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くもらぬ月  —幕末を照らした無私の歌人・大田垣蓮月—  作者: 細川 雅堂


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第五章 くもらぬ月

明治の世となり、年号が改まっても、京の北端にある西賀茂・神光院の境内には変わらぬ静寂が横たわっていた。


八十の坂を越えた蓮月は、この緑深い庵で、なおも静かに土を捏ね、鉄筆を走らせていた。長年の水仕事と土仕事のためにその手指は曲がり、関節は固く固まっていたが、作り出される手ひねりの器には、歳月を重ねるごとに一層の透き通るような気品と温もりが宿っていた。


世間では文明開化の威勢よい掛け声が響き、男たちが西洋の衣服に身を包んで街を闊歩していたが、そんな時代の喧噪も、神光院の竹林を吹き抜ける風の音の中に静かに飲み込まれていった。


そんなある日の午後、庵の庭を踏みしめる力強い足音が響いた。訪れたのは、かつてこの庵で青く昂ぶる情熱を持て余し、蓮月から書と歌、そして人の心の筋を叩き込まれた富岡鉄斎であった。


長崎での修行を経て、今や世に聞こえた一人前の画家に成長した鉄斎は、深い敬愛の念を込めて老尼の前に平伏した。かつての青くささは削ぎ落とされ、その瞳には真の表現者としての重厚な光が宿っていた。


蓮月は、目の前に座る鉄斎を愛おしそうに見つめ、小さく微笑んだ。二人の間に、多くを語る言葉は必要なかった。


鉄斎は無言で茶を点て、蓮月はその茶を静かに口に含む。庭の竹葉が風に揺れ、木漏れ日が畳の上に柔らかな斑影を描き出していた。


ふと、鉄斎の眼差しは、傍らに置かれた蓮月の手びねりの茶碗へと向けられた。老いてなお眼識を深め、書家としても画家としても己の境地を極めてきた鉄斎だからこそ、その小さな素焼きの器が持つ異様なまでの凄みが手に取るように分かった。


鉄斎は指先でその表面をなぞり、鉄筆で刻まれた仮名文字に目を凝らした。――釘や鉄筆で彫られた文字は、驚くほどに迷いがない。陶土の硬さや抵抗に阻まれれば、どれほど熟練した者でも、どこかに力の緩みや迷いが生じるものだ。だが、蓮月の刻む線には、寸分の狂いも、ためらいもなかった。それは大地を深く捉えた根のようにしなやかで、素焼きの土の裏側まで意志の芯がまっすぐに染み透っている。


「……これほどの線を引ける者が、この世にほかにいただろうか」


絵の道で己の境地を切り拓いた弟子と、あらゆる執着を削ぎ落として土に還ろうとする師。言葉を超えた深い理解と魂の響き合いが、小さな庵の空気をごく自然に満たしていた。


「鉄斎さん……良い絵を描くようになりましたね」


「すべては、この庵で母上から教わった土のぬくもりと和歌の心があったからこそでございます」


鉄斎の言葉に、蓮月は静かに首を振った。


「違いますよ。あなたが己の足で立ち、己の心で世界を見つめたからです。……もう、私から教えることなど何ひとつありません」


そう言うと、蓮月はどこか遠くを見るような、澄み渡った瞳で庭の木々を仰ぎ見た。


我が子をすべて失い、地獄の底を這いずり回った自分に残された最後の「魂の子供」。その男が立派な大樹となった姿を見届けたことで、彼女がこの世で果たすべき役割は、すべて静かに満たされたのであった。


明治八年の冬、蓮月は己の命の灯火が静かに消えかけていることを悟った。老衰ゆえの死期を感じ取った彼女は、他人の手を煩わせることを何よりも嫌い、自らの手で静かに最期の仕舞いをつけ始めた。


自分がこの世を去ったあとに周囲が慌てぬよう、身の回りの僅かな品を整理し、自らを納める棺の用意や、遺体を包むための風呂敷をひっそりと手元に揃えたのである。


後に、彼女の身の回りを世話していた弟子や僧たちがその荷を解いた際、思わず息をのむこととなる。自ら用意した風呂敷の隅には、誰にも見せることなく、かすかな墨のタッチで一輪の「蓮の花」と、その上にぽっかりと浮かぶ「満月」の絵がひっそりと描かれていたからである。


泥の中から芽吹き、美しく花開く蓮と、夜空を照らすくもらぬ月。


それは、壮絶な悲劇から始まり、泥を握りしめて生き抜き、すべてを包み込んで去っていく彼女の八十五年の人生そのものを象徴するかのようであった。


明治八年十二月十日。冬の冷気が神光院の境内を深く包み込む夕刻であった。


畳の上に横たわった蓮月は、駆けつけた門人たちや鉄斎が見守る中、静かにまぶたを閉じた。呼吸はやわらかく、その苦痛の影すら感じさせない穏やかな顔立ちであった。


ちりほどの心にかかる雲もなし けふをかぎりの夕ぐれのそら

(心には塵ほどの曇りもかかってはいない。今日を限りとする、この澄み切った夕暮れの空のように)


己の胸の中にあった歌の通り、彼女の心には世間への執着も、死への恐怖も、過去の悲劇への未練も一切残っていなかった。雲ひとつない冬の夕空のように、その心はどこまでも透き通り、澄み切っていた。


そして、かすかな息の引き取り際、彼女が遺した辞世の歌が、門人たちの胸に深く刻み込まれた。


願はくはのちの蓮の花のうへに くもらぬ月をみるよしもがな

(願わくは、この世を去ったのち、極楽の蓮の花の上に座して、濁りのない澄み渡った月を仰ぎ見たいものだ)


八十五年の生涯であった。


三本木の川端で曖昧な落胤として生まれ、愛する夫や子供たち、父をすべて奪われ、血と雨の混ざる墓前で爪を折って泥を掻きむしった一人の女。その絶望の底から立ち上がり、土を捏ね、言葉を刻み、自らの美貌すら投げ捨てて「無私」の境地へと至った女は、最後にただの土へと還っていった。


すべてを失ったからこそ、彼女は世界すべての愛しさと切なさを、その両腕で抱きしめることができたのである。


蓮月が息を引き取ったその夜、神光院の静かな境内の上空には、冬の澄んだ夜空がどこまでも広がっていた。


雲ひとつないその天空には、地上を優しく照らすくもらぬ満月がぽっかりと浮かんでいた。


この作品の背景にある歴史観はnoteのエッセイでも発信しています。

(https://note.com/gado_works)

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