第一話:前触れ
山脈に囲まれたとある盆地。雛月村の夜は、都会のそれとは比べものにならないほどに濃く、昏い。
一九四八年、夏。敗戦の混乱が続く世間の喧騒を拒絶するように、この村だけが、底知れぬ静止した闇に取り残されていた。
温泉宿「寿楽荘」の客室では、戦前からの常連である初老の男性客が、膳を前に寛いでいた。部屋の隅に置かれた木製のラジオからは、始まったばかりの「のど自慢大会」の陽気な囃子と、出場者が精一杯に張り上げる、どこか物悲しい演歌の歌声が流れている。真空管の微かな熱気が、夏に湿気る畳の匂いを引き立てていた。
そこへ、「失礼いたします」と静かに襖を開けて、若女将の千代が入ってきた。
「お食事、お口に合いましたでしょうか」
千代は慣れた手つきで空いた膳を下げると、手元に残した小さな包みを客の前に差し出した。
「これは、子守の神様です。病気平癒のご利益がありますので、どうぞ、お土産にお持ちください」
包みから現れたのは、朱色の漆が鮮やかな一本の「こけし」だった。
「おお、これは見事な赤物だ。ありがとうございます、女将さん」
男は目を細め、こけしの頭を愛おしそうに撫でた。そして、思い出したように声を弾ませた。
「そういえば女将さん、聞いたよ。旦那さんが戦地から戻られたそうで。本当におめでとう。このご時世、これ以上の慶事はない」
その言葉を聞いた瞬間、千代の頬が微かに上気した。
「ええ……ええ、そうなんです。茂さんが戻ってきてくださいました。本当に、ようやく……」
千代の微笑は花が綻ぶように美しい。しかし、その目だけが妙に濡れたように光り、焦点がどこか現実ではない場所を彷徨っている。そのあまりに純粋で、あまりに深い「喜び」の形に、客の男は一瞬、説明のつかない寒気を覚えた。
「……そうですか。いや、本当に良かった」
男は自分を納得させるように頷き、再びラジオの歌声に意識を戻した。
男がこけしを受け取ると、廊下の闇、帳場で帳簿をめくっていた主・茂の手が止まった。茂の軍服を仕立て直した作業着の肩は、酷く痩せこけている。
茂はラジオから流れる拍手喝采を背に、眉間に深く、消えない溝のような皺を刻んだ。そして、深く、重い溜息を吐き出した。
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