第9話 予定を入れない戦略——「何もしない」という最高の贅沢、のはずだった
観測日時:何事も予定のない週末の朝
観測対象:「何もしない」という予定、そしてそれがもたらす想定外の退屈
観測者:カノジョ(今日こそ本当に何もしない)
私はカノジョ。物語の案内役。最近、本編の展開がシリアスすぎてやたらと出番が多い。でもノーギャラ。福利厚生ゼロ。ブラック労働させられている私が見せられない裏日記を綴るね。
最近、気づいたことがある。平日はちゃんと働く。用事を済ませる。人と会う。約束を守る。でも週末の一日くらい、何も予定を入れない日があってもいいんじゃないか。というか、むしろその日の幸福度が極めて高いことを、データが示している。
今日はそんな日だ。アラームはかけていない。自然に目が覚める。スマホを見ると、特に通知もない。週末は仕事関係の連絡は「月曜にしよう」という暗黙のルールがあるらしく、誰も私を急かさない。
これは――サボれる。しかも、いつもの「用事があるけどサボる」じゃない。最初から予定がない。
よし、決めた。今日は何もしない。
データによる「最適解」の計算
ここで真面目に計算を始める。サボりたいからではなく、この選択が単なる怠惰ではなく戦略的休息であることを証明したいからだ。
平日5日間の活動パターン:
· 平均睡眠時間:6.5時間
· 仕事・移動・家事・用事:11時間
· 自分のための時間:残り6.5時間(うち、SNSやテレビなどの受動的活動が大半。完全な「無為」はほぼゼロ)
「何もしない日」の活動パターン(理想):
· 睡眠:好きなだけ(平均9時間)
· 自分のための時間:残り15時間(うち、積極的休息: 30%、受動的休息: 40%、無為: 30%)
平日は自分のための時間が6.5時間でも、そのほとんどが「ながら」か「受動的消費」。脳は休まっていない。むしろ、情報過多で疲れている。
一方、何もしない日は、自分のための時間が15時間。そのうち「何も考えない無為な時間」が約4.5時間もある。この「無為」こそが脳のデフラグに最も効果的であることが、脳科学の研究(うろ覚え)で示されている。
さらに、金曜の夜に「明日の予定、何もない」と思った時のあの安心感――これを仮に「幸福度+50」と定義しよう(単位はあくまで感覚値)。
よし、データは味方した。今日は完全に何もしない。
やらかし(かわいげ)
午前9時。パジャマのまま、コーヒーを淹れる。朝ごはんは適当に。テレビもつけない。スマホも遠くに置く。ただ、ソファに座って、窓の外を眺める。特に何も考えない。「今日はこれをやろう」とか「あれを片付けよう」という思考が一切ない。
……最初の30分は、気持ちよかった。
10時――コーヒーを飲み終わった。窓の外の雲が動くのを観察する。雲、遅い。いや、動いているのか? さっきと全く同じ位置に見える。もしかして張りぼて?
10時半――冷蔵庫を開けて閉じるを3回繰り返す。虚無の開閉運動。冷気だけが部屋に逃げていく。何かを食べたいのではない。私は今、『冷蔵庫を開けることで人生にイベントを発生させようとした』のだ。哀れな観測者よ。
11時――「何もしない」という行為が、意外と難しいことに気づく。だって「やろうと思えば何でもできる」という自由の中にいると、脳はかえって「何かやらなければ」という強迫観念に襲われるのだ。これはもう「無」ではなく、「無の監禁」である。
ソファで寝返りを打つ。左を向く。天井を見る。右を向く。天井を見る。これが「贅沢」? いや、これはもしかして……退屈?
