第2話:因果関係の異常と、予定された事故
東京の片隅にある総合大学のキャンパス。俺――藤原啓一は、とある研究室で特別研究協力員として登録させられている。
無機質なコンクリート造りの実験棟の一室では、ナビエ・ストークス方程式の複雑な数式がディスプレイを埋め尽くしていた。
「おい、啓一。シミュレーションの計算処理が途中で頭打ちになってるぞ。お前、昨夜も徹夜で変なデータの整理でもしてたのか?」
白衣のポケットに両手を突っ込みながら、不機嫌そうに俺のデスクを覗き込んできたのは風見嵐水だ。
大学院での研究者としての彼は、萬屋にいる時とは別人のように、最新の流体解析ソフトを操り、コーヒーの香りを身に纏っている。
その研究室へ、日向陽菜がタブレットを片手にシャープなヒール音を鳴らして歩いてやってきた。
「ちょっと嵐水、新人くんをいじめないの。それより、今日の午後に予定してた会社との合同プロジェクトのミーティング、この『特命案件』のせいでスケジュールが先送りになったわよ」
陽菜が画面をスワイプして俺たちに見せる。そこに表示されていたのは、一帯の再開発図面と、赤くマークされた一棟の建物の詳細データだった。
――『再開発エリア内の老朽化アパート。解体工事の着手以来、入る業者や作業員がなぜか次々と不審な事故死を遂げ、工事が完全にストップしている曰く付きの現場』
「解体現場の事故なんて警察やゼネコンの仕事だろ。なんでこの研究室が首突っ込んでるんだよ」
俺が苦笑すると、嵐水は鼻でフンと笑ってみせた。
「ただの労働災害じゃないんだよ。警察の非公式データによると、被害に遭った作業員たちは全員、直前まで安全確認を怠っていなかった。それなのに、特定の時刻になると、寸分狂わず自ら足場から飛び降りたり、重機の下敷きになるような異常行動を取っている」
嵐水は画面に表示された波形を指でなぞった。
「物理法則を云々の話でなはい。問題は、人間の意思決定や運動指令に外部から異常な入力が割り込んでいることだ」
「つまり……?」
「人間の脳が、存在しない命令を受け取っている」
嵐水は口角を上げた。
「人間の意思決定プロセスに勝手なループ処理を書き込む、『強制終了のバグ』ってわけだ」
陽菜が呆れたようにため息をつく。
そう、彼女が勤める会社は、まさにその周辺一帯の大型再開発・買収計画を主導している。地権者との交渉は順調だったものの、あの忌まわしいアパートの解体が進まないせいで、「あの一帯の土地を更地にしようとすると呪われる」なんて不穏な噂が流れ始めており、金融機関からの融資や行政の認可まで差し止められそうになっていたのだ。
「というわけで、萬屋の技術と――あなたの『力』で、その空間のバグを根本からデバッグしてきて欲しいってわけ。頼むわよ、二人とも」
首元に装着した『量子干渉型・感情波形マフラー』が、微かに冷たい駆動音を立てる。
あの山村の悪夢以来、俺はこのガジェットのおかげでかろうじて理性を保ち、こうして彼らと共に「不可解な不条理」を技術と力で殴り倒す裏稼業を手伝うことになっている。
「わかった。……行くか」
夕暮れ時。
俺たちが到着したのは、静寂に包まれた古びたアパートの前だった。
周辺はすでに他の建物が取り壊され、不気味にその一角だけがポツンと取り残されている。
ドアを開けて足を踏み入れた室内は、一見するとどこにでもある古びたワンルームだった。生活感の残るクロスやフローリングには、微塵も気味の悪さはない。
「……普通の部屋に見えるけどなあ」
俺が首をかしげると、嵐水は平然とした顔で大型のジュラルミンケースを開け、ガタガタと無骨な計測機を取り出し始めた。
「当たり前だ。普通じゃない部屋なら、油断ぶっこいて次々にお陀仏になんかならないだろうよ」
計測器の数値が一斉に跳ね上がる。
「問題なのは、この部屋の構造体に沿って発生している『位相空間の潜伏エラー』だ」
「位相空間って……何なんだよ」
「細かいことは後だ」
嵐水は画面を睨んだ。
「過去の強い負の感情や事故に伴うエネルギーが、この建物の構造体に異常な波形として残留している。そこへ解体作業による衝撃が加わると、異常波形が増幅され、人間の脳に干渉する」
「じゃあ、解体しようとすること自体がトリガーになってるのか」
「その通り。典型的なフィードバック型のバグだ」
嵐水が俺を見る。
「……おい啓一。お前の胸の奥の禍神を起こせ」
「え?」
「その異常波形に対して、お前の禍神は妙に感度が高い。空間の歪みを内側からあぶり出すアンテナ代わりにしてやる」
「りょ、了解した……っ!」
俺が奥歯を噛み締め、体内の禍神の力をわずかに解放する。黄金色の光が瞳の奥で瞬き、全身の血流が沸騰するように熱を帯びた。
その瞬間、首元のマフラーがけたたましく振動し、部屋の空気が一瞬にして重くねじれ始める。
天井の隅から、肉眼では見えないはずの黒い電磁ノイズの渦がスルスルと這い出してきた。
「ビンゴだな。……陽菜、計算通りのタイミングで『指向性・空間デバッガー』の出力を絞れ!」
「任せて、もうリンク完了してるわよ!」
アパートの外で待機している陽菜からスマホ経由で送られたリアルタイムの演算データを受け取り、嵐水は一寸の迷いもなく、青く鈍く光る巨大な質量ハンマーを天井のノイズの核心へと叩き込んだ。
――だが、轟音の割に天井は崩れない。
「え……?」
俺が目を丸くすると、嵐水はニヤリと笑った。
「こいつは普通のハンマーじゃない。衝撃エネルギーの大部分を建材ではなく、異常位相領域へ逃がしている」
バチバチッ!と激しい火花が散り、部屋全体が轟音とともに激しく揺れる。
「つまり、殴ってるのは天井じゃない。天井に重なっている『異常な空間』そのものだ」
「それ、物理学なのか……?」
「俺が物理と言えば物理だ」
「滅茶苦茶だ!」
嵐水の狂気じみた屁理屈と、俺の体内で暴れる禍神のエネルギーが噛み合った瞬間、空間を引き裂くような高い電子音が響き渡る。
――次の瞬間。
部屋を支配していた異常な重力と冷気が、まるで嘘のように霧散した。
窓の外から差し込む夕焼けの光が、何の変哲もない、ただの古いアパートの床をオレンジ色に優しく照らし出す。
「……終わった?」
「ああ。異常波形のフィードバックループは切れた」
嵐水は計測器を確認する。
「これなら、明日から解体業者も作業に入れるはずだ」
――デバッグは、完璧に完了した。
「ふん、上出来だな」
嵐水は額の汗を拭い、やれやれといったふうにハンマーを放り出す。
その手元に、陽菜から「お疲れ様、今すぐ大学に戻って共同研究のデータまとめを手伝いなさいよ」と容赦ないチャット通知が届く。
俺は思わず苦笑いを浮かべた。
不条理な怪異に満ちた世界でも、この最高に面倒くさくて騒がしい仲間たちがいれば、禍神の呪いだって怖くはない。
俺たちは明日も、泥臭く現実を書き換いていくのだ。




