薔薇と誓約
真夜中を告げる細い鐘の音が、遠くかすかに聞こえる。フェリシアの細い両腕は、しっかりと自分を護るように身体に巻きつけられていた。
薔薇の誓約は、フェリシアのしている首飾りの守護魔法も無効にしてしまうだろうか?
フェリシアは不吉なヴィクトルの勝ち誇った笑い顔に、これまで以上の嫌悪感を抱いた。
「お願い!」
今ひとたび、心の中で恋人の名前を強く念じる。
「薔薇の誓約よ。誓約を確認せよ」
ヴィクトルの自信ありげな声が広間に響き渡ったとき、
『薔薇の誓約は、不成立なり!』
天の声が厳かに告げた。
「あぁ、よかった・・・・・・」
「なんだとっ!? そんな馬鹿なことがあるものか!!」
フェリシアの歓喜に満ちた小さなため息と、ヴィクトルの怒りに震える怒鳴り声が重なった。
「証拠は、どこだ? この広間以外のどこに薔薇の花があるというんだ?」
ふいにヴィクトルの目の前に、白い光が現れた。光の中には、美しいきらめきを見せる立方体をした水晶が浮かんでいる。
ヴィクトルがそれを掴み取り、目を皿のようにしてその水晶をながめまわした。その水晶に魔法の気配は露ほどもない。しかし、薔薇の影もない。
「薔薇なぞどこにもないではないかっ!」
ふと裏返すと、底に張られた銀の革の隅に、何か文字が小さく書かれている。
目を凝らすと、そこには美しい筆記体で書かれたMで始まる署名が読み取れた。
「おのれっ! 奴かっ!? これは欺瞞だ、詐欺だ。なにかの陰謀だっ」
怒りに任せてヴィクトルは、その何の変哲もない水晶体を床に力任せに投げつけた。
それはふかふかした厚い絨毯の上で大きくはずみ、さらにころころと勢いをつけてフェリシアの足元にまで転がった。
フェリシアがそれを大事そうに拾い上げると、覗き込んで声をあげた。
「まぁ、綺麗。綺麗な銀の薔薇だわ」
水晶の中にはあの幻の銀色の薔薇が浮かんでいた。
フェリシアは署名を見るまでもなく、その薔薇の作り手に気がついて微笑を浮かべた。
「なんだと?」
フェリシアの言葉にヴィクトルが飛んできて、彼女の手から水晶をひったくった。確かに、水晶の中に銀色の薔薇が見える。
そしてそれはヴィクトルが見ている前で、ゆっくりと形を崩し、ほろほろと溶けるように消えていった。
「そんなはずがあるか。これには魔法の気配なぞないんだぞ?」
水晶を眺めて呆然としているヴィクトルに、びゅうっと強く風が吹きつけた。
ヴィクトルが振り向くまもなく、まるで黒い矢が放たれるように、フェリシアの気配が勢いよく広間の天窓から空へ向かって飛び去っていった。
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この町の周りには首が痛くなるほど反り返って見上げなければ、てっぺんが見えないほどの高い防護壁がぐるりとめぐらされている。
満月に近い月の光は、手当たり次第にあたりのものの影をくっきりと浮かび上がらせていて、白い壁も影と光の模様をつけた巨大な彫刻のように美しく空間に広がっている。
夜はもうかなり深く、辺りには酔っ払いや物好きな人影も見えず、時折、野良猫が小さく鳴きながら通り過ぎていくだけだ。
だが、誰かその高い壁を見上げる者がいたら、夜目にも鮮やかな金色の髪と白いマントが風になびいているのが見られただろう。
妖魔か幻か、それとも酒のせいなのかと、慌てふためいたかもしれない。どうやってそこへ上がったのか、推測できるような物は近くには何もない。大体にして並の長さのはしごでは、到底あそこまで届くはずもないのだ。
壁の上には二十歳くらいの金色の髪の一人の青年が座っていた。
彼はその目もくらむような高みで支えも何もなしでいたって優雅に、そこがまるで王座でもあるかのように長い足を組み、ゆったりと座り込んでいる。
明るい金色のすこしくせのある柔らかそうな髪や、仕立てのよさそうな白のマントが時折吹く強い風になぶられても、まるで気にする風もない。
顔の左側を覆う長い前髪が吹き払われると、そこから緑の右目とは異なる金色の左目が見えた。
「そろそろかな?」
真夜中に近くなったと思しきあたりになると、彼はそう呟いて町の真ん中辺りのひとつの大きな屋敷を凝視し始めた。
自分の気配を悟られるのを怖れて屋敷のそばには寄らなかったが、ここからでもヴィクトルの屋敷は一目で見渡せる。彼女がいるはずの広間の灯りが、木立の間でちらちらと揺れた。
「あの手がうまくいかなかったら、あの誓約を破るしかないな」
彼が少し緊張した面持ちでそう呟く。
歴代の魔術師の誰もが破れなかったという薔薇の誓約を、彼には破る自信はあったが、どうにも時間がかかりそうなのが難点だった。
誓約を破る間、あの首飾りが彼女を護ってくれるだろうが、あまり望ましい方法ではない。 できれば、あれが上手く作用してくれれば・・・・・・。
思いに沈む彼の顔が弾かれたようにあがる。彼がよく知っている彼女の魔法の気配が、辺りの空気にさざなみのように伝わってくる。
その魔法の気配は真っ黒な矢の形をとり、屋敷からものすごい速度で天へ向かって放たれたように見えた。
それが見えると彼はほっとしたように息をつき、口元に小さな微笑を浮かべ、右手を軽く上げるとぱちんと指を鳴らした。
