第1章 辺境
トーヴァ村に着いたのは、昼をすこし過ぎた頃だった。
街道と呼ぶのもためらわれる轍の跡を三日歩いて、ヴァンは村の入口に立った。入口といっても門があるわけではない。畑がまばらに始まり、家がまばらに始まる。それだけだった。
畑の脇で鍬を担いだ男が、珍しいものを見る目でこちらを見ていた。
「すみません。ギルドはどこですか」
「ギルド?」
男は鍬を担いだまま、しばらく空を見た。思い出そうとしている顔だった。
「んなもん、あったっけかなぁ……あー、あれだ。あそこ」
指さされた先には、小屋があった。小屋というより、ブースだった。
(煙草屋か……?)
ヴァンは中を覗きこむが、人の姿は見えない。木の窓枠を叩く。すこし湿気た音がした。
「誰かいますか」
やがて奥でごそごそと音がして、老人が出てきた。眠っていたらしい。白い眉の下から、値踏みするようにヴァンを見上げる。
ヴァンは懐から求人票を出した。街のギルドで渡されたものだ。【辺境警備・雑務】の記載。折り目が擦り切れている。
老人は紙を受け取り、腕をいっぱいに伸ばして眺め、それから鼻を鳴らした。
「あー? あんた、これもう何年も前の求人だよ」
「え……」
「この店の店主、もう死んじまってるよ」
ヴァンは黙って紙を見た。三日歩いてきた道のりが、紙の折り目に畳まれて消えていくようだった。
「あんた、仕事探してるんかい」
「あ……はい」
老人は窓枠から身を乗り出し、鍬を担いだ男に声をかけた。
「ちょいと。いま、人足りないとこどこだい」
「あー……食堂は? あそこ、弟さんこないだ出てっただろ」
「そうかい」
老人はよっこらせ、と言いながらブースを出てきた。思ったより小さい老人だった。
「案内してやるよ。来な」
*
食堂は村の真ん中にあった。真ん中といっても、家が五、六軒かたまっている一角の、いちばん大きな建物というだけだ。看板はない。ただ、昼どきの匂いと人の声が中から漏れていた。
扉を開ける。食事をしている村人たちが顔を上げ、視線が突き刺さる。よそ者だ、という好奇の視線だ。
厨房の奥から恰幅のよい老婆が顔を見せ、ヴァンを見た。
「見ない客だね」
「あ、僕は客じゃなくて。ギルドのご老人からここを案内されて……」
「客じゃないのかい。見ての通り忙しいんだよ。暇なら皿でも運んどくれ」
「え?」
わけもわからぬうちに、気づけば両手に皿を持たされていた。湯気の立つ、よくわからない具の炒めものだ。運んどくれと言われても……。店主らしき老婆は既に厨房へ引っ込んでしまっている。ヴァンが困惑して視線を彷徨わせていると、盆を抱えた娘と目が合った。
「三番。窓際のおじさんたち」
「三番……」
「卓に彫ってあるから」
娘はそれだけ言って、すれ違いざまに厨房へ消えた。美人だな、とヴァンは思った。それから、卓の縁に彫られた数字を探して店内をうろついた。
昼の波が引くまで、そのまま働かされた。皿を運び、皿を下げ、水を汲み、薪を割った。剣を背負ったままだったことに、薪を割り終えてから気づいた。
*
賄いが出た。昼に運んでいたのと同じ、正体のよくわからない炒め飯だった。米ではない何かの穀物がグニグニした食感で、あまり美味くはない。
「で。働きたいんだって?」
老婆――この店の主人で、ゲルダという名だった――が、向かいにどっかりと座った。
「あ、はい」
「給料は月2000Gだ」
(安……)
冒険者だった頃の実入りの、三割にも満たない金額だ。でも、ヴァンは頷いた。
「わかりました」
「この村に住むんだろ? 泊まるところは」
「あ、しばらくは宿屋に」
「宿屋なんかないよ」
「え……!?」
「そりゃそうだろ。観光地じゃないんだ。あんた、都会もんかい」
「まぁ……。冒険者をやってました。そういうことなら、野宿でもいいですよ。慣れてるので」
「変なことするんじゃないよ。うちに住み込みな」
「えーと……じゃあ、はい」
「セナ。バルトの部屋に案内してやんな」
セナと呼ばれる、さっきの娘が頷いた。
*
二階の奥の部屋だった。
戸を開けると、埃と、他人の匂いがした。壁に古い弓が掛かっている。棚に木彫りの何かの動物。ベッドの脇に、少年向けの冒険譚が数冊、積まれたまま黄ばんでいる。
「ここ、使っていいんですか」
「何年も帰ってないから。大丈夫」
セナはそう言って、それ以上は何も説明しなかった。
「明日は五時に起きて。着替えて下りてきて」
早……と思いながら、ヴァンは頷いた。
「わかりました」
戸が閉まる。ヴァンは部屋の真ん中に立って、他人の私物をしばらく眺めた。バルト、というのがどんな人間なのかは知らない。ただ、この部屋の主は帰ってこないのだということだけが、棚の埃の厚さでわかった。
剣を部屋の隅に立てかけ、ベッドに入る。
他人の抜け殻は、思ったよりあたたかかった。




