二
足止め役の四人が牽制しながら撤退を始めた頃、その少し前をミナ達は並んで走っていた。ナギが言ったとおり二人に怪我はなかったが、全力で走りながらも何度も踏み潰されそうになったらしく、そのプレッシャーからかいつになく息を切らしていた。
「大体、なんなんだよ、あの竜は」フェイジョアが荒い呼吸のまま悪態をつく。「俺ぁ、いつか竜と戦う時のために図鑑を何度も読んでるんだが、あんな不細工な竜は見たことねぇぞ」
忘れているだけなんじゃ、とカンナとアイリスは思ったが、この状況でわざわざ言う必要もないだろうと口には出さなかった。
「竜の中でもあれだけ大きい種はあまりいませんし、図鑑に載っていなかったというなら、もしかしたら新種かもしれませんね」
「新種!? くぅー! そう聞くとぶっ倒したくなるな!」
「ならないわよ馬鹿」
そこで四人は口を閉ざし、僅かに後方に目を向けた。再び聞こえてきた、木々がなぎ倒される音。フェイジョアとカンナにとっては若干トラウマになりそうな音である。
「撤退を始めたみたいね」と言うアイリスにカンナは頷く。
「スピード上げるけど、二人とも大丈夫?」
ミナとアイリスが頷いたのを見て、フェイジョアとカンナは足に力を込めて地面を蹴った。彼ら二人が万全の状態であれば浮遊魔法で付いて行くことは出来ないだろうが、朝から動き通しのうえ死と隣り合わせの逃走劇で疲弊した状態の二人について行くことは難しくなかった。
フラネルとカルミアは拠点に辿り着いていた。咆哮と轟音は絶えず聞こえており、鳴き声の微妙な変化から戦闘が始まったことも察していた。
「とりあえず、言われたとおり中で待機していよう。でも逃げる準備はしておいた方が良いかな。何か役に立ちそうなものがあれば良いけど……あ、そういえば食糧庫にバクナシが……」
若干焦っているのか、フラネルは独り言のように言いながら洞窟の奥へと入っていった。残されたカルミアはただその場に立っていた。しかし何もしていなかったわけではなく、考えることで手一杯になり身体を動かす余裕がなかっただけだ。
何度も、そして今も聞こえている竜の咆哮。それは――――
彼女は何度か首を振って洞窟の奥と入り口を見た後、何かを決心したように洞窟を飛び出していった。
ローレルとナギはそれぞれ能力を駆使して、ジンとホオズキは走りながら後方へ魔法を放つことで牽制を続けていたが、竜はダメージを負うことはおろか足止めにすらならず、それどころか前者の二人の動きは見切られつつあった。
一時的に撒いて姿をくらまさねば、他のメンバーと合流など出来ない。フェイジョアとカンナは大分疲弊しており、そしてフラネルとカルミアに至っては浮遊魔法が使えない。遠征の時のように背負えば、すぐさま追いつかれてしまうだろう。
ローレルは踏み降ろされた左足を避けながら顔をしかめる。死角となっているはずの左側にいるローレルの動きすら把握されている。不可視のナギすら攻撃を読まれるのだから、魔力の流れで敵を探知しているのだろう。
瞬間、反対側にいるナギが巨大な何かに吹き飛ばされる光景が瞼の裏に移った。
「ナギ!」
その声に反応したナギは、反射的に上方へ跳ぶ。そしてその判断は正解であった。次の瞬間には竜の尾がナギのいた場所を凪いだ。巨体に隠れていて見えなかったが、手足と比べてその尾は極端に長いようだった。横や後方に回避しても間に合わなかっただろう。ろくに防御もしていない状態で大木よりも太い尾の一撃を食らえば骨折では済まなかったはずだ。
その一連の行動により生じた隙を埋めるように、ジンが炎の魔法を放った。先程からロメリアの二人で何かしら有効な魔法がないか模索しているのだが、竜の鱗はそのどれも平等に無効化してしまう。