彼の白い指先から、小さな明るい星が天へ向かってひとつ舞い上がっていく。その星に惹かれるように、黒い矢が速度を変えずまっすぐに青年の下へ降りてきた。
青年が腕を広げると、黒い矢はその中へ落ちる寸前で速度を落とし、彼の名前を呼ぶ美しい女性の姿に戻った。彼女は青年の腕の中へ静かに舞い降りると彼の膝の上に座り込み、その首に柔らかな白い腕をまわして口づけをした。
「よかった、上手くいったみたいだね」
しばらく彼女の感触を楽しんでから唇を離すと、彼は優しく彼女の顔を覗き込み、彼女はにこりと笑って彼の胸に顔を押し付けた。
「ありがとう、やっぱりあなたは最高よ」
「上手くいくかどうか、ちょっと心配だったんだけどね」
彼女は小首をかしげ、彼を見上げた。
「あれは何の魔法なの? 魔法の気配がなかったと陰気で不吉なヴィクトルが言っていたし、わたしにも気配が読めなかったわ?」
「"陰気で不吉なヴィクトル"ね」
彼は苦笑した。さぞかし嫌がってるだろうな、彼女にその名で呼ばれることを。
「気配はないだろうね、あれは魔法じゃないから」
「えっ? でも」
「ヴィクトルは頭から僕が魔法を使うもの、と決めてかかっていたんだろうけど、他のは最初から全部、目くらまし用の代替品だったんだ」
彼は上着のポケットから、あの水晶の立方体と同じものを取り出した。
「これはね、水晶の中を薔薇の花の形にくりぬいてあるんだ。この水晶のくり抜いてある部分と抜いてない部分は、光の屈折率が異なっているんだ。そこまではいい?」
彼女が彼の問いかけに小首をかしげると、彼も一緒に首をかしげて見せた。その仕草が可愛らしくて彼女は笑い、それからちょっと甘えるような口調で上目遣いに見上げた。
「くり抜いたところと抜いてないところは、水晶の厚みが違うってことでいい?」
彼は微笑んで、うんまぁ大体いいよ、それでと言った。
「その厚みの違う水晶の中を通る光の屈折率が異なっているために、そのままの状態では中に薔薇が彫られていることがわかってしまう。だから、その二つの屈折率の差分を補足するために、ある透明な液体を入れているんだ。その液体のおかげで、光の屈折率は一定になり、水晶の中がくり抜かれているようには見えなくなる。ただの水晶の立方体にしか見えないだろ? だけど、中には液体の入った薔薇の彫刻があって、その液体の中には、細かい銀の粉が入れられている。銀の粉は、いつもは底に張られた革と同化していて見えないけれど、こうやって」
と、彼はその水晶体を彼女の目の前で強く上下にふって見せた。
あの銀色の美しい薔薇が水晶体の中に鮮やかに浮き上がる。
「強く振ると、中の液体の中で銀の粉が舞い上がって、ある一定の短い時間だけ薔薇の花を形作る。
その舞い上がった粉が落ち着いて元に戻れば、再びなにも見えない状態に戻る、とこういう訳さ」
はぁと彼女はため息をついて、もう一度彼の胸に頬を寄せた。
「いつも思うんだけど、あなたの頭の中ってどうなってるのかしら? 薔薇の誓約を教えてくれたのも、あなただったし」
ふふっと彼は低く笑った。
「正直に言えば僕が考えたものじゃないよ。僕の師匠が考えたのさ。師匠のは銀の髑髏だったけどね」
今度は、くすくすと彼女が笑った。
「ほんとに正直ね。黙っていたらわからないのに」
彼はおどけた口調で
「褒めてくれるんなら、薔薇のできばえのほうを褒めてほしいな。それは正真正銘、僕が彫ったものだから」
と、言った。
その言葉を聞いて彼女は彼の胸から顔をあげ、うっとりと彼の端正な顔とその手の中の銀色の消えかけた薔薇を交互に見比べた。
「そうね、とても綺麗だわ。まるで本物の薔薇の花みたいよ」
彼は優しく微笑んだ。
「ありがとう、フェリシア」
フェリシアは右手でそっと彼の前髪をかき上げ、いつもは隠されている金色の彼の目を見つめた。魔力に満ちた彼の金色の瞳を、彼女だけが恐れることなく覗き込めるのだ。
「でも、あなたのほうがもっと素敵よ」
二人の視線が絡み合い、フェリシアが誘うように目を閉じた。その赤い唇のほうへ彼がかがみこんでいったが、そこへ行き着く前にふとその動作を止めた。
「? どうしたの?」
その気配にフェリシアが怪訝そうに目を開けた。
「そうだ、彼にお礼をしなくちゃ。忘れていたよ。二度も薔薇を取り上げられて気の毒なことしちゃったから」
「彼? 何のお礼?」
フェリシアの唇に彼のそれが重なる寸前に彼女の耳に聞こえたのは、「薔薇の持ち込み料」と言う言葉だけだった。
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ヴィクトル・レンデルの屋敷に勤めていた厩番の男、ニックの元に大量の薔薇と、薔薇の飾りがふんだんについた美しい花嫁用のヴェールとドレス、金貨のたっぷり入った袋が届いたのはその翌日のことだった。
―幕―
作中の消える薔薇は、敬愛するミステリ作家であり現代の魔術師であった泡坂妻夫先生の「消えるドクロ」へのオマージュです。
そしてこの作品「彼」の名前は一度も出てこず、しかも魔法も使っていません。当時そういう縛りで書いたものと思われます(他人事のようですが、なにしろ2004年ごろの作品なので)




