◆ご主人様の事情
口元に持っていこうとしたカップの手が止まった。
ブラウンで統一されたお洒落なカフェの個室で。
同じ大学のサークルの先輩で、ふたりっきりで会ったのは3回目。
友達からは今度こそ上手くいくんじゃないかと言われていたのに。
「お前ってさ、なんか守る対象って感じではないんだよな」
他の女と違って、”女”に思えないらしい。
ちょっといいなって思っていた彼は、凍りついたあたしの様子にも気付かずに軽い調子で続ける。
「そういや、昨日から杉崎と付き合い始めたんだ」
あたしの顔が強張るのと対照的に、彼は笑顔さえ浮かべている。
「え…?杉崎…さん、と?」
杉崎さん。下の名前は知らないけれど、同じ学部のしかも同期。
あたしとは比べ物にならないくらい綺麗な黒髪のロングに、遠目から見てもわかるつやつやの肌。ぱっちりとした二重の大きな瞳はいつもせわしなくて、笑顔の可愛い女の子。
ほっそりとした肢体にも関わらず出るとこ出た体型は、同性もうらやむくらい。
「杉崎は女子!って感じで守ってやりたくなるよな。な、だから、お前も頑張って良い男できるといいな」
毒を含ませているのかいないのか判断つかない言葉で、あたしの心はずたずたに切り裂かれた。
―――それから、彼が何と言っていたのか覚えていない。
ただ後からカフェにやって来た大人しくて儚げそうな女――杉崎さんに、蕩けるような甘い眼差しで対応しているのを見て。
ああやっぱりなって。
最初から彼の相手にもされていなかったのに、あたしは勝手に期待してがっかりした。
絶望感に打ちのめされていたせいで、周りが見えていなかった。
運の悪いことに、カフェを出てすぐの道路を渡ろうとして待っていたあたしのところにものすごいスピードで車が突っ込んでくるのが見えた。
周りの人々が何か叫ぶ。逃げなきゃ。
そう思うのに、あたしはまるでその場に縫いつけられたような足が動かなかった。
ドン、という鈍い衝撃音が響く。直後、耐えられないほどの痛みが全身を襲って。
あたしはあっけなく死んでしまった。
(だれかに守ってもらえるような女の子になりたかった)
思えば寂しい人生だった。
両親は早くに他界し、お金にこそ群がってこないけれど関わりたくないといった感じの親戚をたらい回しにされて。
いいなと思った人には、すでに彼女がいたり、すぐに恋人ができたり。
友達にもあまり恵まれず。
困ったら自分でなんとかするしかなかった。人に頼ることはできなかった。
頼っても、結局は最後に、もう大丈夫だねと分かったように見放された。
(全然、ひとりでだいじょうぶなんかじゃないのに)
あたしの人生を映す孤独な走馬灯が流れる。
命の終わりを感じ取り、こと切れる瞬間。
ブラックアウトしたあたしの頭の中に声が響いた。
『かーわいそうな子。アナタにワタシの世界でチャンスをあげちゃう♪』
異世界の女神があたしを哀れんだ。
***
(どこがチャンスなの、あのクソ女神)
死ぬ直前に頭の中に囁きかけてきた女神の世界に転性した。
前世――というかあたしの意識をそのままに赤ん坊として生まれてきた上に。
黒髪黒目というこの世界ではありえない外見だったために、あたしを取り上げた産婆は母親に死産だと告げて、笹舟で作った舟にあたしを乗せて川に流してしまった。
『ごめーん、ごめん☆ちゃんと生き残るようにするから♪』
川に流されながら女神への悪態を吐いていると、頭の中に囁きかけてくる声。
きゃぴきゃぴした声からは反省の色は窺えなかった。
しかし、腐っても女神。
赤ん坊だったあたしは急速に成長し大人になった。
女神曰く、あたしには前世の記憶のせいで魂の容量が大きく、魔力だけはたくさんあるらしい。
でも上手く魔法が使えないだろうからと、<究極魔法の指輪>を全属性分くれた。
『この目があれば、聖女にでもなっちゃえばちやほやされるわよ~』
愛され特典だと女神は笑って、ありとあらゆるものを視る<女神の神眼>に変えられた。
視界に大量の文字が浮かぶ。あまりの情報量に頭が破裂しそうになる。
もう少し減ってと願えば、格段に情報量が減る。気分もよくなった。
それよりもどうしてこんなによくしてくれるのか。至れり尽くせりで怖い。
聖女。単語を思い浮かべただけで、神眼の効果でそこに至るまでの道筋が思い浮かぶ。
忘れてはいけない。思いあがってもいけない。
あたしはこの世界ではありえない容姿のために捨てられたのだ。
