07.敵
あれから何度かの襲撃があった。
数を増して襲い掛かった吸着盤は扉に窓に壁にと張り付き、時々どう頑張っても取れない強靭さを持ち合わせた輩もいた。クインスの大剣にひっついた邪魔者は、火であぶったら取れた。壁に火を寄せるのは危険であるし、そもそも面倒だし害はないので放置したままで、新進気鋭のオブジェと化している。
「リンデンさん、本日お時間を頂いてもよろしいですか?」
ジャスミンが困った顔で声を掛けてきたのはドアノブが矢の大群に阻まれて触り辛くなってきた頃のことだった。こちらもそろそろ、差した嫌気が溢れそうな頃合だったので丁度良い。
カットラスで枝の群生を一刀両断し、吸盤のギリギリまで削り落とす。ドアノブが顔を覗かせたことを確認して、金色の侍女に了承の意を返した。
城内で刃を振り回すことにも抵抗がなくなってきた。部屋の中はともかく、誰が通るとも知れない廊下では自重していたつもりだったのだ、これでも。
しかし、しかしだ。毎日のように筋肉ダルマに殴りに掛かられるのはまだしも、神雷の勢いで飛んでくる舐めた矢を叩くのに一々篭手を使っていては、滑らかな板金鎧が吸着盤だらけのけったいなラメラーアーマーに変身してしまう。そして勢いが勢い、衝撃は凄いので意外と痛い。
リンデンの装備は、現在は軽装に抑えてある。身に着けているのは、篭手に胸当て、腰鎧、すね当て、鉄靴。どうしても物々しくなるのど当てや肩甲、腿当て、関節部保護の草摺などの嵩張る装備は自室の隅に転がしっぱなしだ。全て揃いの防具である。多少の凹みや欠けごときで装着不可能になるような安物ではないが、異物がくっ付いていては可動に支障をきたす可能性は少なくない。
豪雨に似た体で飛来する数多の凶器のシャフトを殴り付けるのは難しくても、刃で防ぐか切断するのであれば不可能ではなかった。それも無理となれば、できるだけ矢の数を減らした上でアキレアを蹴倒して避けさせた。
初回以来、今のところは一度もアキレアに攻撃は届いていない。だが、こちらの苛立ちを煽る怒涛の攻勢は、いずれ築いた牙城を破ってくるだろう。
対策を、と思えば、同じ思いをしている誰かと手を組むのが一番である。それが例え、敵の一人であっても。より手強い敵を目の前にしたとき、人には休戦という手段を取る自由も存在する。そこに「誰と」という選択肢を入れるなら、金の陣営は最良の相手だった。
「クインス、ちょっと行ってくる。窓の仕掛けは終わってるから、何かあったら使ってくれ」
「おう、気を付けろよー」
扉の向こうから聞こえた暢気な美声。クインスの陽気な性格は、初回の襲撃直後の真剣な顔を長く持たせはしなかった。今ではすっかり元通り、気の良い兄ちゃんである。それが逆に内を読ませ難くさせているのだが、果たして素やら虚実やら。
いってらっしゃいませー、というアキレアの声も遅れて聞こえた。彼女も相変わらずだ。ひたすら飛んでくる矢が恐ろしくないはずはないのに、側近への信頼感を露わに毎日を笑顔で過ごしている。
「……お誘いしておいて何ですが、離れてしまってよろしいんですか?」
「防衛は得意だし、クインスは腕が立つ。犯人を見定めようとするからこその普段の二人掛かりだ。防御に専念していれば切迫はしないさ」
「なるほど。騎士風情と侮っておりましたが、ルール違反の著しい現状況では立派な戦力なんですね」
「特にうちの陣営は、元々数がいないしな」
肉の壁を配置し放題の他所様が羨ましいと苦笑すれば、ジャスミンの顔は途端に曇りを帯びた。伏せられた目に気付き、眉を顰める。
「どうした?」
