64 摩耗する術
木漏れ日の中を歩いていく猫を追って、碧とディックは来た道を戻っていた。想定していたよりも遥かに早く終わってしまったことに戸惑いを隠せないのだろう。ディックは少し遠くを見つめながら口を開く。
「しかし試練がないとは……やはりそれだけ切羽詰まった状況なのでしょうね」
「そう、ですね……この辺りの魔物も皆ここを離れちゃってるみたい」
「あぁ、どうりで」
ディックは改めて辺りを見回した。動くものは舞い散る木の葉とその影くらいのものだった。言われて気付いたが、鳥の鳴く声も酷く遠い。
「……ヒューマーは、世界のこと知らないままなんですかね」
ふと浮かんだ疑問が口から零れた。ディックは考え込むように自分の顎を撫でる。
「おそらくは、そうでしょうね。あの王がこの情報を開示するとは思えません……場合によっては暴動が起きるかもしれませんし」
『それにきっとその方がしあわせだよ』
前を歩いていたルーナが会話に混ざろうとする。しかしながらその声を聞けるのは碧だけだ。幸せか、と繰り返すように小さく呟いた碧にディックは首を傾げていた。
「もっと早く、知ってたら……」
不意に碧の足が止まった。とくとくと脈打つ心臓の隣に、シルフィードからもらった加護がある。改めて、自分が世界の選択を決める力に組み込まれたのだと、実感が湧いてしまった。
「……これは、推測にすぎないのですが」
碧から数歩進んだところで同じように足を止めたディックが振り返る。
「アオイさんやジェレミーさんがこの世界に迷い込んだのは、モリオンが採掘されたせいで世界の境界が薄れたからでしょう? なら、貴方がここに来た時点で、きっと手遅れだった」
ずしりとディックの肩に重みが乗って来る。うつむいていた碧に遠慮したのだろう、ベリルがディックの肩で羽を畳んで小さく鳴いた。
「むしろ貴方が来てくれたから……ビーストテイマーとして覚醒してくれたから、この世界を――あちらの世界をも救うことが出来るんです」
ディックは立ち止まりそうになる碧に手を差し伸べる。元気づけたいのもそうだが、偽りのない本心でもあった。
「世界が辿るはずだった結末は、少しだけマシになったんですよ」
前向きに考えましょう、と微笑む。こちらもぎこちなく笑った碧の足元にルーナがまとわりついた。甘えるようにすりすりと頭を擦りつけてくる。碧はしゃがみこんでその暖かな体温を迎えに行った。
碧の腕の中でくるりと向きを変えたルーナは肩に手をかけるようにして抱きついた。太陽の匂いを少しだけ吸い込んで、碧は口を開く。
「すみません、ここまで来て……」
「迷うのなんて当然のことですよ。シルフィードもなんの躊躇もなく片方を切り捨てるようなヒトを選んだりはしないでしょう」
同意を示すように耳元でなーん、と鳴き声が上がった。ディックの肩の上で弾みをつけて飛び立ったベリルが碧の肩へと向かい――通り過ぎた。
「ベリル?」
碧の頬を一陣の風が撫でた。背後を振り返るよりも早く、ディックが碧の腕を掴んで引き寄せる。彼は反対の手に十字の槍を構えていた。
碧がたたらを踏みながらディックの胸に飛び込むのとほぼ同時に、背後で何かを弾き飛ばすような衝撃音とくぐもったような悲鳴があがる。
「諦めの悪い方々ですね……」
呆れたように眇められた目に映っていたのは、ヴェズルに体当たりされて吹き飛ばされる黒いローブだった。
「教団のトップは投獄されたはず……とは言え、独断で貴方方がこんなところに来るとも思えませんね」
ディックは碧を抱きすくめたまま、十字槍を黒衣へと向ける。舞い戻ってきたベリルがその穂先に留まった。
「貴方方は、誰の命で、ここに何をしに来たのですか?」
木々のざわめきに混じるように静かな問いが投げかけられる。倒れている黒衣に意識がないことは明白だった。が、追い立てるようにベリルが甲高く鳴けば、押し殺したような悲鳴が幾つか上がる。
が、勇気を振り絞って彼らは並木の影から姿を現した。がたがたと震える指先をディックへと向ける。
「貴様ら魔族になどわかるものか! 我々の崇高な使命は既に成されたのだ!!」
ディックの脳裏に疑問符が過る。が、それを深く考える間もないままに、黒衣の男は両腕を広げて天を仰いだ。……彼らの救世主は空から舞い降りてくるからである。
彼は、その手に何かを握っていた。
