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残照の夏  作者: 麻白由良
3/7

第三話:寿楽荘

 深い杉林を縫うように走る未舗装の山道は、軽トラックが跳ねるたびに湿った土の匂いを車内に巻き上げた。


 窓を全開にしていても、まとわりつくような熱気は引くことがない。ダッシュボードに据え付けられたカセットデッキからは、日本中を席巻する女性二人組によるポップな歌謡曲が流れていた。宇宙から来た未確認飛行物体を想起させる電子音と、小気味よい手拍子のリズム。その軽快なメロディは、鬱蒼とした木々の合間に吸い込まれては、重なり合う蝉の咆哮にかき消されていく。


 やがて視界が開けた先、雛月村の最奥に鎮座する「寿楽荘」が姿を現した。そこは、時間の流れから見捨てられたような異様な景観を晒していた。

 元は簡素な平屋だったであろう住居部分に、景気が良かった時代に無理やり継ぎ足された二階建ての客室棟がコブのようにせり出している。歪な増改築の結果、屋根のラインは波打ち、窓の配置は不規則で、不思議な趣と同時に、どこか不思議な雰囲気を漂わせていた。


 軽トラックを林道の端へ停め、二人は車を降りた。

 エンジンを切った瞬間、それまで車内に充満していた機械音が消え、不意に訪れた静寂が耳の奥でキーンと鳴った。


「……ここね」


 京子の呟きが、冷え冷えとした空気の中に溶けていく。

 二人は荷台から重い修理道具の入った箱を抱え、緩やかな坂道を上り始めた。木々に遮られ、陽光が届かない参道のような道だ。ようやく見えてきた「寿楽荘」の玄関先には、まるで参拝客を迎えるかのように、無数の「こけし」たちが整然と並んでいた。

 塗り直されたばかりのような鮮やかな朱色と、生気のない虚ろな瞳。それらが、部外者である二人を冷たく見つめる。


 修が気圧されそうになるのを堪え、玄関へと足を踏み出す。

 その時、格子の向こう側で、わずかに人影が揺らいだ。


 ガラガラと、古い引き戸が重々しい音を立てて開く。


「勇じゃねえのか」

 玄関から現れた主の茂は、煙草を咥えたまま軍人らしい峻厳な顔を歪め、吐き捨てるように言った。

「……京子さんか。なぜお前たちが来た。勇に来いと言ったはずだ」


「義父は仕事が抜けれなくて。代わりに私たちが――」

 京子の言葉を遮るように、茂は不機嫌に鼻を鳴らした。その眼奥には、怒りよりも切実な困惑が滲んでいる。

「電気の配線が調子悪い。さっさと直して、終わったらすぐに帰れ。ここは長居する場所じゃねえ」


 突き放すような主の背後から、音もなく女将の千代が身を乗り出してきた。

「まあまあ、お父さん。せっかく来てくださったのに。初めまして、京子さん。茂の妻です。ゆっくりしていってくださいな」

 千代は古風な柄の着物を乱れなく着こなしており、その(たたず)まいは時代から取り残されたこの宿そのもののようだった。微笑は、まるで能面に直接紅を引いたかのように不自然で、その眼だけが濡れたように光っている。


 茂は千代の丁寧な挨拶を、まるで聞き飽きたかのように聞き流すと、「こっちだ」と顎で示して歩き出した。


 案内されたのは、事務所裏に隣接する古い倉庫だった。茂が壁のスイッチを入れると、(ほこり)を被った裸電球がチカチカと瞬き、頼りない光を投げかける。その瞬間、積み上げられたガラクタの隙間を、虫か、あるいはもっと別の正体の分からない何かが、さっと暗がりに逃げ込んだような気配がした。


 倉庫の中には、錆びついた剪定道具や脚の折れた膳、役目を終えた古い家具などが雑多に押し込められており、独特の()えた匂いが立ち込めている。その乱雑な空間の一角に、目当ての配電盤はあった。


 修は配電盤の隣で、異様な存在感を放つ機械に目を留めた。

 それは、幾度も修理を繰り返されたであろう、年季の入った自家発電機だった。茂が自ら手を加えたのか、正規品とは思えない部品や金属板で継ぎ接ぎだらけだ。物臭の賜物か、本来のサイズとは不釣り合いな巨大な燃料タンクが無理やり拡張されており、その歪な形を一層際立たせていた。