これほどの速度で突進する竜に近付くことでさえ危険であり、そこに尾による攻撃が加わった今、前衛の二人は防戦一方となる。
ローレルは後衛に向けて叫ぶ。
「ジン! 先に行って、皆に脱出の準備を進めるよう言ってくれ! ナギ、ホオズキ! ここで食い止めるぞ!」
言い終えると同時に、ローレルは地面を蹴って高く跳び上がった。狙いは右目。その動きに過剰なまでに反応した竜は大きく顔を逸らして瞳への攻撃を避ける。しかし、ローレルはそれで構わなかった。竜の足が止まった隙に三人は正面へ移動し、向かい合うかたちとなる。
「二人とも、右目を集中的に狙ってくれ。この場で食い止めるにはそれしかない」
二人が頷き、再び動き出す。それをジンは僅かに振り返って見ていた。
自分が伝令に選ばれた理由は理解できる。予見、不可視、圧倒的な魔力。それに比べて自分は剣と魔法が使えるだけの器用貧乏でしかない。もちろん、だからと言って個の力で彼らに劣るとは思っていないが、少なくとも現在、あの化物を相手にする中で、最も足手まといなのが自分だったというそれだけのことだ。
理解が出来ても悔しいと感じる心が消えてなくなるわけではなく、彼はいつも以上に険しい表情で前を向いた。
戦闘音が大分遠ざかった頃、遠く前方にフェイジョア達の姿を見つけた。しかし彼らはあろうことか足を止めて何か話をしている。ローレル達が命懸けで戦っている時に呑気な、と怒りを露わにする。
「おい! 何を立ち止まっているんだ! 一体何のために足止めを――――」
思わずジンの言葉が止まった。そこにいるはずのない人物。カルミアの姿を目にしたためだった。どういうわけか、彼女の首根っこをフェイジョアが掴んでいる。まさかここまで戻ってきたのか。何のために? フラネルの身に何かがあったのか?
「ジン」というアイリスの呼び掛けで、ジンは若干落ち着きを取り戻す。
「ここでなにをしているんだ。重要な話でも移動しながらするべきだ」
「それがねぇ」アイリスが視線を向けたのはカルミアだった。彼女はジンの怒鳴り声に驚いて身を固くしていたが、ようやく我に返ると強い眼差しを浮かべた。
「ジンさん、えっと、相手はまだ小さい子で……だから怯えてるだけなんです! 話せば大人しくなってくれると思います! だから私を――――」
「待て。小さい子? 君は何の話をしている」
「あの竜の話みたいよ」
アイリスの補足を聞いて、ジンは思わず額に手を当てる。口にこそ出さなかったが、恐怖のあまりカルミアの頭がおかしくなったと思ったのだ。先程までの怒りがまたふつふつと湧いてくるのが分かった。
「二十メートルの幼竜など存在するはずがないだろう!」
「でも……!」
「それにだ! 話せば大人しくなる!? 君はまさか竜と話が出来るとでもいうのか!?」
その言葉に、フェイジョア以外の全員が、思わず身を固めた。カルミアもその一人であったが、すぐに強い視線を返して「はい」と頷いた。ジンはいい加減にしてくれとでも言いたげに額を右手で覆って天を仰ぐ。
「いや、あり得るかもな。二十メートルの幼竜」
唐突にそう言ったのは、先程からずっと思案顔で黙っていたフェイジョアであった。
「すっげーレアらしくて図鑑に写真なんかは載ってなかったんだが、そう言われるとブバルディアの幼竜は特にデカくて、成竜とは似ても似つかない容姿だって書いてあった気がするぜ」
「ブバルディア!?」と今度はカンナが声を上げた。竜の図鑑など見たことがない彼女でも知っている名前であった。確認されている竜種の中で最も巨大な身体を持つ竜である。特に大きな個体は体長百メートルを超えるとされ、尾まで入れれば倍近くに達するという。しかし目撃例は少なく、カンナが五歳の頃に目撃された時は連日ニュースで取り上げるほどの大騒ぎになっていた。
