第4話:記憶構造の異常と、学習する怪異
夜の帳が降りた銀座。
ハイブランドの巨大なショーウィンドウに幾重ものネオンが反射し、アスファルトを艶やかに濡らしている。
だが、華やかな表通りの喧騒から一歩路地裏へ踏み込むと、そこには異様なほどの静寂が張り詰めていた。
「……風見さん、本当にこんなところに『怪異』なんて出るのか? 学校帰りにジャージのままで引っ張り出される身にもなってくれよな」
無造作にフードを被った俺――藤原啓一が不満を漏らすと、仕立ての良いスリーピーススーツを着こなした風見嵐水は、不機嫌そうに革靴のつま先で小石を蹴り飛ばした。
今ではマフラーという制約はあるものの、普段通り高校生活を送れているのだが、たまにこうして「特命案件の現場検証」という名目で、有無を言わさず駆り出されているのだ。
その傍らでは、トレンチコートをスタイリッシュに羽織った日向陽菜が、タブレット端末の画面を鋭い視線で睨んでいた。
「文句言わないの、啓一くん。うちの会社の主要クライアントである老舗百貨店の重役が、昨夜の帰りがけに『路地裏で和服姿の巨大な怪異に睨まれ、記憶の論理構造をごっそり消し飛ばされた』って半狂乱で駆け込んできたのよ」
「記憶の論理構造を……?」
「ええ。直近数時間の記憶が、まるで破損したデータみたいに抜け落ちている」
陽菜はタブレットを操作する。
「株価やブランドイメージに直結する大問題なんだからね」
「ふん。酔っぱらっていたんじゃないのか?人間の脳のバグを妖怪のせいにするなよ……と言いたいところだが」
嵐水はふと足を止め、俺の首元に装着された『量子干渉型・感情波形マフラー』に目をやった。
青く点滅していた小さなランプが、不規則な赤色へと切り替わり、細かな警告音を刻み始める。
「……ほう。この一帯の電磁場、明らかに局所的な情報保持異常を起こしてやがるな」
「情報保持異常?」
「簡単に言えば、記憶を保存する側と消去する側の処理が、外部から勝手に書き換えられている」
嵐水は薄く笑った。
「俗な言い方をすれば、メモリリークだ」
ピリピリと肌を刺すような静電気の気配。
俺は首元に巻かれたマフラーの締まり具合を確認しながら、闇に沈む細い路地の奥へと視線を凝らした。
体内で牙を研ぐ禍神の力を、マフラーの強制制御でそっと「定格値」の檻に押し込める。
「来るぞ、風見さん……。空間の定義が、無理やり書き換えられてる」
俺が低く呟いた瞬間、路地裏を包んでいた夜気が一気に凍りついた。
街灯の明滅とともに、アスファルトの影がぐにゃりと歪み、そこに「在り得ないはずの者」が立ち上がる。
それは、古い着物を纏い、巨大な一つ目を持つ異形――都市の隙間に巣食う、忘れ去られた因習の残滓。
人間の集合的無意識が生み出した、厄介な「特異点エラー」そのものだった。
「お前が銀座の夜景をバグらせてる元凶か」
嵐水は怯むどころか、むしろフッと冷笑を浮かべ、ジュラルミンケースから例のゴツい金属製のデバイス――『対位相干渉用・重力ハンマー』をガチャリと引き抜いた。
「勝手に人間の街の情報領域を占有するんじゃない。お前の存在自体が、この文明社会における『重大な例外処理エラー』だ」
ハンマーを構える。
「……今すぐ俺の物理法則で、そのデータベースから綺麗に削除してやる」
「嵐水、あんまり派手にやって警察沙汰にしないでよね! 後始末は全部こっちの仕事なんだから!」
陽菜がスマホを片手に叫ぶが、もう戦闘は最高潮に達していた。
「いくぞ、小僧! お前のその『禍神』の出力、全開ではなく『安全マージン内』で俺のハンマーに同期させろ!」
「いい加減その『小僧』って呼ぶのやめてもらえませんか!こちとら一応、高校生なんですけど!」
「文句を言うな、実年齢より中身がガキなんだから問題ない。さっさと同期させろ!」
軽口を叩きつつも、俺は胸の奥の禍神の力を鋭く解放する。
黄金色の光が瞳の奥で爆ぜ、首元のマフラーが熱を帯びるのと同時に、全身を駆け巡る圧倒的なエネルギーが導管のように流れ込んでいく。
――だが、その瞬間。
妖怪の漆黒の一つ目から、常軌を逸した濁声が響いた。
ガァァアアアアッ!!