 修の視線に気づいた茂は、短くなった煙草を咥え直し、少しだけ鼻を鳴らした。

「……骨董品だが、まだまだ現役だ。いざという時は、こいつがこの宿の心臓になる」

 その声には、どこか誇らしげな響きが混じっていた。


「よし、やるわよ、修くん」

 京子の言葉を合図に、二人は手慣れた様子で配電盤の調査を開始した。修が測定器で回路を追い、京子が基板の腐食箇所を特定していく。沈黙の中、二人の無駄のない連携だけが、この不穏な倉庫の空気を一時的に忘れさせてくれた。




 修理を終えた頃には、西日が山肌を赤黒く染めていた。

 二人は二階の客室へと案内された。そこには、部屋ごとに設えられた木造りの野外浴室があり、各部屋に源泉が引かれているという。


「あそこの岩戸から湧く湯は、命を寿ぐ良いお湯ですよ」

 千代に勧められるまま、二人は別々の部屋を割り当てられ、湯に浸かった。


 京子は一人、湯船に身を沈めた。岩戸から引かれたという湯は驚くほど熱く、肌にねっとりと纏わりつく。立ち上る湯気の向こう、彼女はふと源泉の流れてくる先へ目を向けた。

 丁寧に手入れされた日本庭園のさらに奥、深い木々の隙間から、剥き出しになった山肌が微かに覗いている。そこには、夕闇に溶けかけるようにして、しめ縄を巻かれた巨岩と、朽ちかけた古びた鳥居がひっそりと(たたず)んでいた。


 ヒグラシの鳴き声が、遠くでカナカナと降り注ぐ。

 赤紫に染まった空の下、宿全体がこの世とあの世の境界線に浮いているような、奇妙に幻想的な空気を帯びていた。熱い湯に浸かっているはずなのに、首筋を冷たい風が撫でるような、非現実的な心地よさが京子を包み込んでいく。


 夕食は豪勢だったが、どこか違和感があった。仲居もいない広い食堂には、京子と修、そしてもう一人、やつれた顔の男性客が座っていた。


「……あの、すみません」

 その男性――佐々木清が、震える声で京子たちに話しかけてきた。そして、一枚の写真を京子たちに見せる。

「この写真の顔に見覚えはありませんか? 息子なんです。ここに泊まりに来たはずなんですが、連絡が取れなくなって。探しに来たのですが……宿の人は『チェックアウトした』の一点張りで」

 佐々木の瞳には、深い不安と寝不足の隈が張り付いていた。


 京子が何か答えようとした瞬間、背後に千代が音もなく立っていた。

「佐々木様。お食事、お口に合いませんでしたか?」

 その微笑には一切の感情がこもっていない。佐々木は蛇に睨まれた蛙のように口を噤み、逃げるように部屋へ戻っていった。




 その夜、京子は深い眠りの中で、あの忌まわしい事故の夢を見た。


 雨が降りしきる夜道。

 突如、ダンプの無機質なヘッドライトが迫り、隣で誠が「危ない!」と叫ぶ。

 砕け散るガラス、誠の叫び声、そして……生まれてくるはずだった子の、届かない産声。


 気がつくと、自分だけが白い病院のベッドにいた。

 親戚たちの囁き声が聞こえる。


『どうして誠さんが死んで、あの女だけが』

『子供も守れなかったなんて』


「違う……違うの……」


 京子がうなだれると、誠の姿をした影が、彼女を見下ろして消えた。


 ――ド、ゴン!


 鈍い衝撃音で目が覚めた。時計の針は深夜二時を指している。

 ふと窓の外を見ると、月光に白く照らされた庭園の隅、古びた石造りの祠の前に、人影があった。主の茂だ。彼は昼間の厳格な(たたず)まいとは打って変わり、泥にまみれた大型のハンマーを、何かにとり憑かれたような形相で振り上げていた。


 ――ガツッ!


 石が砕ける鋭い音が、逃げ場のない夜の空気に反響する。彼は狂ったように大型のハンマーを振り下ろし、祠の土台を叩き壊している。月明りに照らされたその眼は、怒りと憎悪、そして計り知れない焦燥が混じり合った鬼気迫るものだった。


 茂の喉の奥から漏れる、獣のような(うめ)き。

 それは神仏を敬う者の姿ではなかった。


 京子は思わず息を止め、窓から離れて布団に潜り身を隠した。理由も理屈も分からなかったが、ただ本能が「見てはいけないものを見てしまった」と激しく警告していた。

 茂の表情は酷く歪んでいるように見えた。京子は震えながら、あれは何だったのかと自問する。だが、襲いかかる眠気には抗えず、京子は再び深い闇へと沈んでいった。

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