21 髪と瞳
翌日、一日降り続いた雨は上がり、杏子は冬凪に連れられて次のフロアへ向かった。
いつも通りに無言のまま進む冬凪の背中を見て、杏子は昨日の一件が知られずに済んでいることに胸を撫で下ろす。
少しだけ、あの言葉の意味を聞いてみたいと思う自分がいた。けれど、もちろんそれは口には出せない。
杏子は大人しく、冬凪の持つ洋灯の灯りを追いかけた。
最初のフロアからさらに下へと螺旋階段をぐるりぐるりと進み、杏子は二番目のフロアに下り立った。
そして杏子は、そこに最初のフロアとの違いを見出せずにいる。
暗闇の書庫。見渡す限り天井まである書棚が並んでいる様を見れば、昨日の読了の清々しさが消し飛んでいく。
杏子は今朝、冬凪に最初のフロアの書物を読み終えたと告げた時に、大した反応を貰えなかった理由がわかってきた気がしていた。
読むべき書物は、文字通り山の様にある。
杏子がため息を耐えて立っていると、目の前に書物が差し出された。
「開いてみろ」
言われて開いた書物には、複雑に描かれた絵のような図形が続く。
「ここの書物に収められているのは全て魔方陣だ」
杏子は改めて書庫を見回す。
並ぶ書物の中が全て魔法陣というのなら、いったい何万種類のそれが存在するのだろう。
「端から全て読んでいけ」
眩暈を感じる杏子に、お決まりの台詞を残して冬凪は上へ戻る。
その気配がすっかり消えたのを確かめてから、杏子は大きなため息をついた。
魔法陣は杖によって敷かれ、様々なものを呼び寄せる。
魔法は無から有を生みだすことは叶わない。
素を必要とする魔法ならば、それに陣を敷き呼び寄せる。
魔法陣を操る力こそ、魔女のみが有する魔力の術。
最初のフロアの書物が文字や絵だったのに対して、二番目のフロアの書物は冬凪の言う通り魔法陣ばかりが続く。
一冊を読み終える時間は前ほど掛からなかったが、代わりに杏子は読後に以前には無い疲労感を感じるようになる。
書物を捲る度に、魔法陣は刻み込まれるように杏子の内へと入ってきた。
一度入ってきた魔法陣は、消えることなく杏子の内に留まり宿る。
魔法陣の書庫に入るようになった杏子は、夜も早いうちからベッドに倒れ込み夢も見ずに朝を迎えるのが日常となっていた。
そんな日々を繰り返した幾日目かの朝。杏子は洗面室の鏡に映る自分を繁々と眺めた。
肩先に髪が触れている。
そして伸びたせいなのか、髪の色はいつもより濃く見えた。
眉を寄せ、杏子は鏡を見る。
毛先が肩に届く前に髪を切っていた杏子には、髪を伸ばした自分の姿が想像できない。
薔子の長い髪を思い出し、まだ短い髪の毛先を少し引っ張ってみる。目的地は、遥かに遠い。
しかし、その翌朝。杏子は再び長い時間を鏡の前で過ごすことになる。
最初は見間違いかと思った。
鏡を睨みつけ、それに実際に触れてみる。
昨日の朝、肩に触れる程度だった髪が今朝はそこよりさらに下、鎖骨辺りに毛先を持ってきていた。
何度も触ったり引っ張ったりを繰り返してみて、自分の髪に間違いないということだけはわかる。
困惑したまま食堂に入っても、杏子の変化を咎めるような視線もなく、いつもの二人にいつも通りに迎えられた。
それが一層、杏子を落ち着かせなくして、何と説明したものかと思いながらも杏子は口を開く。
「あの、髪が……」
「髪?」
「髪がどうかしましたか?」
「だって、おかしいですよね。一晩で、こんなに伸びるなんて」
自分の毛先を摘まみ上げる杏子の顔と、伸びた彼女の髪を交互に見て、ああ。と二人からは笑いがこぼれる。
「それは、魔力が目覚め始めたからですよ」
「魔力が目覚めた?」
夏墨の言葉に、杏子は指先の髪をはらりと離す。
「ええ。宿る魔力に反応して、髪が伸びているのです。冬凪が言ったように、切らずにいてくださいね。在るべき形になれば、自然と伸びなくなりますから」
夏墨の言葉に、杏子は微かな安堵を感じていた。
魔力の目覚め。これで少しでも、魔女になるべく道が見えてきた気がしたのだ。
彼らの期待を裏切らずに済む。そう思えることに、杏子は伸び始めた自分の髪に優しく触れた。
そして夏墨の予告通り、翌日も翌々日も、杏子が目覚める度に髪はその長さを伸ばす。
それが当たり前だとでも言うように、冬凪は日増しに伸びる杏子の髪に構う様子を見せなかった。
杏子は髪が伸びることだけに気を取られ、自身に起きつつある他の変調にはしばらく気が付かずにいた。
髪は健やかに伸び続け、その色は暗褐色から黒、漆黒と深い色へ変わっていく。
すると、相反するように瞳から色素が抜け落ち、くすんだ暗褐色から焦茶、栗色へと変わっていたのだ。
杏子はそれにしばらく気が付かなかった。
魔法陣の書物を読み始めてから疲労気味の杏子は、朝も寝過ごしがちになってしまっていた。日課にしていた朝の散策も最近はお預けだ。
まじまじと鏡を覗くこともなく、伸び黒くなる髪ばかりを目で追っていた。
その日の昼食の後、眠気覚ましに冷水で顔を洗い終えて鏡を見た時、ようやく杏子は瞳の変化に気が付くことになる。
鏡に映る杏子の瞳に元の色の面影はなく、瞳はその色を明るい栗色に変えていた。
伸びた髪が背中の中程に届くころ、杏子はようやく自分の瞳を凝視することになった。
「瞳の色が?」
さも不機嫌そうに杏子を見下ろす冬凪に、自分の瞳の色を見せる。
不本意ながら見つめ合う形になるが仕方がないと、杏子は目を大きく開く。
一度気がつくと、それが気になって仕方がなかった。
髪が黒くなったのに対して反対の変化を遂げた瞳が不安で、杏子はその足で冬凪の部屋の扉を叩いたのだ。
「色が薄くなっているみたいなんです。……これも、魔力が目覚めたからですか?」
「……そういうことになるな。髪と同じで、在るべき形になる」
不安そうに見開くその瞳を、冬凪は杏子がうろたえ始めるほど長く見つめてからようやく素っ気ない返答をした。
「あるべきかたち……」
自信無さげに、どこか不安を滲ませて、杏子は呟く。
冬凪はそんな杏子を、眉を寄せて見下ろした。
杏子が、在るべき形への変化を終了させたのは、それからさらに数日後、二番目のフロアの書物を全て読み終えるころだった。
驚くほど長くなった髪は腰のあたりまで真っ直ぐに伸び、それは見事な漆黒の黒髪に。
反対に色素を薄めていった瞳はすでに栗色から鳶色、榛色と日ごとに色を落とし、ついに橙色になっていた。
髪同様に、瞳の変色を訝しんだりする様子は三人にはなかったが、杏子だけはその瞳の色を不穏に感じていた。
薔子も桜子も、黒髪に黒い瞳。
それが杏子の知る、魔女の在るべき形のはずだ。
杏子は自分の橙の瞳が、鏡に映す度に不自然に光るような気がして落ち着かなかった。