「肉の壁、まさにそれですね。リンデンさんにも既にお分かりでしょうけど、肉体ばかりが育って、実力を伴わない子が多過ぎて……」
ジャスミンには悪いが、素直に納得した。
彼女たちの実力は、前にも言ったが、筆頭侍女たるジャスミンたちとは大きく差を開けている。大人と子供、師範と弟子、兵士と一般人。団体で掛かられてリンデンが五体満足に出歩いていることが証明である。
正直な話、リンデンにとっては対1でジャスミンを相手にするより、取り巻きを一緒くたに相手取った方が都合が良い。肉の壁、改め動く障害物。その巨魁は、ジャスミンの視界を遮るためのリンデンの防具となるだろう。
「いや、でも、数が多ければ人海戦術が利くだろう」
「脳まで筋肉ではどうにもなりませんね」
ああ言っちゃった。
どんなフォローを入れようかと考えるリンデンを置いて、ジャスミンは豊かな懐をおもむろに探る。
「こちらをご覧頂けますか」
「何だこの遠足のしおりみたいなの」
手渡された生温かく薄い冊子を開けようとして、目に入った表紙のタイトルで思わず静止した。
「……『侍女の心得・肉体編』?」
「ええ。読んで字のごとく、侍女として相応しい肉体作りのための基礎にして根幹の教本です」
凄く読みたくなくなった。
端々を丁寧に補修された冊子を手の中で弄びながら隣を歩く侍女を見上げると、問答無用の笑顔が返ってきた。読めということらしい。まさかリンデンにもこれを実践しろというつもりなら、持てる手段の全てを用いて全力で逃げるからな。
高鳴る鼓動──勿論ネガティブな意味で──を抑えつつ、爆発物を扱うようにそろそろと紙を捲る。
真っ先に視界に映った理想の肉体、という挿し絵には、マリーゴールドに良く似た中性体の姿があった。
「マリーゴールドさんのお婆様です。美しいでしょう。第一回天下一侍女武闘会優勝者の彼女は、全ての侍女の憧れなんです」
「天下一侍女武闘会……いや、いい。この国の、という注意書きを忘れず付けろよ。ええと、『主文、健全なる肉体は健全なる精神に宿る。ルールに則り、正々堂々と戦い抜くことを心掛けよ』……おい、逆じゃないか、これ?」
「良い言葉です」
「『早寝早起きは3筋肉の得』、『夜更かしは筋肉の天敵』、『天は筋肉の上に中性脂肪を作らず、筋肉の下に内臓脂肪を作らず』……3筋肉って何だ」
「現在のレートで大体1筋肉が23スクワット分ですね」
「よく分からないが、お前たちとは何一つ分かり合えないことだけは分かった」
ぱたむと合掌の姿勢で本を閉じる。
奥歯を噛み締めて湧き上がる衝動をぐっと堪える。一度きつく目を瞑り、深呼吸をした。
「……で」
「はい」
「私に苦痛を与えて、何がしたかったんだ?」
「あら、苦痛だなんて心にもないことを」
心底驚いた顔で見下ろす節穴に、籠手を外して袖を捲った腕を見せ付ける。
そこかしこに走る傷を敵とせずブツブツと粟立つ前腕に、ジャスミンの澄んだ瞳が丸く瞬く。小さな唇に添えられた巨大魚の鱗のような爪が綺麗なピンク色に染められているのが破滅的に手のごつさに合わないのだが、そこは乙女心によるお洒落の一貫であると思われるので突っ込むまい。
「そう……ごめんなさい、鳥肌が立つほど本が嫌いだったんですね……」
「違うだろ!どれだけ文字アレルギーだ、人として駄目なレベルで駄目だろうそれ!」
酷い誤解を受けた。怒鳴り付けて本を突っ返すと、ジャスミンは中身をできるだけ見せないように問題箇所であろうページを素早く探す。その心遣いがハートに痛い。
どちらかと言えば書籍は嫌いな方だが、必要なら丸一日でも向かい合える、案外できる子だ、自分は!
