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【完結】せめて異世界では普通になりたかった  作者: 四片紫莉
第3章 三つ巴の物語

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59 恵みの精霊

 ごぼッ、と吐いた息が目の前に立ち昇る。スペイスは思わす口元を押さえたが、直ぐに苦しくないことに気付いた。彼の呼気を証明するようにこぽこぽと泡が立つ。


「ここ、は……?」


 声も出せるようだ。呆然と座り込んだまま、辺りを見回す。


「もう、ウンディーネの領域だよ。しっかりしてよね」

「あ、あぁ……」


 平然としているナツナに引っ張り起こされ、スペイスはゆっくりと立ち上がった。身体が重いような軽いような不思議な心地だ。踏み出す足もふわふわとぎこちない。


『こっちだよ』


 先導するグレイが魚の尾を揺らす。ゆらりと水が動いてきらきらと光を反射した。スノードームの内側はこんな具合なのだろうか。歩く度舞い上がる足元の砂すら、うっすらと発光しているように感じる。

 どこまでも未知の世界に、スペイスは夢見心地だった。ヒューマーが決して到達し得ない次元。精霊に愛された魔物とデミヒューマーを伴ってしか、辿り着けない場所。


「……何か聞こえないか?」


 不意にエドワードが足を止めた。ナツナも小さく頷く。その頭に乗っていたベティも長い耳をぴくぴくと動かしていた。スペイスにも聞こえていたのだろう、緊張した面持ちが少しだけ和らいだ。


「歌、か?」


 水が満ちた空間に朗々と響いていたのは歌だった。不思議な言葉で紡がれるそれはあまりにも美しく、3人は暫し足を止めて聞き入っていた。グレイも心地よさそうに目を閉じている。


「この歌……!」


 はっとしたようにエドワードが目を見開く。そうして郷愁に目を細め、ゆっくりと口を開いた。


「エディさん?」


 ナツナが疑問を投げる前に、薄い唇から音が紡ぎ出された。高く、高く、どこまでも伸びていきそうな軽やかな声。それは、先に聞こえていた歌と絡み合い、水が混ざるように溶け合った。


『グレイの子守唄だ……』


 ぽつりと脳に滑り込んできた言葉にナツナがそちらに顔を向ける。が、グレイの視線はエドワードだけに注がれていた。


『時々ねだって歌ってもらったんだ……大昔の言葉だから、ボクも意味はわからないけど』

「……恐ろしいモノも、悲しいモノも、遥か海の底には届かない」


 大きく見開かれたアメジストがヒューマーに向けられる。びくりと肩を揺らしたスペイスは誤魔化すように咳払いを1つすると、居住まいを正した。


「魔法研究の一環で、古代語を調べたことがあった。私が見つけたのはこの一節だけだったが……まさか、ただの子守唄だったとは」


 てっきり防衛魔法の一種かと思っていた。そう言い添えたスペイスはこぽりと息を吐いた。


「『だから安心しておやすみ、私の可愛いこ』か……こんなにも美しい、ただの歌だったのだな」


 高く、細い音が最後の一音を震わせる。余韻が糸のように伸びていき、ぷつりと途切れた。


「あぁ、やはり貴方だったのですね……あいの子」


 不意に透き通った声がそう言った。漂う光が渦を巻き、水を吸い込んでいく。不思議と渦に吸い寄せられるようなことはなく、泡を抱いたうずしおがぱちんと弾けた。


――白い岩に腰かけていたのは、世にも美しい人魚だった。真珠を溶かしこんだような髪をうずしおの余韻に遊ばせ、海の底と同じ色をした群青の瞳を瞬いている。流線形を描いて二又に分かれた下半身は光の加減によって虹色に輝く鱗に覆われていた。薄青い布によって隠された豊かな胸の少し上、鎖骨の辺りに水の紋様が描かれている。


 誰もが言葉を失いその美貌に見惚れる中、グレイがすい、と前に出た。人魚――ウンディーネが迎え入れるように手を伸ばす。深く垂れた頭が白魚のようなその手に触れた。グレイは心地よさそうに目を細めてくるる、と小さく鳴いた。