「世界を汚す魔族を浄化せよ!!」
「我らは清浄なる世界の礎になるのだ!!」
唱和するかのように声が連なって木霊する。カチリ、と小さな小さな音が鳴った。
空気が、揺れた。視界の端でもうもうと煙が立ち昇る。風船のように丸く空を昇った煙は次の瞬間、爆音と共に弾け飛んだ。
揺れる地面に槍を突き刺して支えにし、ディックは碧をしっかりと抱き寄せる。碧も反射的にルーナを抱き締めていた。
森を埋め尽くすように流れてきた煙が視界を覆う。揺れは収まることなく断続的に何度も何度も繰り返した。その度に衝撃波のように空気を伝ってくる。
「くっ、一体何が……ッ!」
その答えを探すようにベリルが飛び立つ。地面に降りてきた雲のように漂う煙を突っ切り、天高く羽ばたいた。
――その深紅の瞳に映ったのは、どす赤い炎だった。大地の裂け目から吹き上がるように燃え上がり、周囲の森へと無作為にその舌を伸ばしている。
『ユーダの裂け目から炎が……このままだと森に燃え広がるぞ!』
「裂け目からっ、て……まさか……!」
ベリルの言葉を唯一受け取った碧の頭の中を最悪の想像がよぎった。それを裏付けるかのように狂信者は高らかに快活を叫ぶ。
「魔物に与する精霊は死んだ! 神が与えし、正しい力によって!!」
燃える森を背景にして、彼らは笑う。一対の冷めた瞳と、炎よりも強く見下ろして来る紅蓮を前にして。
「恵みの精霊よ、加護を受けし者に応え、天地を繋ぐ糸を降ろせ!!」
湧き上がる怒りを冷静に沈めたディックが言の葉を放つ。黒々と渦巻く重い雲が呼び寄せられ、炎を押さえつけるように天水が降る。
しかし、炎の勢いはあまりにも強すぎた。加えて火の粉は次々隣り合う木々へと伝染していく。文字通り焼け石に水だ。一帯の動物や魔物たちがモリオンを恐れて離れていたのが唯一幸いだった。
「このままでは……!」
「ベリル!」
ディックが歯噛みするその腕の中で、碧は両手を広げてヴェズルを呼ぶ。ディックが思わず見上げた空の上、黒い鷹はそこにはいなかった。
「え……?」
鉤爪がぴたりと空中で止まった――丁度、起爆スイッチを押した男の両目の数ミリ手前で。間抜けな声を上げた彼は、一瞬何が起きているかわからなかったのだろう。ぱちぱちと瞬きの度にまつ毛に鉤爪が触れている。
「う、うわぁあああああッ!!」
やっと状況を認識した脳が慌てて身体を動かそうとする。伝達が遅れた足がもつれ、尻もちを着いた。それを一瞥もせずにベリルはくるりと旋回して碧の元へと飛ぶ。広げられた両腕の中に納まって、一声鳴いた。
不満げなその声の意味を知るのは、碧だけだ。
「ごめんね、悔しいよね。でも、あの人たちなんかどうでもいいの」
そう言い放った碧の目にはもう、狂信者の姿は映ってはいなかった。
「そんなことよりも、炎を消したいから……力を貸して」
こくりと頷いたベリルが再び空へと舞い上がる。短い黒髪がふわり、風に遊ぶ。その額に、風の紋様が浮かび上がった。
閃光とともに空へ昇った黒い鷹が、大きく翼を広げる。
「流転の精霊の名において命ずる」
鳴き声が祝詞と交わる。祈るように組んだ両手の中で光が瞬く。垂れた頭の上で、風が渦を巻く。ディックが大きく目を見開いた。
「留まらないための力よ、無翼なるものを天空へ導け!」
吹き荒れる風が炎を巻き上げて天上へと向かう。ディックが呼び出した雨雲の内部へ舞い上がったそれは、瞬く間に温度を失って温い風を地面へと吹き下ろした。
木々から引き剥がされた炎の名残が、薄く煙を上げて風にたなびく。静かに舞い降りてきたヴェズルが碧の肩をしっかりと掴んだ。
「な、何故、魔法が使える!? 加護は消えた筈では……!」
『愚か者め』
がちがちと嘴が鳴る。怒りを静めるように艶やかなそれを撫でた碧は教団員の方へと目線を向けた。青く、晴天のように色を変えた双眸に、這いつくばる黒装束が映る。
柔らかく、温かく。空が三日月を象る。
「愛しているよ、ヒューマー……君たちがどこへ行こうと、僕たちは永遠に君たちを愛している」
だから、と碧の口が動く。シルフィードの声が慈しむように鼓膜を撫でる。
「さようなら。幸せにしてあげられなくて、ごめんね」
真っ直ぐと手のひらが教団員に向けられる。柔らかな風が吹いた。
どうせ忘れてしまうのだろうけど、伝えておきたいの。