「なっ……!?」
空間そのものが逆巻くような強烈な異常重力場が突如として反転し、吹き荒れた暴風が俺たちの足元をすくい上げる。
ただのデータエラーなどではない。
この妖怪は、こちらの出力に合わせて自らの状態を変化させる「適応型の動的エラー」だったのだ。
圧倒的な質量を持った漆黒の爪が、容赦なく嵐水へと振り下ろされる。
「風見さんっ!」
吹き飛ばされかけた嵐水を横目に、俺は首元のマフラーの許容リミッターを限界ギリギリまで手動で引き絞った。
マフラーの電磁制御がブウンと高い異音を立て、体内の禍神の暴走エネルギーを無理やり一点に収束させる。
「俺の力も使ってください……! こいつの適応アルゴリズムごと、位相を固定します!」
「ふっ、小僧にしては上出来だ!」
嵐水は不敵に笑うと、迫り来る巨腕の軌道に合わせてハンマーのダイヤルを乱暴に叩き回した。
俺のマフラーから放出される電磁パルスでねじ伏せた妖怪の硬直の隙間を狙い、嵐水が重力ハンマーを完璧な角度で振り抜く。
「む、やっこさんの出力が倍になった? だったらこっちは、時空間の許容クロックを限界までオーバークロックして、そいつの処理落ちのスキマに楔を打ち込むまでだ!」
嵐水は叫ぶ。
「非科学的な怪異だろうが、古代の呪いだろうが、要するに『高エネルギー場の塊』にすぎない! 物理で殴れないバグなど存在しない!」
嵐水のハンマーの先端が、激しい火花を散らしながら妖怪の核を正確無比に叩き潰した。
同時に、俺のマフラーから放たれた電磁パルスが逃げ惑う妖怪の退路を完全に塞ぐ。
ガキィンッ!
世界が軋むような金属音が響き渡り、反撃のエネルギーは内部から完全に相殺された。
妖怪の巨体は、強力なデバッガーに強制終了させられたプログラムのように、泡となって夜の闇へと消え去っていった。
――静寂が戻る。
銀座のネオンが、再び何事もなかったかのように美しく夜空を彩り始めた。
「ふん、こんなもんだろう」
嵐水は汗を拭いもせず、やれやれといったふうにハンマーをケースに放り込む。
陽菜はタブレットを操作しながら「まったく、派手にやりすぎよ」とため息をついた。
一連の激しい攻防の余韻が残る中、俺は首元のマフラーの熱を鎮めながら、ふと目の前で平然と片付けをする嵐水の背中に疑問を投げかけた。
「あの、風見さん……。さっきあんな化け物の反撃を目の当たりにしても、風見さんは少しもビビらなかったですね。……怖くないんですか?」
「怖がる? なんでだ」
「俺なんて、自分の身体にこんな禍神なんかが宿ってるだけで、毎日が恐怖で狂いそうになるのに」
手を止めた嵐水は、ジュラルミンケースを閉めながら、どこか遠い目を――あるいは、誰にも共有できない理不尽な記憶の底を覗き込むような目を、ほんの一瞬だけ向けた。
「お前が毎日怯えてるのは、自分の内側にある『未知のカミサマ』が、いつかコントロールできなくなる恐怖だろ」
「……はい」
「だがな」
嵐水は工具を片付けつつ、ポツリと言葉を継いだ。
「俺は神どころか、世界そのものと戦ったことがある」
「……世界?」
「世界自体が、文字通り『消えかけた』んだ」
俺は息を呑んだ。
嵐水は苦笑する。
「そして、その戦いの末、すべてが巻き戻され、因果律の辻褄合わせで綺麗に無かったことにされた」
「え……?」
「まあ、啓一が覚えていないのも無理はない。そんなの、俺以外の誰も……陽菜を含めて誰も感知できなかったからな」
なぜか嵐水が、ほんの少しだけ赤面しているように見えた。
「それって、どういう……」
「なに、ただの個人的なトラウマの書き換えエラーだ」
嵐水はいつもの調子に戻る。
「だがな、あの時に比べれば、街の片隅で妖怪だかバグだかが暴れてるなんてのは、せいぜいモニターの画面にゴミカスみたいなピクセルエラーが混じってる程度の問題だ」
そして、ニヤリと笑う。
「そんなもの、リフレッシュレートをいじって、俺の技術で力技で上書きしてしまえば終わりなんだよ」
さらりと言ってのけた嵐水の横顔には、誰にも理解されない孤独な地獄を一人でくぐり抜けてきた男特有の、底知れない図太さと自信が満ちていた。
それが何を意味するのか完全に理解することはできなかったが、その圧倒的なまでの屁理屈と科学万能主義に、俺は思わず小さく吹き出す。
首元のマフラーが刻む規則正しい駆動音とともに、胸の奥に巣食う禍神への恐怖がスーッと軽くなっていくのを感じた。
「……そうですね。確かに、風見さんに比べれば俺の悩みなんて小さなエラーかもしれません」
「当たり前だ。感傷に浸ってないで、早く機材を片付けろ。陽菜が『明日も朝から学校でしょ、早く帰って寝なさいよ』ってこっちを睨んでいるぞ」
「って、ちょっと! 私のセリフを勝手に代弁しないでよね!」
堰を切ったような笑い声が、ネオン輝く銀座の路地裏に再び響き渡る。
不条理と怪異に満ちた世界を、俺たちは今日も屁理屈と圧倒的な技術で切り拓いていく。
騒がしくて、最高に愛おしい日常の続きへと、俺たちは歩き出した。