フェイジョアがふと思い出したように口を開く。
「そうだ。ブバルディアなら、教師達がここにこれねぇ理由も説明が付く。ブバルディアの母親は、幼竜がどこにいてもその声を聞きとれるんだ」
「と、いうことは?」カンナが顔をひきつらせながら訊く。
「島の外じゃあ、もっと激しい戦闘が起きてるだろうな。学院教師VSブバルディアってところだ。ま、勝ち目は万が一にもねぇな」
ジンは信じられないといった表情で二人の会話を聞いていた。そして、ブバルディアの生態を果たしてカルミアが知っていたのかと考えた。答えは否だ。彼女は竜の姿も見ていなければ、先程の口ぶりからして敵が竜の一種であることすら知らなかったように思える。
龍と会話が出来る。いや、人間以外の生物と会話が出来る。その妄言が現実味を帯びてくると、ジンは思わず手を伸ばしてカルミアの左肩を強く掴んだ。
「ジン」
「おい!」
アイリスがジンの肩に手を置き、フェイジョアがカルミアとの間に割って入った。
「お前さっきからなにイライラしてやがるんだ! カルミアの話が本当だってんなら何の問題もないだろうが!」
「お前は本当に無知だな、デルフィニウム」
ジンは鋭い視線を向けて、こう言った。
「十人目の偉人すら知らないのか」
ローレル達は死力を尽くして竜をその場に留まらせていた。負傷はしていないが、これは敵の攻撃があまりに強力であるため、かすっただけで致命傷になり得る現状では当然のことだった。しかし、この極限の状況下に、体力は確実に削られていく。特に前衛で動いている二人の消耗は激しく、ローレルは既に肩で息をしており、ナギも口元を覆っていた布を外して荒い呼吸を繰り返していた。魔力を多く消費する不可視は既に使えない。ローレルは予見があるが、彼女は持ち前のスピードだけで竜の相手をしているのだ。
一人、まだ余裕のあるホオズキだが、だからこそ、この現状に焦りを覚えていた。前衛の二人が、いや、どちらかが倒れれば、その時点で自分達になす術はなくなる。脱出を命じた以上、助けが来る可能性は限りなく低い。魔力を溜めながら、時折前衛達に目を配り、どうか保ってくれと願うしかない。しかし、その行動が、致命的な隙となってしまった。
大きく息を吸う竜。咆哮が来ると三人とも考えたが、しかし、ローレルの瞳に映ったのはまるで違う未来だった。
大地を溶かすほどの灼熱の炎。それに飲み込まれるのは――
「ホオズ――――」
疲労から予見の力が弱体化していたのだろう。言い終わる前に、竜はその巨大な口から灼熱の炎を吐いた。ローレルはあまりの熱量に右腕で顔を隠しながらホオズキがいた場所を見続ける。少なくとも回避は間に合わなかったように見える。
炎を吐き終えた竜は天に向かって咆哮をあげた。どこか苦痛を感じさせる声であったが、それを気にしている余裕はなかった。
ローレルとナギは目を走らせてホオズキの居場所を探す。先程までいた場所に姿はない。どこかに吹き飛ばされたのか、あるいは、骨すら溶けてしまったのか。後者の考えを振り払い、ローレルは駆け出した。先程までホオズキがいた場所に立つと、その遥か後方に人影が見えた。ホオズキだ。結界は間に合ったらしく、ローブに焦げ跡などは見られない。しかし吹き飛ばされて木に身体を打ち付けたのか、木にもたれて意識を失っているようであった。
その姿に安堵し胸を撫で下ろした瞬間、背後で、足を踏み出した音が聞こえた。振り返ると、竜は左足を前に出していた。続いて右足を上げる。
