26 ルールリア
一羽と二匹の使い魔を伴い、杏子と三人の術者は螺旋階段を降りた。
術者が持つ三つの洋灯のおかげで、いつもより数段明るく照らされた地下を杏子は進む。
最初の書庫を抜け、二番目の魔法陣の書棚を通り抜け、杏子は初めて三番目のフロアに入った。
三番目のフロアには書棚だけではなく、瓶や箱の類が並べられた棚、水盆や大鏡に水晶玉、他にも杏子には用途不明な物が整然と並んだ。
そこも通り抜け、四番目のフロアに杏子たちは下り立つ。そこが屋敷の最下層だった。
石造りの壁に囲まれた空間は上のフロアよりも屋敷の面積よりも小さく狭く、壁面の四隅に備え付けられたランプがぼんやりと灯っている。
なにもない部屋だった。
「さあ、先に進んで下さい。そうすれば契約が行われます」
夏墨に大丈夫と頷かれ、杏子は一人そろりと石畳に踏み出した。
この小さな部屋の空気が、他とは違うのが杏子にもわかる。
重々しく静謐な空気を吸いながら、杏子は部屋の中央へと静かに進む。
すると石畳から浅紫色に光る線が一筋浮かび上がり、魔法陣が敷かれ始めた。
杏子がその中心に一歩近づく度に、線はその光を強める。
陣の中心に杏子が踏み入った時、魔法陣は完成し眩い光を放つ。
眩しさに目を閉じた杏子が再び目蓋を上げると、後で見守っていた夏墨達も石畳の床も壁面のランプも消え、仄暗い空間に一人取り残されていた。
先程の張りつめていた空気はなくなり、杏子は不思議と落ち着いた気分でそこに佇んでいた。
男とも女とも判断しかねる声が、どこからともなく響く。
「ルールリアの娘アンズ。我は桔梗。汝の魔女の血と契約を交わす。我に力を汝に力を」
屋敷の告げた言葉に、杏子は息を呑む。
「ルールリア……それは、私の母の名前?」
小さな呟きに、屋敷は答えた。
「そう。ここにいるときは桜子と名乗っていたが、真の名はルールリア。――知らなんだか?」
ゆっくりと響く不思議な声音に問われて、杏子はゆるりと首を振る。
「契約を……」
再び声が響き、杏子の足もとから花が一輪浮き上がる。
紫色の五片の花弁。それが、桔梗の花だと杏子は初めて知った。
花を両手で包み込むと、それはゆっくりと杏の中へ融ける。
杏子は正式に館との契約を交わし、桔梗の館の主となった。
杏子が館の主となった瞬間、地上を強い突風が吹き抜けた。
古い魔法が解かれ、閉じていた空間は開かれる。
風は屋敷を揺らし窓のガラスを喧しく鳴らしたが、それは地下までは届かない。
だが、術者たちにはわかっていた。
夏墨の胸ポケットの中にあった黄金色の鍵は、音もなく砕けて消える。
屋敷から随分離れたあの桜のトンネルが、強い風に揺さぶられ花を散らし始めた。
屋敷は新しい鍵魔女を迎えたのだ。
『ルールリア!!』
叫ぶような呼び掛けに、高台に佇む人影はゆっくりと振り返る。
長く緩やかな曲線を持つ黒髪を風に踊らせて、黒い瞳が向けられた。
白い肌は青褪め、瞳の黒は冷たい色を湛えている。
美しいその顔は、何の感情も浮かべてはいなかった。
繰り返し叫んで手を伸ばしても、凍った髪は指先をすりぬけ深淵へと姿を消す。
眠りの中で彼は、幾度もその名を呼んだ。
ヒトの時間は短い。
それでも彼女はヒトを愛し、ヒトも彼女を愛した。
だが幸福な時間は、瞬くうちに終焉を迎える。
急速に死に向かうヒトを、見送る強さを彼女は持たなかった。
赤く泣きはらした瞳が責める。
彼女が狂ったように取り乱す姿など、誰もが想像もしなかった。
――どうして治せない? お前は知る者であろう。その叡智は何のためにある? なぜ何もできない?
――早く、早くしないと、あの人は逝ってしまう!!
魔法は全能ではない。
悲痛な叫び声を上げる彼女も、そんなことなど知っているはずだった。
そしてヒトを失った彼女は、虚ろに凍り付く。
もう誰の声も、彼女には届きはしなかった。
それでも、彼は幾度もその名を呼んだ。繰り返し、繰り返し。
ルールリア。ルールリア。ルールリア。
明け方に目を覚ました冬凪は、深いため息をついた。
いく度となく繰り返し見る夢は、彼が覚醒した後も身を凍えさせる。
夢だとわかっているのに、冷たい風に吹かれるままの魔女の名を叫ばずにはいられなかった。
重い身体を起こし、疲れを滲ませた紺紫の瞳は部屋の扉を見る。
もう、一刻としないうちにその扉は開かれ、薄荷緑茶が運ばれてくるだろう。
何かを耐える様に眉を寄せると、冬凪はゆっくりとベッドから起き上がった。




