61 秘めやかな残り時間
ちかちかと視界の中で星が瞬く。すがめていた目を開いたエドワードたちはいつの間にか王都の中心にある噴水に戻ってきていた。沈黙が漂う中、最初に口を開いたのはスペイスだった。
「最後に貴重な体験をさせてもらった……礼を言う」
頭は下げずにそれだけ言い放つと、スペイスは踵を返した。その肩を、幼い声が叩く。
「これから、どうするの?」
「さて……どうしようか」
足を止めて答えるともなく呟く。ウンディーネとの契約は為された。他の精霊たちがどうなっているのかは知らないが、この調子なら世界が二つに分かたれる日はそう遠くはないのだろう。己の魂も、肉体も、全てなかったことになるその日は。
「この情報は秘匿されることになるだろう。民衆に伝えては暴動が起こる……残り少ない時間で魔物やデミヒューマーに矛先を向ける者も出てくるかもしれない」
ふ、と言葉を切った魔法使いが皮肉気に笑みを浮かべた。天上にある月と遠く光る星を何の意味もなく見上げる。領域に入ってからそう時間は経っていないのだろう。変わらず辺りに人気はない。
視線を戻したスペイスはぐるりと町の灯を見回した。そうしてぽつりと言葉をこぼす。
「何も知らないまま消えるのだ、彼らは」
ぎゅ、と小さな拳が強く握られた。それを目の端に捉えたのだろう、スペイスは小さく首を横に振る。
「あぁ、すまない。その、恨み言を言うつもりはなかった……心配せずとも彼らにとっては幸福なことだ」
ずっとヒューマーだけの世界を望んでいた。彼らの願いは彼らの知れぬところで叶えられる。無垢となってその幸福を享受することが出来るのだ。文句をいうヒューマーはそう多くもないだろう。
「ただ、私は知ってしまったから……加担、してしまったから。どうすればいいのかわからない」
諦念と、ほんの少しの恐怖が混じった湿った声だった。何かを払うように頭を振ったスペイスは止めていた足を再び動かす。
桜色の小さな唇が、はくりと息を吐いた。
「――元気で、ね」
絞り出した声に、ひらりと上がった手が振られる。うつむいた頭に植わる艶やかな黒髪が、大きな手のひらでかき混ぜられた。
王宮へと戻ったスペイスは事の次第を己の王へと報告した。とは言え、それで何かが変わることはない。彼らは残された時間をただ過ごすしかないのだ。
どこか悲し気に微笑んだジェイドはスペイスに休むようにと命を伝えた。頭を下げてそれを受け取り、彼は王の執務室を後にする。
「スペイス?」
耳馴染んだ声に名を呼ばれ、ふと顔を上げる。あてどもなく歩いていたはずが、いつの間にか騎士の宿舎に辿り着いていたらしい。見張りをしていた騎士の一人がスペイスの顔を不思議そうにのぞき込んでいた。
「また夜更かしか? 本当にお前は勉強熱心だな」
彼と同じ色の髪を揺らして、騎士がくすくすと笑う。スペイスは小さく兄上、と呟いた。だが、それ以上言葉は続かない。
この騎士は名をジュダスといい、スペイスの実の兄であった。魔法の才を持たなかった彼は王国の騎士団に所属し、その末端で働いている。
魔法の、それも国随一の才を持つ弟と何かと比べられるが、それを誇りとする程度にはおおらかな男だった。――そんな物腰柔らかな男ですら、魔物狩りに参加したことがある。
「兄上……」
「ん? どうし――っと」
不意にゆらりと傾いてきた身体をがっしりとした腕が受け止める。いよいよ首を傾げたジュダスに、スペイスはただ縋りついた。
眠いのか、と検討違いの事を聞く兄に何もかも面倒になった。己と違ってたくましい胸板に顔を埋めたままこくりと頷く。
消えるのだ、この体温も。忘れるのだ、血を分けた兄弟の事すら。
反射で握り締めた手の中でジュダスの隊服に縫い付けられているノアの国章がくしゃりと歪む。彼らの護ってきたものも、誇りも何もかも、もはや意味のないものだった。
「なんだ、今日は随分甘えただな」
グローブを嵌めた手がスペイスの髪を柔らかく梳いた。からかうようなトーンに黙ったままでいると、更に小さな笑い声が降ってくる。
「明日は一日休みだから、一緒に飯行こうか。久しぶりに下町で店探すのもいいなぁ」
何の気なしに呟かれた未来にスペイスは一瞬身体を硬くした。幸いジュダスはそれに気づかず、撫でていた後頭部をぽんぽんと叩く。
「今日はもう寝な……また、明日な」
はくりと動いた唇が音にならない息を吐いた。身体を離したスペイスは、何とか顔を笑みの形に変える。
「うん、兄さん……また、明日」
さて、明日はまだ来るだろうか。
スペイスは、その日を境に眠るのが酷く怖くなってしまった。
◆◆◆◆◆
次の日。ジェイドは自分の執務室から王都を見下ろしていた。先だってのケルピーと騎士の件は殊の外広まっているらしく、噴水の近くが特にざわついている。
――王都に魔物が
――騎士様が殺されたって聞いたけど
風に乗って運ばれてくる噂話とグランの報告は概ね同じで、ジェイドは深くため息を吐いた。グランも険しい顔で窓の外を眺めている。
これでまたジェイドの父、ガリオンの方へと世論は傾くだろう。ジェイドには風当たりの厳しい国になってしまうかもしれない。
それがどうした、とぼんやりと思ってしまう。ヒューマーには既に残り時間が設定された。後どのくらいかはわからないが、確かに時計の針は回っているのだ。
「全部、放り出してしまおうか」
独り言のつもりはなかったが、返事はなかった。傍らに立つ彫像のような身体は窓の外を見つめたままだ。ちらりとそちらを見やったジェイドは彼の視線の先を辿る。鳥が天高く飛んでいった。
「国を出て、旅でもしてみようか……どこまでいけるか、わからないけど」
「……本当に、そう望まれるのでしたらお供いたします」
ふふ、と肯定とも否定ともつかない笑いが零れた。
「そうだね……もう少し徳を積んでおこうか」
ほんの少しでも、彼らに報いよう。
そう言って大きく伸びをしたジェイドに、グランは重々しく頷いた。
まだ、戦える。出来ることはある――そう、信じていたかった。
2021年最後の更新です。
皆さまよいお年を。




