22 杖
魔女は生涯にたった一本、自分だけの杖をもつ。
魔女はその成長過程において術者を揃え、魔力を成熟させながら力の要ともなる杖を作る。
実際に作り上げるのは魔女と契約した「作る者」としての役割を持った術者で、術者は同じものは二つとない魔女の杖を作るのだ。
杖はその器となる材と、中に宿り芯となる素で構成される。
器となる材は無数の鉱物、鉱石、金属、木材の中から一つを選び、芯となる素は有形無形に囚われずにあらゆるものから抽出される。
そうして魔女が選び集めた材と素で作られた杖は、決して折れることなく魔女の生涯に寄り添うのだ。
「ここから選べばいいんですか?」
朝食後、いつもなら薄荷緑茶と共に冬凪の部屋を訪れるのが常だった杏子は今朝は春潮の工房にいる。
二番目のフロアの書物を読み終え、杖作りが始まったのだ。
杏子は工房の中にずらりと並べられた大小様々な杖の器となる材。金属の塊や、鉱石、木材を見回した。
彼女の長く伸びた髪は、綺麗に結い上げられている。
今まで短い髪で過ごしていた杏子が突然伸びた髪を器用に扱えるはずもなく、それでも長く伸びればどうにも邪魔になり無造作に一括りにしていた。
それを夏墨に見咎められ、彼の手に掛かる事になった。夏墨は毎朝喜々として、杏子の髪を結ったり編んだりと楽しんでいる。
「この中からじゃなくてもいいんだ。ここに、惹かれるものがなければ他の物を探すからな」
いつになく真剣な顔付の春潮に言われ、杏子は工房の端から慎重にひとつひとつを見て回る。
惹かれるもの。惹かれるもの。
杏子は心の中で何度も唱えながら工房の中を回った。そして何週目かに、薄墨色の樹皮をまとった木材にそっと触れた。
「これ……。これがいいです」
工房に入った時から、杏子はそれに自然と目が行ってしまうのを感じていた。
慎重に他の物を見て回った後も、その感覚は変わらない。
そして実際にその乾いた樹皮に触れてみると、それが確かなものだと確信できた。
「……そうか。そんな気はしていた」
春潮は少しの沈黙の後そう言って、杏子の選んだ木材を撫でた。
「次は芯となる素だな」
「それも、ここから選ぶんですか?」
杏子の問いに春潮は首を横に振り、まだ朝の気配が残る外を見る。
「外に出てみるか」
二人は工房を出ると、戸口に待機していたササタを伴い裏庭を抜け丘を登っていく。
すっきりと晴れ渡る空が広がり、春めいた陽射しに杏子は目を細めた。
「なにを選んだらいいんでしょうか?」
「なんでもいいんだ」
「でも……、そう言われると、難しいですね」
そう、難しい。
杖の中に芯として宿すべき素は、目に入る全てのもの、目に入らないものだって選ぶことができる。
自分に何が必要なのか何を選ぶべきなのか、杏子は見当をつけられずにいた。
落ち着きなく視線を彷徨わせる杏子の横で、春潮は草に腰を下ろす。
「今日もいい天気になりそうだな」
のんびりと空を見上げる春潮の傍らに、ササタが寝そべる。
その様子を見て、杏子はここへ来た日のことを思い出した。
窓の外から庭へ誘ってくれた春潮とササタ。
春潮が世話する庭の薬草たちが、杏子の強張った気持ちを解いてくれたことを。
そんなに前のことではないのに、もうずいぶんと昔のことだったようにも思える。
丘を通る風が温かみを帯びて、黄色い春の陽差しが降り注いだ。
春潮の柔らかそうな深い茶色の髪が春風にそよぐ。
日に焼けた大きな手が、ササタの黒い毛をふさふさと撫でた。
「決めました」
若草色の瞳に、杏子ははっきりと告げた。
「これを?」
「そうです。その……目に見えないものでもいいのなら、ここを素として使いたいんです」
