第1話
――――……
――……
「――――の、あの!」
耳元で叫ぶような呼び声が聞こえて、なにを大袈裟に、起こすならもっと静かに起こしてよ、といつも言ってるのに、と母親に何か言ってやろうと思う矢先、頭がごつごつとした何かに触れていて、それ以上に空気とか匂いとかが、いつもと全然違うことに気が付いた。
耳元で聞こえる懐かしい心地の声音と、それから向こうで囀る鳥の声、木々の揺れるこっそりとした音が耳を同時に刺激していて、あれ? なんかおかしくね? ということに気付くのに十秒くらいを要したけど、おかしいと気付けばその瞬間に目を開くのが寝起きゆえの怠さでめちゃくちゃに嫌になって、ああ、もういっそ殺してくれ、と思った。知らない経験は嫌だな。知らない経験だから。トートロジー。トートロジーという単語に、どことなくナマケモノ的な雰囲気を感じています。
「あの、大丈夫ですか!? いや、大丈夫ですかというか、私も……」
「うっさい!」
「えっ!?」
突然叫んだ私に困惑した声の主が、それだけでオロオロしたことが分かった。そしてその声の心地がやっぱり懐かしいことが、私のことも強く困惑させた。聞いたこと、ある。目を強く閉じる。起きまい、起きまい、とする。
するとまた別の声も届いてきた。あっちだ、いやこっちだ! 男たちの怒号だった。
「倒れてたので、一応声を掛けたのですが、お昼寝中でしたか? でも、逃げないと……! いや、関係ないのかな……私が追われてるだけなんだから……」
こんな、外で寝るわけ、ないでしょ。そしてなにから逃げるというのか。どんな間抜けが私の顔を覗き込んでるのかと思って、苛立ちからついに目を開いてしまったのが終わりの始まりだった。まず目に飛び込んできたのは、聳え立つ巨大な木々。普通の松の木をそのまま何倍にもしたみたいな巨木は、付ける葉さえ目線のずーっと先にあって、そういう巨大な樹が、私を囲っている。そういう異様な森の中にいた。
どうしてこんな所へ? うちの近所にこんな場所が? いや、こんなに大きな木がこの世に? ないとも、言えないか。アメリカとかにはたぶんあるんだ。ここがアメリカならね!
お手上げ。心の中で両手を上げて、声の主を探して、左に目をやると、ワンピースの裾から、健康的な白い脚が地べたにぺたんと座り込んでいた。藍色のワンピースをゆっくり上に目で追っていって、私は息も付かぬうちに起き上がった。その顔を見たからだった。
私の手は無意識のうちにおずおずと、その顔に伸びていく。
私の顔を覗き込んでいたのは、死んだ幼馴染だった。かつて交通事故で、私の目の前で跳ねられて、おびただしいほどの血を流して死んだ、あの。
出す言葉も思い付かなくて、口を震わせることしかできない。驚きで目は開きっぱなしなのに、乾くのも忘れている。
「愛……?」
「へ、あの、えと」
けれど、私の伸ばす手を、彼女は遠慮がちに避けた。触れられなかった私の指は、行き場を失って地面に落ちる。どうして避けるの? せっかく会えたのに。
まだ、話したいことがたくさんあったのだ。交差点で突然、ハンドル操作を誤った車に愛は轢かれて、次の言葉を発しようとしていた私の口からは、結局小さな悲鳴だけが漏れて、その瞬間、その数秒に、幼馴染はいつ事切れたのか、もう二度と私は彼女の声を聞くことはなかった。
私の悲鳴は聞こえてしまったんだろうか。せめて楽しい笑い声を、それだけを抱いて死んでいってくれてはいないか。その疑問を聞くチャンスを得て、救われた気になったのに。愛が夢に出てくることは珍しくなかったけど、愛が出る夢の中で、私は愛が死んだということを知りはしていなかった。
いま抱いている感覚が、現実であることを否定することをさせない。この重力とか、思考の明瞭さは、夢じゃない。紛れもない現実。紛れもない現実に、あの愛が現れたんだ。だったらやっぱり触れさせて欲しかった。
私のすべてに。
私の手を避けたくせに、自分のその行動でバツが悪そうにしている幼馴染を、私はなお愛しく思っている。
「愛、どうして、どうして避けるの?」
だから、切なかったけど、声は穏やかだった。でも次の言葉を聞いて、頭の中では食器の落ちる音が響いた。
「すみません、あの。どなたかと、勘違いしていませんか」




