにも無表情のようにも、見ようによっては不機嫌そうにすら見える。
「……ん」
五指の行進が、扉の向こうで聞こえた足音に止まる。慌ただしさを感じさせる駆け足の音が徐々に近づき、そして離れていった。
「…………」
前のめりになりかけた腰を戻し、指先が微かに動く。
「鍵をかけていないとは、不用心だな」
しかし、音も無く開いた扉の先、躊躇なく部屋に足を踏み入れた白の魔術師の姿に、指先は机に落ちた。
「これは、アルバトロス卿。先の決闘、一先ずはご無事で何よりです」
「この期に及んで、余計な建前は必要ない。汝も理解しているだろう」
アルバトロスの左手、杖を掴む手が僅かに前に出る。
「……まぁ、そうですね。貴方がここに来たという事は、そういう事になりますか」
対するニグルも立ち上がり、アルバトロスへと向き直る。
「それでも、一応は聞いておきましょうか。私に何用でしょう、アルバトロス卿」
「何用、か。あえて一つあげるとすれば……」
床に白磁の杖が触れ、短く音が鳴る。
「中途半端に終わった遊戯の続きをするため、とでも言おうか」
音の終わりに、アルバトロスの右手の空間から火柱が噴出。互いに距離の無い状態からの一撃は、直立していたニグルを真中に捉える。
「好戦的ですね、アンナにでも感化されましたか?」
「ここ数日はあれと顔を合わせていない時間の方が短かった。その可能性も否定はしない」
火の消え去った後、ほぼ無傷のニグルを前に、アルバトロスも顔色一つ変えない。
「しかし、それにしても性急に過ぎるのでは? アルバトロス卿も、今回の事態の全貌を掴んでいるわけではないでしょう」
「それは、汝の思い違いだ」
どこか可笑しそうな声が、ニグルの言葉を否定する。
「我の興味の矛先は、ただ自らの魔術がどこまで通用するのかについてのみ」
「……ああ、なるほど。たしかに、そういう事なら」
ニグルの呟きが終わるよりも早く、もう一度白杖が打ち鳴らされた。
「кyк」
唄うような響きに連動して生み出された氷の杭は、しかし突如として現れた雷に打ち消される。
「ただ、やはり性急なのは変わらない」
ニグルの指が伸び切るよりも先に、雷はアルバトロスへ到達し、貫通していた。
胸元を雷に貫かれたアルバトロスの姿は、しかし朧に薄れて消えていく。決闘の舞台でも見せた虚像の魔術は、同時に白の魔術師の実体を視覚的に覆い隠す。
「可視光を操作し、視覚的に欺く。方向性としては有効かもしれませんが」
薄れて消えていったアルバトロスの虚像を予想通りというように、雷は迷いなく方向を変えると、そのまま一直線に奔っていく。
「闘技場と客席の距離ならともかく、この距離で位置を完全に隠すには、それだけでは足りません」
自らの右斜め後ろ、雷の直撃を受けて音も無く倒れたアルバトロスへと振り返り、ニグルは独り語る。
「……ニグ、ル? これは、どういう?」
だが、その呟きに、あり得ないはずの返事が返ってきていた。
「ティアか。まったく、いいタイミングだ」