該当ページを一瞬だけくるりとリンデンに向けて、また自分の方へと戻す。薄桃色の花弁は、通りの良い声音で本文を読み上げる。
「『薬物の補助も推奨する』」
「そういうのを明言しちゃうのはどうかと思うぞ」
「そうなんです!」
投げやりに答えたリンデンに、ジャスミンは身を乗り出した。背筋を曲げていたせいでむさ苦しい胸筋が目前に迫る。今更背を伸ばしても悪夢の予感しかしないので、少し首をずらすだけのささやかな反抗に留めた。
「最近の子ったら、薬物に頼り、自らの鍛錬だけで肉体を鍛え上げようとする安易な思考の何と多いこと!おかげでその肉体をどう利用してより高みの戦力とするか、自分の筋肉がどのような使い方に最も適しているかを理解しないんです。薬物任せの鍛錬は、良くも悪くも均等に、力が増すだけの筋肉を得るばかり。ただ殴る蹴るのみではただの暴力人。侍女として相応しい振る舞いではありませんッ!」
「はあ」
「リンデンさんのように、自分の戦闘スタイルに合わせた肉体を得、確立させてこその侍女としての昇華が完成するというのに、どうしてみんな理解してくれないんでしょう……」
「つまりハッタリ筋に近いものばかりで困る、という話で良いのか」
随分長い前置きだった。これはもしかして、相談を持ち掛けられているんだろうか。
そうだとしたら困ったことだ。リンデンには、じゃあ指導してやれば、としかアドバイスの仕様がない。
もし指導を頼みたいとかいう話なら、それこそ無理である。この依頼の間は敵であるし、依頼が終われば速やかにこの国からオサラバする予定なので。
「いえ、違うんです。これは事後承諾のお願いのようなもので……」
「お願い?」
「あの子たちとの戦闘で、力だけでは敵わないということを思い知らせてあげて欲しいんです。私では、その、マッスル的に勝ってしまっているので、効果が薄くて」
「ああ、まあ、言いたいことは分かる」
そんならお安いご用だ。というか、今までのぶちのめし方がまさにその通りなので、特に気に留めることですらない。
二つ返事で頷いた頃、ようやくトレニアの部屋へと辿り着いた。
側室同士の部屋は、互いの戦略のために距離を取ってある。城から通路で続く幅広の塔。城の四隅を陣取るその塔こそ、側室たちの住まいである。後宮、何それ、という衝撃的な衛兵の言葉をリンデンは一生忘れない。
東西南北で言えば自陣は東に位置していた。トレニアの陣は南なので、身を乗り出せば辛うじて自陣が見えなくもない配置だ。シビリカの陣は西の対角線、ローテローザの陣は北。改めて考えると、対角から日夜襲撃と護衛に励むアクナイトの機動力には恐れ入る。
3つ並んだ扉の真ん中を、ジャスミンは軽くノックした。作りは自陣と大差ない。
ここ数日の経験から、左右は付き人の部屋だとわかっていた。構造も自陣と同じで、3つの部屋は連結されていて、隣の部屋への移動が可能である。
アキレアは一番右の部屋に居着いている。あのクインスにも思うところはあったのか一つ部屋を開けて自室としていたので、リンデンの部屋が中央だ。これでアキレアとクインスがくっついて生活していたら、ただでさえ高く積み重なっている心労が山となるところだった。もしかしたら最初はくっ付いていて、だれかさんの一存で移動させられたのかもしれない。
一応、中央の部屋の作りが一番豪華なのだ。側室用の部屋であることは明白だった。それをリンデンが使用しているわけだが、結局起床時には主従揃ってリンデンの部屋に集っているので、あまり自室という実感はない。リンデンは外出していることも多いので、寝るときだけ部屋に帰っていくあいつらに殊更不満があるわけでもない。クインスがだらだら居着くのには多少呆れを覚えはするが。
ちなみにアキレアは夜更かしは美容の敵だと、老人のように早寝を志している。
「あら、ちょっと待ってね」
分厚い扉の向こう、のんびりとした声が聞こえた。ジャスミンが特に反応なく待っているので、別に時間のかかることではないらしい。
暇潰しににリンデンは声を上げた。
「今日は扉に飾りがいないじゃないか」
「飾り、ですか?いつも通りですけれど」
見張り番は確か、こちらでもいつも立っていたはずだ。
自陣でも、いつもの見張りが不在だったことに首を捻っていたのだが、そういえば今日は通路で兵や女中と遭遇することもなかったことに気付く。
「休日ですよ」
「休日って……交代制だろ?」
「太陽の曜日は休日ですよ?一切のお仕事をしてはいけません。筆頭侍女は仕事を越えてライフワークですので、主の側に控えていますけど」
「いや、それ普通におかし」
今更である。だがぐっと堪えてしまった自分に愕然とする。
ここは声高に主張して良い場面のはずだというのに、何を順応してしまっているのか。これではリンデンの主張こそが異質と認知してしまったようである。自分は正常だ。自分は正常だ!