「案内ご苦労様です。要らぬ世話をかけましたね……」


 ゆらりと尾を揺らしたグレイが頬を擦り寄せるように首を振る。もう一度だけすりっと頬擦りすると、グレイはウンディーネから少しだけ離れた。エドワードたちへと向き直った美しい人魚が、彼らへと微笑みかける。


「初めまして、皆さま。ここに来た理由はユグドラシルより伺っております」


 エドワードが開きかけていた口を一旦閉じた。伏せられた藍色の瞳に、長い睫毛が影を落とす。


「あの時のことはよく覚えています。まさか、私たちとの繋がりがあんなことに使われるなんて……」


 悲しみを抱いた美しい精霊が遠くへと視線を投げる。真白の、長くしなやかな身体が削り盗られたその瞬間――世界が、大蛇が上げた悲鳴が、今でも耳の奥にこびりついているような気がしてならない。


「私たちは世界が、ユグドラシルが愛おしいのです。故に、二度と同じことを繰り返させてはならない……」


 深い色の瞳が瞼に隠される。もう一度姿を現したそれは強く、凛とした光を宿していた。


「見極めさせていただきます――貴方たちが、世界と繋がるに相応しいかどうかを」


 ざわりと産毛が逆立つのを感じた。海は、水は、決して穏やかなだけではないのだと。つい先ほどにも知ったはずの事実に、スペイスの身体は恐怖する。

 浮かび上がるように立ち上がったウンディーネがしなやかな両腕を広げた。その腕の中で水が泡立ちながら渦を巻く。


「水の魔法は恵みの力――故に私が求めるのは、奪わないこと」


 ぱちん、と渦が弾ける。泡の中から姿を現わしたのは、一匹の魚だった。ウンディーネと同じ虹色の鱗を纏った手のひらほどの小さな魚。ウンディーネの周りを踊るように泳ぎ回っている。


()を捕まえてください……決して、傷つけてはなりませんよ?」


 彼女が言うが早いか、虹色の魚は尾びれで水を蹴った。エドワードたちに余波を寄こすほどの勢いで、みるみる遠ざかっていく。時折からかうようにくるくるとその場で回って見せている。

 ウンディーネはいつの間にか姿を消していた。


「……で、どうする?」


 魚から目を離さないままにエドワードはそう言った。自由の利かない水の中で闇雲に追い回すなどという策は端からない。


「水中で比較的自由に動けるのはエドさんとグレイくらいじゃないかな。ボクやスペイスさんの魔法は水の中じゃ、あんまり使えないからね」

「なら、俺とグレイで追い込みかけるか……つっても傷つけないように、だっけ?」


 きっついな、と呟いたエドワードにナツナがこくりと頷く。あんなに小さな魚なのだ。うっかり握り締めてしまうだけでも危ないだろう。


「スペイスさんはなんかないの?」


 唐突にそう問われたスペイスが微かに肩を揺らした。誤魔化すように一つ咳をすると、魚に視線を向ける。


「そう、だな……むやみに追い回しても意味はないだろう、とは思う。精霊の課す試練だ、何か意味があるのではないか?」

「サラマンダーのとこはシンプルに殴り合いだったらしいけどね――ま、決着は力じゃなかったけど」

「今回もそうだってことか?」


 可能性の話だ、と言い添えたスペイスがナツナに視線を移す。それを受けたナツナがきょとりと瞳を丸める。


「後は、領域に入る鍵が覚醒者とヒューマーであることも少々気にかかる……例の魔法使いの件もあるなら尚更だ」


 馬鹿な話と思うだろうが、とスペイスが一つ前置きをする。そうして迷う唇をこじ開けて2人をぐるりと見回した。


「一つ、私に協力してもらえないだろうか……その、可能ならばケルピーたちも共に」


 しかめっ面だった黒馬が綺麗なアメジストをくるりと丸めた。

次回、追いかけっこ開幕

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