丘から戻った杏子は、春の陽を受ける横庭の薬草たちを見回した。
「できますか?」
「それは、大丈夫だ。杏子がそうしたいのなら……」
春潮は手にしていた球体フラスコを杏子に渡す。
「取り込みたい素を思い浮かべて栓を抜くんだ。そうすれば、入ってくる」
フラスコを横庭に向け、杏子は言われた通りにそれを思い浮かべる。
若緑と陽光の薬草。
太陽の温かさと柔らかな緑色。
幾種類にも混じり合う清涼な香り。
それは、春潮に対して杏子が抱く印象そのもので。
大らかで穏やかで気さくな春潮の雰囲気を、杖に入れたいと杏子は思った。
そして、杏子は残りの素も同時に決めていた。
闇雲に探し回り悩んでみたところで、ろくな魔力も目覚めさせていない自分に、どの素が有効になるかなんて分からない。
それなら自分を主と言ってくれる彼らこそが、杏子の魔力に味方してくれるような気がしていた。だから他の素も、夏墨と冬凪をイメージして探すと決めた。
フラスコを庭に向けて程なくすると、横庭全体が歪んだように焦点を失う。
驚いて振り返ると、春潮は笑顔のまま頷いた。
様々な色の緑の塊が、淡い光の線が、溶け合い混じり合い螺旋を作りながらフラスコの中へと吸い込まれていく。
やがてフラスコがすっかり満たされると、歪んでいた庭が元の表情を取り戻す。
溶けあって流れ込んだはずの薬草たちは、何の変わりもなく静かに風に揺られている。
「吸い込んだと思ったのに……」
「実体そのものが必要なんじゃないんだ」
春潮がフラスコに栓をする。
球体フラスコの中には確かにそれが入ったようで、空だった空間に緑色に淡く光る曲線がゆっくりと回転していた。
杏子の手の中で、満ちたフラスコはほのかに温かく、角度を変えれば回る緑の色を変えてみせる。
春潮はフラスコを工房に仕舞うと、夕食用にと横庭の薬草を摘み出した。
杏子もそれを手伝い、細長い葉の薬草を摘む。
摘む傍から香る強い薬草の香りに鼻孔を刺激されながら、杏子は隣に屈む春潮を見る。
「……春潮は、「こちら」の世界が好きなんですか?」
杏子は何の気なしにそう尋ねてみた。
陽の下がこんなにも似合う彼は、黄昏と夜の国ではどんなふうに過ごしていたのだろう。
「杏子は「こちら」を好きではないか?」
尋ね返されて、杏子は思わず考え込む。
今まで過ごしてきた「こちら」。書物で知るだけの「あちら」。
これまでの杏子には世界は「こちら」しかなく、それを好きとも嫌いとも深く考えたことなどなかった。
「……わかりません。わたしは「こちら」しか知らないから。でも、春潮たちはどちらも知っているから……。「あちら」に戻りたくはならないんですか?」
花の咲き乱れる「あちら」の世界。それは、こちらで想像される天国にも似ている。
「俺は、ここが好きだよ」
「どうして?」
「朝が来るのも、雨が降ったり嵐が来たりすることも俺には楽しい。秋には枯葉が舞って、冬に降る雪も好きだしな」
四季の移ろいも天候の乱れも存在しない、真綿に包まれた様な世界から来た彼は、はっきりと告げた。
笑顔で何の迷いもなく。
「桜子さんが教えてくれたんだ。変化するこちらの美しさを。それに……」
杏子はその続きを聞かずに、小さな返事をして立ち上がる。
なぜかそれ以上、春潮の口から桜子の名前を聞かずにいたかった。
春潮も夏墨も、冬凪でさえも時折、深い親愛を込めてもういない彼女の名を口にする。
その名を耳にする度に自分の知らない母が、桜子が、杏子の胸の奥を小さく疼かせた。
そして知る。彼女のことを何も知らないのは、自分だけだという事を。