「リンデンさんをお呼びしたのが今日であるのも、休日だという理由からです。休日は戦いを仕掛けてはいけないんですよ」
「えええ、仕事かよ」
「仕事ですよ」
そうか。仕事だった。あんまり皆が喜々として跳び掛かってくるので、あれは趣味の範疇なんだと思い込み始めていた。
そうか、ともう一度消沈しながら呟いたところで、中から入室の許可が降りる。
礼儀正しく扉を開けたジャスミンに先を譲られ、思わず侍女の襲撃を警戒するのは仕方がない。まさか全員揃って休みであることが本当だなんて知らないじゃないか。
剣をはいたまま──どころか柄に手を掛けたまま入室したリンデンを迎えたのは、叱責ではなく朗らかな笑みと、乾いたクラッカーの炸裂音だった。
反射的に抜き掛けた刃を理性の限りに押し戻す。
「いらっしゃい、リンデンさん。私のお部屋へようこそ」
「あの、あぶないので……不意打ちとかは自重して貰えませんかね……」
倍の速度で刻む鼓動を抑えて、震える身体を止める努力をした。防具のない背中に浅く刺さるレイピアの痛みはむしろ救いだった。
戦いを生業にする人間ってのは、唐突な破裂音とか爆発音に反射で攻勢取るようにできているのである。そこんとこよく言い聞かせておいてくれないか、ジャスミン。剣を突き刺す前にだ。
子リスのように首を傾げた金色の令嬢は、案の定、命の危機に瀕していた事実さえ理解していない。ふんわりと広がる襟元に隠れた首飾りを弄ぶ仕草は幼子のように純粋である。貴族階級は得体の知れないドロドロに塗れた場所であるはずなのだが──。
「……あれ?」
「どうしました、リンデンさん?」
「いや、なんか」
ちらりと見えた首飾りに引っ掛かりを感じた。突き当たる場所を得られなかったその違和感は、首を捻っても着地場所を決められず、眉を顰めながらリンデンは素直に追求を諦めた。
「もしかして、調子が悪いの? お誘いは迷惑だったかしら」
「いえ、こちらとしても願ったりだった。気にしないでくれ……ますか」
「うーん、普通におしゃべりしてくれたら嬉しいのだけれど」
「う、んー……」
迷ったのは一呼吸ほどで、結局首肯を返す。
敬語は苦手だが、いい年した大人として決して使えないわけではない。ないのだが、こう、明らかに年下で、アキレアやトレニアのように無邪気に懐いてくる人間に畏まれるようにはできていないのも事実だ。
逐一引っ掛かっては訂正しているのも無駄な話。公爵家の令嬢に対してタメ口をきくのは多少ながら抵抗があるものの、そもそもアキレアなんぞはれっきとしたプリンセスである。
しかし、見るからに心の広いトレニアはともかく、忠誠心の厚そうなジャスミンが咎める気配すらない。自分が思うほどに貴族に対して敬語というのは必要なものではないのだろうか。いや、そんなはずは。
答えの出ない疑問は早々に放棄した。合言葉は「マカダチ国だから」。その一言で全ての疑問が氷解する魔法の呪文である。使用するたびに思考能力が低下する諸刃の剣でもあるが。
そんな些細なことより、目的を果たすのが先決でだった。親御さんにばれたら下手をすれば首が飛ぶ問題でも、ばれなければ平穏は保たれるわけで。
気を取り直して、勧められるままテーブルに着いた。
優雅な手付きで注がれる紅茶は、クインスの入れるものより花の香りが強い。あいつ、あんなんだけど侍女業務はほぼ完璧にこなしやがるのだ。好みで言えば、騎士の入れる極少量のハチミツを垂らした茶の方がリンデンの味覚には合致する。
ポットを置いた侍女が席に着くのを待って、リンデンは壁を指差した。
「で、私を呼んだ理由は、アレで良いのか」