聖女になるまでの、人々からの悪意に耐えられる自信がない。
仮に聖女になったとして、彼らが見ているのはあたしではなく、あたしの能力。
だからあたしは女神が提示した聖女は選ばずに。
近場の森に土魔法で家を建て、冬以外の季節はそこに住むことにした。
女の一人暮らしだからと男に襲われそうになったが、この世界であたしに与えられた特殊能力―――<絶対不可侵>によって事なきを得た。
あたしに危害を及ぼすもの全てを拒絶する特殊能力。
この能力が知られてしまったら、ますますあたしを守ってくれるような人が現れないじゃないか。
あたしを襲おうとして死んでしまった男を見下ろしながら、嘆いた。
間接的に人を殺してしまったというのに、あたしの心は麻痺してしまったらしい。
こうしてあたしは、神眼を利用して鑑定士として生計を立て始めた。
人々が持つあらゆる品物を判定するだけの簡単なお仕事。
近所の村から始めたこの仕事は最初は不審がられたが、結果が出るにつれて信頼されるようになった。
噂を聞きつけてわざわざ遠くからお客さんがやって来るようにもなった。
時々乱暴な人も来るが、そいつらは魔法の指輪で攻撃するか、対処できなくても特殊能力によってなんとかなった。
暮らしは順調だった。
でもあたしは寂しさに耐えきれなかった。
愛情が欲しい。でも単純に人を信じられないあたしが選んだのは。
奴隷だった。
『ぼくを買ってください!なんでもします!出来ないことも、頑張ります!あなたのためならなんだって―――』
あたしの容姿にビビって攻撃してきた奴隷商の護衛をのしてやった。
それから奴隷商の一押しだという奴隷を何人か見せてもらったがいいのはいなかった。
廃棄寸前の奴隷たちがいるというの地下室に期待せずに降りてみれば。
檻の中から必死に自分を売り込む見目の良い奴隷。
薄汚い服の上からでもはっきりとわかるくらい鍛えられた身体。
ほぼ灰色のように思える銀髪に、底の見えない蒼い瞳。
一目であたしを主と定めたその男に名前はなく、あたしの神眼に映った個人情報はただひとつ。
“奴隷一族”
奴隷の中の奴隷。サラブレッド。
生まれながら奴隷になることが定められた、咎与えられし一族の末裔。
その血に従って決められた主には一生の忠誠を捧げる。
神眼により得たその情報が決定打だった。
あたしはあたしに発情するその男に、愉悦さえ覚えた。
『ミヤ。それが今からあんたの名前』
奴隷商に渡された奴隷の首輪を男に嵌めてやる。
嵌まった瞬間に苦しみだしたが、男は息も絶え絶えになりながらも目を輝かせていた。
「ミヤ。ミヤ、ミヤ!ありがとう、ご主人様!よければ名前の由来なんかも教えてくれたり…!?」
左胸を押さえながら、それでも与えられた名前を繰り返し噛みしめる姿は哀れにも思えた。
この男は何も知らない。
『深い理由なんてあるわけないでしょ。―――単に、あたしが飼えなかったねこのなまえ』
あたしが嘘をついても気づかない。
いや、違うな。嘘をついていても、本当だと信じようとするのだろう。
男に―――ミヤに与えた本当の由来は、あたしの前世で最期に会った彼の名前の一部。
あたしはミヤを、彼の代わりにしようとする最低な女。
ミヤ、あたしは慕う価値もない女だよ。
ミヤのこれまでの生活環境も本当の意味では理解していなかった。
ありとらゆる食材をぐちゃぐちゃに潰して火を通しただけのそれがミヤにとっての常食で、
栄養価の高いものが入っているだけで豪華だなんて知らなかった。
不味い料理だとしか分からず、酷いこと言ってしまった。
慌てて一緒に料理をしようといえば、一緒に作れるのだと喜ぶ始末で。
夜伽するだなんてどのくらい本気かはわからないけれど。
「こんなところで寝て、ほんっと迷惑」
寒いのに廊下で寝るなんて本当にバカみたい。
そばにいたいだなんて、可愛いこと言わないでほしい。
「…明日の夜からは、あたしのベッドの下でなら寝てもいい」
<究極魔法の指輪 属性:風>を使って、毛布を被らせたミヤの身体を浮かせる。
そうして自室の中に起こさないように運び込んで、扉を閉めた。
「…おやすみ、ミヤ」
月だけが見ている真夜中。
すぅすぅとミヤの胸が上下する音が聞こえ、窓の外ではフクロウらしき鳴き声。
(明日は、一緒にご飯つくろう)
ベッドの下にミヤを落とす。
ううんという唸り声をあげるも目覚める気配はなく。
健やかな寝顔を見届けるとあたしもベッドの中に戻った。