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【完結】せめて異世界では普通になりたかった  作者: 四片紫莉
第3章 三つ巴の物語

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65 留まらないために

 す、と碧の身体を借りたシルフィードが片手を挙げる。ベリルが応えるように大きく鳴き声を上げた。


 それは、どこまでも優しい力だった。それなりの重量を持つはずの成人のヒューマーが花びらのようにふわふわと宙に浮かぶ。ふ、と細められた晴天は遠くを見つめていた。


()()()()を心穏やかに過ごせるように祈っているよ」


 喚く声は穏やかな筈の風に遮られてこちら側へは届かない――もはや対話の術はないのだ。


「流転の精霊の名において命ずる。留まらないための力よ、芽吹く場所へと種を運べ」


 途端、漂っていたヒューマー達が一陣の風と消えた。ふぅ、と息を吐いたシルフィードは、世界の裂け目の方角を見つめる。


「……急がなきゃ、駄目みたいだ」


 吊られるようにディックも未だ煙を上げる空を見上げた。煙とともに、黒い境界が空へと昇って消えていく。


「……貴方様の、身体は」

「元より僕らに身体はないよ……だからこそ、どこにでも行けるんだ」


 吹き抜けた風を追った視線が不意に地面に落ちる。爆発によって飛んできたのだろうか。黒い水晶がちりちりと芥を振りまきながら蒸発していく。青い猫が苛立ったように小さな前足でそれを叩いていた。


「もはや、一刻の猶予もない……悲しいけれどもう決めてもらわなきゃ、ね」


 ルーナの隣にベリルが舞い下りた。不満げになく猫をなだめるように翼を広げて彼女を覆う。

 ふ、と暖かな笑みを零したシルフィードがゆっくりと一度瞬きをする。夜になった晴天が、きょろきょろと辺りを見回した。


「大丈夫ですか?」

「あ……うん」


 応える声が酷くか細いのに気付き、ディックは首を傾げた。が、直ぐに理由に思い当たって眉を寄せる。かける言葉を見つけられず、そっとその震える肩を抱いた。


「戻りましょう……少なくとも皆さんが戻るまで、時間はあります」


 シルフィードは一番近場であった上に試練もなかった。他の精霊の住処へは海を越える必要がある上に、ウンディーネのところへ行くにはヒューマーに協力を取り付ける必要がある。


……碧が生きていく世界を決めるにはまだ、ほんの少しだけ時間が残されていた。



◆◆◆◆◆



 ディックの家に戻って直ぐ、彼は教団の残党がいないか見回りに行くと言いだした。気を利かせてくれたのだろう。ぽんぽんと碧の肩を叩いて、出ていったのだ。

 ディックの両親も今後のことについての会議に出かけていて不在だった。


『アオイ、元気ない?』


 ふすふすと鳴る鼻をテーブルに乗せたチビが首を傾げる。ジェレミーはその頭を撫でて碧の顔を窺っていた。


 明らかに憔悴している上に、ベリルとルーナが心配そうに寄り添っている。去り際にディックから精霊の力を借りることに成功したこと、教団と一悶着あったことは聞いたが、詳しいことは碧に聞いてくれと言わんばかりに足早に出て行ってしまったのだ。

 その前に煎れていってくれた紅茶を暇つぶしに口に運びながら、ジェレミーは言葉を探した。


「……すごい音と振動だったけど、アオイちゃんは大丈夫だった? 怪我とかしてない?」


 ふるふると首が左右に振られる。ぐ、と一度噛み締められた唇が、震えながら開かれる。


「教団、が……大量のモリオンを破壊、しました」

「……そっ、か」


 なるほどね、と思考の時間稼ぎのように呟き、黒いつむじを見つめる。残り時間は更に減ってしまったらしい。しかし、教団の愚行に怒りを覚えるよりも、碧への心配が勝っていた。


「まぁ、シャオやエディたちなら大丈夫でしょ。直ぐに戻って来るよ」


 こくりと黒い頭が小さく頷いた。まだ何か言いたいことがあるのだろう、とジェレミーは静かに碧を待った。テーブルの上に乗せられていた両手が強く握られる。


「元の世界に戻るかどうかは、決めていいと」

「……へぇ」


 少し驚いたように相槌を打ったジェレミーはやや興奮した様子のチビを押さえるように撫でた。一生懸命碧に話しかけているようだが、彼には内容はわからない。碧はただ、曖昧に笑うだけだった。


「ジェレミーさん、は……どう、しますか?」

「そうだねぇ……」


 ジェレミーはそう言いながら顎を撫でた。揺れる瞳を盗み見て、一度目を閉じる。


「アオイちゃんには内緒にしとこうかな」


 え、と放り出された子供のような声が上がった。青い目を優しく細めて、彼は続ける。


「こればっかりは、自分で決めなきゃね」

「……」


 そんなことは、わかってはいるのだろう。それでも碧の視線は床へと落ちる。


「独り言だと思ってもらってもいいんだけどさ」


 ゆるりと頬杖をついたジェレミーはそう呟いた。少しだけ持ち上げられた視線は、青いそれとは合わない。


「『帰りたくない』と『ここに居たい』は別だからね」

「……うん」


 自分でも気づいていないのだろう、幼い返答にジェレミーは小さく笑う。そうしてチビを撫でているのとは反対の手を軽く持ち上げた。


「しっかり考えて、決めなね。どんな選択になっても、俺はアオイちゃんの考えを否定はしないから」


 もちろん、この仔らもね。そう続けた彼はテーブル越しに手を伸ばして碧の頭を撫でた。撫でられるがままに小さな頭が揺れる。それが小さく頷くのを手のひらで確認して、ジェレミーは安心したように息を吐いた。

 そうしてティーポットから温かい紅茶を煎れなおし、碧の前ですっかり冷めてしまったものと入れ替える。


「そう言えば、シルフィードの試練ってどんなのだったの?」


 何気なくそう問えば、ベリルがちょっとだけ険しい声で鳴いた。テーブルの上を駆け寄ってきたルーナにも猫パンチを喰らいそうになり、慌ててのけぞる。


「試練は、ありませんでした……ただ、」


――重要なのは、立ち止まらないことだよ。


 シルフィードの言葉を思い出し、碧は思考を巡らせる。『立ち止まらない』というのは、『留まらない』というのは、どういう事なのだろう。進み続けることこそが重要だということなのだろうか。それが間違った方向だとしても?


 言葉を止めてしまった碧に、ジェレミーも黙ったまま見守る。そんな碧に寄り添う二匹を見ながら、彼は二十年以上も前のことを思い返していた。


――ノームの領域で、試練を受けたその日のことを。

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