ひとつ、ぴったりと白い壁に貼り付いた異色。周囲が多少濡れていたり荒れていたりすることから、取ろうとして無理だったらしい。
途端にジャスミンの柳眉が逆立って、ついでに上腕二頭筋が倍ほどに膨れ上がった。テーブルの木材が悲鳴を上げる強さで圧迫を受ける。
穏やかな平素を放り投げ、鬼の形相で低い声を響かせた。
「トレニア様のお部屋に、あんな可愛らしくないオブジェを作るなど言語道断。正当性のない最近の行動、絶対に許しません!お陰で壁紙まで荒れてしまいました!」
「うちも前衛芸術みたいになっててなあ。見張りが少し遠巻きに立たないと矢羽が背中に当たって痛いと嘆いてきて困ってる」
「お仕事はきっちり加減を付ける子だったのに、アクナイトったらどうして──」
「いや、アクナイトじゃないだろう?」
「え?」
きょとんとリンデンを見返すのは、いつも通りのおっとり顔だった。隣で同じような顔をする主と、色のせいだろうか、どことなく似ているように見えた。顔だけは。
身を乗り出した、身体と顔がマッチした方が好奇心と確かな理知を瞳に浮かべてリンデンの目を覗き込む。
「こんなに素早くて小道具が好きなのだからてっきりアクナイトだと思っていたわ。違うの?」
「違う。あいつなら察知できるはずなんだよ」
アクナイトは、常に隠しきれない殺意に纏わり付かれている。それは、戦場を渡り歩く──死の加害者と被害者を常に視界に入れるリンデンには馴染みの気配だった。
ジャスミンに確認の水を向けると、捻った太い首を見せられる。
「あれ、わからないのか」
「生憎、アクナイトの気配は……他の方々でしたらわかりますけれど」
意外な事実だった。あれだけ殺気が濃いのなら、ジャスミンほどの実力であれば警戒網に引っ掛かりそうなものだが、案外索敵能力は低いらしい。
何食わぬ顔で相槌を打ちながら、良いことを聞いた、と心のメモ帳に弱点を刻む。そうであれば目隠しからのフェイントが有効になるので、この情報の有効性は非常に高かった。
カップを下ろした手が暇なのか、少し歪んだリンデンの籠手を指先でなぞっていたトレニアが、金の双眸を瞬かせる。
「目星は付いているの?」
「それがなあ……気配らしい気配が辿れないんだよ。矢の飛んでくる方向から位置を割り出すんだが、手応えを感じたこともない。一度アクナイトにも聞いてみるか。狙撃に関してはあいつが上だし、当てたことがあるかもしれない」
「そうですね。悔しいですけど、一番可能性が高いのは彼女です」
「ジャスミンには、筆頭侍女以外で手練の誰かに心当たりは──」
言葉の途中で身体が反応した。
考えるより先に白いテーブルクロスを引き、背後に向けて大きく広げるように薙ぐ。着地したティーセットが敷布の不在に上げた抗議の声と、数度伝わる軽い衝撃。布に絡んだ銀色に、レイピアを抜いたジャスミンの柔らかな顔立ちが硬質化する。
分かりやすい殺意を、ジャスミンも感知したようだった。音もなく微かに開いた扉に鋭い視線をくれて言う。
「今日は休日だというのに、いけないわアクナイト」
「……どうかな」
「え?」
アクナイト、ではない。伝わる殺意がどこか異質だと直感が告げている。
アクナイトの殺意はもっと、粘付くような代物だ。首筋に絡みじわじわと締め上げる、陰湿な毒の手。
しかしこの殺意は違う。あまりにも明確に頸動脈を貫こうとする鋭い刃。倒しに来ているのではない。殺しに来ている──まあ、アクナイトの真意はどうあれ、手段としてはあれも殺しに掛かっているとしか思えないんだが。
「本業だよ。多分ね」
言うや否や再度襲来した刃物をソードブレイカーの櫛で叩き落とす。驚愕に顔を歪めながらも、金の侍女も律儀に殺意に反応していた。