12時――ついにスマホに手が伸びた。いや、ダメだ。「何もしない」んだ。スマホを遠くに置いたはずなのに、なぜか手元にある。これはもう「観測者のパラドックス」だ。観測した時点で状態が変化する。
13時――気づいたら、掃除機をかけている自分がいた。……待って!? 私はいま何をしている? 『何もしない』という超高難度タスクから逃げるために、あろうことか『家事』という名のエンタメに逃避している! 脳がバグを起こして、掃除機の駆動音をBGMとして求め始めている。危険だ、即座にプラグを抜け!
急いで掃除機を止め、ソファに逆戻りする。しかし一度スイッチが入った家事欲求は収まらない。頭の中では「洗濯物をたたむ」「トイレを磨く」「あの書類を整理する」というタスクが次々とポップアップしてくる。それらを全て「キャンセル」ボタンで閉じていく作業だけで、精神エネルギーを消費した。
15時――結局、何もしていないのに、なぜかどっと疲れた。そして気づく。「何もしない」という予定は、実行可能な予定の中で最も実行が難しい。
なぜなら、「何もしない」とは、「何かを『しない』という能動的な選択」だからだ。受動的に何もしないのではなく、常に「今、これをしない」と決断し続けなければならない。これは立派な労働である。
17時――ソファで意識を失っていた。目が覚めると、窓の外はもう暗い。一日が終わろうとしている。
何をしたか聞かれても、答えられない。何もしていないから。
でも、何かが違う。なんとなく……充実感はないけど、悪くもない。この「なんとも言えない感じ」、何なんだろう。
収支計算(この日の損益)
【収入(理論上の戦略的休息)】
· 「明日の予定がない」と知った金曜夜の安心感:+50(これは前日までに計上済み)
· 自然に目が覚めた爽快感:+30
· 誰とも話さなくていい社会的負荷のゼロ:+40
· 理論上の脳のデフラグ効果:+35(ただし実感なし)
【支出(現実の想定外ダメージ)】
· 「何もしなければならない」というプレッシャーによるストレス:-60
· 掃除機をかけかけて止めたことによる家事欲求の消化不良:-30
· 退屈と贅沢の境界線で迷走した時間の損失:-40
· 「何もしないつもりが結局ずっと考えてた」という自己矛盾への罪悪感:-50
· 15時、天井の点を数え始め、それが5個だか6個だか分からなくなって彷徨った独特の虚無感:-30
総合:-55。 …あれ? マイナスになった。データ的に見て、今日の私は「最高の贅沢」のつもりが、むしろ損をしていた。しかも夕方になってどっと疲れが出るという最悪のパターン。
でも、なんとなく「またやりたい」とも思っている。この矛盾、何なんだろう。
深い結末
この日の教訓。
「何もしない」ことは、思ったより難しかった。でも、悪いことだけでもなかった。
夕方、ふと気づいたことがある。今日一日、本当に何もしていない。やり残したことは、明日やればいい。それで世界は終わらない。むしろ、こういう日がないと、人は疲れてしまう。「頑張る」ためには、「頑張らない日」が必要だ。
ただ――その「止まる」という行為は、慣れていないと逆に疲れるらしい。
「何もしない」という予定をあえて入れる。それは高度な自己管理術である一方、実行に移すと「何もしないために努力している自分」という新しい仕事が発生することも理解しておくべきだ。
でも、なんとなくわかった。何もしない日は、「何かを得る日」じゃない。「何かを失わない日」なんだ。活力を失わない。やる気を失わない。自分を失わない。ただそれだけのために、一日まるごと使う。
それは贅沢かもしれない。でも、必要な贅沢なんだと思う。
ソファでうつらうつらしながら、明日のことを考える。明日は、少しだけ頑張ろう。掃除くらいはしようかな。まあ、気が向いたら。
(……と、ここまで偉そうな教訓を日記に書いてドヤ顔している私ですが、現在19時、結局めんどくさくなって晩ご飯はポテトチップス(コンソメ味)を箸で食べています。これが私の人間味です。 さて、みんなは週末、何も予定を入れずに過ごしたことある?……)