突進する気か、とローレルの背筋に冷たいものが走る。まっすぐ進んだ先には、意識を失ったホオズキがいるのだ。しかし、今の疲弊した自分達が、ホオズキを連れてこの竜から逃げられるだろうか。
ローレルは剣を構えた。逃げることは出来ない。ここで食い止めるしか。
彼よりも早く決断したナギは、既に右目に向けて跳んでいた。竜はやはり嫌がる様な素振りを見せて足を止める。しかし攻撃が止めば、間違いなくホオズキに向かって突進するだろう。
人間が近付いてくると顔を振り、離れたところを尾で追撃する。ワンパターンな行動であるが、竜という強大な力を持つ種族にとって、どんな稚拙な行動も必勝法になり得るのである。
ナギの回避が一瞬遅れた。横殴りの尾が右足首に触れて、そこに激痛が走った。骨が折れたなどという生温い状態ではない。彼女の右足は、膝から下が足としての原型を留めていないほど粉々に破壊された。
ナギがやられても、ローレルは引くわけにはいかなかった。しかし、三人だから最低限こそなんとかなっていた敵を、たった一人で相手できるはずがない。彼には確かに特殊な眼があるが、それだけだ。圧倒的な力を前に、彼もまた、なすすべなく倒れた。
二人ともなんとか息をしていたが、竜にとってはどうでもいいことなのだろう。彼らが塞いでいた道をゆっくりと歩き出す。すぐに速度は上がり、最高速度とまではいかないまでも、ホオズキに迫る頃には地面を大きく揺らすほどだった。その揺れで、ホオズキの身体が傾いて地面に倒れる。
そこへ、竜の咆哮にも負けないほど気合の籠った大声が響いた。一瞬、怯んだ竜の眼前に、両手剣を構えたフェイジョアが姿を現す。竜の鼻先に重たい一撃。斬撃というよりも打撃。そしてカウンター気味に入った一撃は竜の動きを見事に止めた。そこへ後方から援護射撃の雷撃魔法が飛んでくる。そして、それに並走して接近してきたのはカンナであり、その背中にはカルミアが乗っていた。
突然の攻撃に怯んでいた竜の頭に飛び乗る。カルミアはカンナの背中から飛び降りて、頭の上で膝を付く。彼女の前には垂れた小さな耳がある。そして、両手をメガホン代わりにして一度大きく息を吸ってから、耳元で「やめてください!!」と叫んだのだった。
竜は驚いたように目を見開いた。カルミア以外は緊張した面持ちでその様子を窺う。竜はしきりに右目を動かしている。どうやらカルミアの姿を見ようとしているらしかった。カルミアが見える位置まで移動すると、竜は小さく鳴いた。カルミアは「うん」と返事をする。
「ホントなんだ」とカンナが引きつった表情で言う。竜の身体を上ってきたフェイジョアが「そうみてぇだな」と返した。竜の足元では、ナギとアイリスがローレルとナギの元へ走っていった。ホオズキのことは、後から駆け付けてきたらしいフラネルが見ていた。
「ま、とりあえずここは助かったけど、面倒臭いことになっちゃったわね」
フェイジョアは何も答えずに、竜の正面に立っているジンを見下ろした。ジンは竜を、いや、その額に乗っているカルミアを険しい表情で見ていた。
「うわ!?」
不意に、そんな叫び声が聞こえて、竜の近くにいた面々はそれぞれ剣に手を掛けた。その声はフラネルのもので、そして彼の姿を見たカルミアは思わず「あっ」と声を出し、慌てた様子で竜に言って地面へ降ろしてもらった。しかしその頃には、ジン、カンナ、フェイジョアは既にホオズキの傍まで来ており、怪我人の姿を見て驚きの表情を浮かべていた。彼らとホオズキの間にカルミアが割って入ってその姿を隠すが、もう遅い。
使用者が気絶したことでホオズキの身を包んでいた魔道具はただのローブと化していた。そして、めくれた布の向こうにあった顔は、彼らが知っているものとは全く別人のものだった。