軽快な金属音に紛れて影が踊る。扉から蛇のように入り込んだのは、あからさまな黒装束。何でわざわざそんな目立つものを着込んでいるのかは、知りたくもなかったこの国の常識を思い出して即座に理解した。
そうか、休日だと知っていたからか。兵士に変装をしていても見付かったら終わりなら、着慣れた服が動きやすいのだろう。
懐に潜り込もうとした小柄な男は、カットラスの柄を抜き放ちざま処理をした。柄で抉った鳩尾は、しばしの呼吸を阻害する。
横目でちらりとあちらの戦況を確認した。実力差は明らかだったので、それは本当に確認だけの癖のようなものだったのだが──ふと視界を過ぎる妙な光景。倒れようとする男の襟首を慌てて掴み。
「……ッ、助かりました、リンデンさん!」
「何してるんだ、殺しに来てるんだぞッ!?」
謝礼と叱責が狭い室内を圧迫した。後ろからジャスミンの首を切り裂こうとした男が、リンデンが放り投げた刺客の突撃を食らって横転する。
彼女のレイピアは、的確にトレニアを狙った刺客の心臓付近を貫いていた──貫いたまま抜こうともせず硬直していた。
リンデンの怒声に慌てて引き抜いた剣の赤さを見て、逞しい身体が強ばりを増す。その些細な変化に気付いたことに、安堵と後悔を覚える自分が憎い。
見捨てられないなま易しい自分は、嫌いじゃないが、時と場合を選べとも思う。優先すべきを知っていて優先できないのは、ただの優柔不断であり、怠慢だ。
窓に駆け寄り目を凝らす。
城の向こう端、塔の中から僅かに響く鋭い音と、直後響く炸裂音、爆発。吹っ飛んだ外壁の一部と共に、小さな影がぱらぱらと落ちていく。
数を数えて、苦渋の中で決断する。
「ジャスミン、さっさと片付けるぞ」
「いけません、リンデンさんはアキレア様の──」
「人を殺したことのない奴を、人殺しの前に置いて行けるかッ!」
見張られただろう目は見なかった。
ジャスミンの見慣れない硬さは、詰まるところ命を奪うことへの躊躇いだった。あの葛藤をリンデンは知っている。その苦しさと、ままならない動きの悪さを覚えている。
戦いに生きる人間が命を落とす場所は様々だが、時期はそれなりに偏りがある。山は大雑把に3カ所。初陣、中時、終戦だ。
初めて「命のやり取りをする」という意識が、酷く身体の自由を奪う。剣の重みに、それまで感じなかった得体の知れない「何か」の重圧が加わる。息が上がって、思考がうまく働かない。まずそこで、多くの者が世界的な意味で脱落する。
戦いに慣れてきた頃、慢心が身を滅ぼすのは言うに及ばない。大抵の場合そういう人間は格下相手に殺される。それを乗り越えた者が、いわゆる歴戦の勇士と呼ばれたりすることが多い。
いずれ迫る老いから目を背け、戦場に立ち続ける老兵にも同様に、死に神の鎌は振り下ろされる。自分の最後の戦場を見極められなかった、その報いはまたしても世界からの退場である。
リンデンは、自分で言うのは気恥ずかしいが、慢心の時期を越えた種類の人間だった。詳しく述べるなら、そもそもなぜだか渡り歩く戦場ごとに自分を圧倒する戦士が立ちはだかったので、慢心しようにもできない環境だった。自分って意外と強いんじゃないか、などと思う暇がなかったのだ。
戻ってジャスミンだが、彼女は多分、命のやり取りに刃物を構えたことがない。
侍女同士のやりとりというのはつまり、「倒す」ことを目標に掲げる試合である。これは想像でしかないが、もしかしたら並みいる侍女は言わずもがな、アクナイトも同じではないだろうか。
──この国の侍女はな、平和ボケをしておるよ。
老婆の言葉の意味を知る。平和ボケとはなるほど、核心を突いた言葉だ。
