第二話:中村工務店
一九七八年、夏。
遠くにそびえる真っ白な入道雲が、真夏の青空に映える。ねっとりとした陽光を、夏草が青々と跳ね返している。簡素な平屋が並ぶ田舎町の昼。風は止まり、幾重にも重なる蝉の鳴き声が、まるで実体のある重圧のように降り注いでいた。
その喧騒を突き破るように、中村工務店の事務所で怒鳴り声が上がる。
「うるせえな! 帰らねぇつってんだろ!」
まだ十七歳の滝沢修だった。黒電話の受話器を握りしめる指が、力んで白く浮いている。彼は、真夏の酷暑の中にあっても、色褪せた革ジャンを頑なに羽織り続けていた。それは彼にとって、憧れそのものを身に纏う儀式のようなものだった。
「わかってんだよ、退学になりゃ親の面目丸潰れだってんだろ? だったら直接言いに来いよ。……ああ、もういい!」
ガチャン、と乱暴に受話器を置く。受話器を叩きつけた衝撃で、事務机の上の灰皿が小さく跳ねた。
修は高校での素行が悪く、不登校の身だ。かつてこの店の跡取りであり、学校の先輩でもあった中村誠を慕って居候を始めたが、その誠が死んだ後も、彼は誠の代わりを務めるかのように店の手伝いを続けていた。
十七歳の多感な少年を呼び戻そうとする両親からの電話は、戻れと急かすばかりで一度も直接迎えに来たことはない。修はそんな両親の「体裁ばかりの愛情」を、言葉には出さずとも心の底から不信に思っていた。
「修、親にその口の利き方はないだろう」
中村工務店のロゴが入った、油染みのついたツナギの袖を捲り上げ、中村勇が静かに制した。五十五歳になる彼の肌には、長年機械と向き合ってきた男特有の、深く刻まれた皺と頑固そうな意志が宿っている。
修は誠の形見である革ジャンを羽織り直し、不貞腐れたように椅子に沈み込んだ。そこへ、誠の妻、京子が淹れたての麦茶を持って現れる。
「修くん、冷たい麦茶、淹れたわよ」
「……ああ」
傍らで、京子が静かに声をかけた。彼女は、茶鼠色の半袖つなぎに身を包んでいる。無骨な作業服のはずだが、彼女が着るとどこか静謐な雰囲気を漂わせていた。
「勇さんも、どうぞ」
「おう、すまんな」
修は受話器を叩きつけた時の荒い息を吐き出すと、差し出された結露するグラスを黙って受け取った。氷がカラン、と涼しげな音を立てる。冷たい麦茶が喉を潤し、腹の底に溜まっていた熱を少しだけ鎮めてくれた。
修は、作業台に戻った京子の背中に視線を向けた。
京子は再び椅子に深く腰掛け、分解されたラジオの基板と向き合っている。細い指先がピンセットを操り、複雑に絡み合う配線から、死んだ部品を一つずつ選び出していく。ハンダごての熱で立ち上る松脂の匂いが、夏の重たい空気と混じり合った。
修は、その手元の動きをじっと窺った。
勇が扱う大型の発動機や重機とは違う、壊れ物を扱うような繊細な手つき。その精密な作業は、まるで止まってしまった時間を一秒ずつ手繰り寄せているようにも見えた。
彼女が修理に没頭している時、その横顔からは一切の感情が消える。思春期の少年は、その横顔に潜む危うさを、言葉にできない重みとして察していた。
四年前。雨の降りしきる田舎道。
あの日、ハンドルを握っていたのは夫の誠だった。速度超過でカーブを曲がりきれなかった対向車が、彼らの乗る車に正面から衝突したのだ。誠に過失は一切なかった。助手席の京子と、お腹に宿った新しい命を庇おうと、直前にハンドルを切った跡があったという。しかし、そんな回避行動もむなしく、誠と小さな命は、一瞬にして奪われた。
ただひとり、生き残ってしまったという事実。
警察や親戚に「運が良かった」と言われるたび、それは彼女の心に消えない呪いのように深く刻み込まれていった。現実の痛みから逃れるように没頭し始めた機械修理の腕前は、今や義父である勇も一目置くほどになっていた。壊れたものを直している間だけは、自分の壊れた人生から目を逸らすことができたのだ。
京子が直しているのは、単なる古いラジオなどではない。事故のあの日から止まったままの、今にもバラバラに崩れそうな自分自身の心を、精密なハンダ付けで必死に繋ぎ止めているのだ。
わずか二十二歳の若さで未亡人となったあの日から、彼女の歯車は摩耗し、空回りし続けているようだった。
そんなに根を詰めなくてもいいのに、という言葉が喉元まで出かかったが、修はそれを、麦茶の最後の一滴と一緒に無理やり飲み下した。
ジリリリッ――!
再び、黒電話が沈黙を破った。また両親か、と修が顔を歪めたが、今度は勇が自ら受話器を取った。
「はい、中村工務店です。……ええ、ご無沙汰しております」
勇の背筋が、わずかに伸びた。その敬語の使い方は、商売相手に対するものとはどこか違う。もっと古い、骨身に染み付いた規律を感じさせるものだった。
「……はっ。左様でしたか。……分隊長、いえ、小林殿。……いえ、滅相もございません」
会話は聞こえないが、相手が勇の陸軍時代の上官であることは、その言葉端からすぐに察しがついた。勇は時折、短く応じながら、メモ帳に「寿楽荘」と書き留めた。
「承知いたしました。……なるべく早く。……はい。すぐに」
勇が電話を切ると、京子と修は顔を見合わせた。
勇はメモを京子に見せた。
「雛月村の温泉宿『寿楽荘』だ。電気系統の配線がイカれてるらしい。本来なら俺が行くべきなんだが、この発動機をバラしちまってな。悪いが、修を連れて二人で行ってきてくれ」
勇はそう言うと、手帳を閉じ、首に巻いた手拭いで額の汗を拭った。
京子は少し困ったように眉を下げた。
「私と修くんで、ですか? でも、義父さんを一人にしておくのは……」
「俺が飯も炊けねえ老いぼれに見えるか?」
勇はわざとぶっきらぼうに鼻で笑う。
「面倒を見られるほど老いぼれちゃいねえぞ。……いいか、京子さん。お前さんはこの四年間、一度もこの町を出てねえ。誠のことも、工務店のことも、一度忘れてこい。あそこは山奥だが、湯だけは一級品だ。仕事が終わったら、一泊して翌朝のんびり帰ってくりゃいい」
勇の言葉は荒っぽかったが、その眼差しには、動かぬ時計のように自分を縛り続けている嫁への、痛いほどの慈しみがあった。
「……そこまで仰るなら。お言葉に甘えますね」
京子は勇の不器用な善意を汲み取り、小さく微笑んだ。彼女の決断は早かった。奥の部屋から手際よく着替えと化粧品をまとめ、修の背中を叩く。
「修くん、準備して。出発よ」
京子は、修理道具を収めた木箱を抱え、工務店の前に停めてある、錆びの浮いた白い軽トラックへと向かった。
荷台に工具を積み込み、二人は助手席と運転席に分かれて乗り込む。京子が慣れた手つきでエンジンをかけると、古びた軽トラックは重い熱気を切り裂いて走り出した。
バックミラーに映る工務店の姿が次第に小さくなっていく。
逃げ水がゆらゆらと揺れるアスファルトの向こう側、山の深い緑が、二人を飲み込もうとする巨大な穴のように開いていた。
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