20 雨
杏子が最初のフロアの書物をすべて読み終えたのは、朝から小雨の降る日だった。
洋灯を下げ書棚を当てもなく巡る。
静かに落ちる雨音同様、階上に居るであろう術者たちの気配はここへは届かない。
時折、並ぶ書物に指をあてがいその中に広がった世界を思い出して回った。そして静かに息づく美しい「あちら」の世界に思いを馳せる。
常春の黄昏と夜の国。
薔子も桜子も、何故そんな美しい世界を出てこちらに来たのか杏子には不思議だった。
「こちら」でしか過ごしたことのない杏子には、計ることの出来ない何かがあるのだろうか。
それを、いつか薔子に聞くことができるだろうかと杏子は思う。
杏子が桔梗の館に残り魔女になることを決めたことは、すぐに薔子へ知らせが出されたはずなのに、薔子からはなんの音沙汰も無いままだった。
ひとしきり書棚を巡り終えると、杏子は次の指示を聞くために冬凪の部屋へと向かう。
最初のフロアを終えた後は、彼による指導があると最初に聞いていた。
杏子はいつもより幾分軽い足取りで冬凪の部屋の扉を叩くが、返答はなく部屋は沈黙したままだ。
だが彼の気配は確かに扉の向こうに有るのが杏子にはわかる。
少し迷ってから、杏子はそっと扉を開けた。
相変わらず昼間でも重く窓布が下りた室内は薄暗く、外の小雨も加担して部屋は夜の雰囲気が作られている。
冬凪は昼日中にもかかわらず、ベッドの中にいた。
……眠ってる?
意外な彼の姿に、杏子は思わずベッドに近づく。
思い返すと、杏子は冬凪の顔をしっかりと見たことがあまりないような気がした。
顔を合わせれば不機嫌そうに険しくなる表情からは、どうしても目を逸らしがちになってしまう。
杏子の知る冬凪は、ほぼ常に眉間に皺を寄せている。さすがに眠っている時まではと、杏子が覗きこんだ彼の眉間には変わらぬ皺が寄せられていた。
悪い夢でも見ているみたい……。
息を潜めて見つめる冬凪の寝顔は青白く、白銀の髪が余計に冷えびえと彼を縁取る。
束の間、冬凪を見つめてから、杏子は静かに部屋を出ようと後ずさった。
ところが突然に、杏子はその手を掴まれる。
凍りついたように眠っていたはずの冬凪の手が、杏子の手首をしっかりと握った。
「ルールリア……」
声を出したのは冬凪だった。
驚きに上げそうになった声を、杏子はどうにか飲み込んで冬凪を見る。
目を覚ましてしまったのかと身構えたが、冬凪はきつく目を閉じたままでいた。
手首を握る冬凪の力が思いのほか強く、絞り出すように発した彼の声が悲痛に響いて、杏子はその場に縫い付けられる。
冬凪は夢を見ているようで、顔をしかめ辛そうな呼吸を繰り返す。
そして絞り出すようにそれを幾度も口にした。
ルールリア。ルールリア。ルールリア。
物悲しいその響きが、なにを意味するのか杏子には分からなかった。
不意に杏子の右足が優しく突かれる。
再び上げそうになった声を抑え込み、視線を落とした先にはマシロがいた。
マシロは音もなくベッドに上がり、冬凪の腕を伝いその先に繋がれた杏子を器用に静かに解き放つ。
解放された杏子は慌てて、けれど静かに部屋の外へと出る。
扉を離れると鼓動が今更のように速くなりだし、いけない事をしてしまった後のように胸がチクリと傷んだ。
「ルールリア……」
逃げる様に暗い螺旋階段を下りながら、杏子は呟いてみる。
知らないその言葉は、なぜか妙に杏子の中に残る響きだった。