ジャスミンたちは今日の襲撃に対して何も備えてはいなかった。他所の侍女による襲撃であろうと思いこんでいたせいだ。リンデンはできる限りの備えを施してきた。襲撃が、侍女のものだけであるとは思っていないせいだ。
4人の側室は皆が皆、高い家柄を誇っている。内2人は他国の姫君の身分である。当然その分恨みを買っている。
例えばアキルスに敵愾心を持つ人間は、お国柄当然数多い。のんびり国家のお隣漁業国だとて、国であるからには何かしらの暗雲を背負っているだろう。海上領域権のぶつかり合いだとか。
そんなおいしいターゲットが集まっているこの場に、波風立たせようとしないアホがいるだろうか。リンデンなら総力を挙げて奇襲に掛かる。
だというのにすぐさまピンとこなかった自分が非常に怖い。自分こそ平和ボケしている。今後のためにも、もう少し気を引き締めておかねばならないだろう。
となると、アレは──。
「あなたにメリットはないですよ」
沈黙を挟み口を開いたジャスミンの硬い声に意識を戻す。
思案に耽った数秒、戦闘を放置するほど生半可な精神はしていない。足下に倒れた刺客の一人を蹴り飛ばし、背後に構える侍女に横目を向けた。
「さっきも言ったが、クインスは強いし、仕掛けは置いてきた。当面を凌ぐだけなら不足はないよ。気にするな」
「……優しい人」
「本当に優しい奴は、下がってろって言うんだろうな。悪いがそこまでじゃない。集中しろよ」
「集中する前に、ひとつ」
「うん?」
声に戻った弾力のある柔らかさ。絡んだ視線は穏やかで、口元には小さくはあるが笑みすら戻っている。
「その対応を、優しいというんですよ──私は侍女ですもの。ただ守られるなんて屈辱の極みですから」
言ったジャスミンの表情が一変した。
トレニアに肉薄しようとした男の肩を鋭く突いた切っ先が、刹那の後には両腕に穴を開けた。くぐもった悲鳴に構わず、更に太股に赤い線を刻まれた男が膝を折る。
先程までの躊躇いが演技であったかのような剣激は、しかし僅かに震えた無手の左が変わらずのおびえを如実に体言していた。
唐突な変化に目を瞬くリンデンに、自分の命の危機を感じさせないマイペースを貫くトレニアが、毎度の悠長さで微笑んだ。
「ありがとう、リンデンさん。一緒に戦ってくれるなんて心強いわ」
「いやあの、ジャスミンがいきなり奮起し出したことはスルーなのか」
「あの子、環境の変化に弱いのだけれど、吹っ切れると凄いの」
「そんな脱いだら凄いみたいに言われても」
重さを感じさせない無重力ズババばっさり感で振るわれるレイピア。時折走る魔術の光。
やはり読み通りに魔剣士であったらしいジャスミンの真価は凄まじいの一言に尽きた。反撃の隙を与えない流水のスーパーコンボの前に、数多い刺客がゴミのように駆逐されていく。黒服が段々肌色から赤色に染まっていく様子は、ちょっとした地獄絵図である。
吹っ切れた、というにはあまりに早くないか。一体何がどう後押ししたというのか。その道の先人が見てれば未知との相対への恐怖がなくなるタイプなのか、ジャスミンは。
襲う凶刃を順調にブチ折りながら、リンデンはぽつりと呟いた。
「……余計なことしたかなあ」
「余計? 成長を促してくれたんでしょう?」
「将来的にはそれが余計だったかなっていう……」
まあいいか、と思うことにした。トレニアやジャスミンがなす術なく殺されるより、ずっと寝覚めは良い。
一つ溜息を吐いて剣を握り直し、害虫駆除に集中する。薄い気配と濃厚な殺意にピントを当てて、余計な音を遮断した。
金の侍女らしからぬハイテンションな高笑いが怖かったわけでは決してない。




