57 憤怒と諦念
「やめろ、グレイ!」
地響きが声を掻き消していた。元より沸騰した頭に届いていたかどうかもわからない。グレイはエドワードに応えることなく地面から立ち上がった鞭を振るった。魔力によって圧縮された水流が蛇のようにしなる。
轟音が鳴り渡り、風が駆け抜ける。エドワードは咄嗟にナツナを庇い、地面に伏せた。粉々になって舞い上がった石畳の破片が彼らの背中にぱらぱらと降る。幸いにも血の臭いはしていない。立ち込めた砂煙を風で払い、エドワードは息を飲んだ。
一瞬前までバイパーの頭があった位置に抉られたような深い溝が出来ていた。魔物とヒューマーの間に横たわったそれは、グレイの本気を示している。
身体の反応に脳がついていけていなかったのか、バイパーは薄く口を開けて、目の前に出現した堀を見つめていた。が、直ぐに我に返りその場から更に後ろへと下がる。
『意味ないのにね、逃げたって』
先と同じ氷のような幼い声がバイパーを嘲笑った。それが目の前の黒馬の声だと、否応なしに理解するしかなかった。人語を介す魔物がいるという衝撃を感じる間もなく、生存本能が身を屈めるようにと身体に命令を下す。
「――くッ!」
冷たい空気が後頭部を鋭く撫でて通り過ぎていった。間髪入れずに空振りした水の蛇が舞い戻ってくる。バイパーは廃屋の窓を巻き込みながら、身をかわした。
割れたガラスが廃屋に転がり込んだバイパーに降り注ぐ。命の危機を察した心臓が鼓動を増していた。崩れかけた壁に背を預けて深呼吸しようとするが、浅い呼吸にしかならない。
「は、……くそッ」
バイパーはその実力から分隊長にまで昇りつめた男だった。まだ若いが、魔物狩りに参加し、彼らと相対したことは数えきれない。それでも――これほどの恐怖を感じたことは今まで一度たりともなかったのだ。魔物はいつだって、騎士や魔法使いから逃げまどっていただけなのだから。
彼らは知らないが、魔物は元々ヒューマーの助けとなるために産まれてきた。長い長い間虐げられていても、幾度となく傷つけられてもヒューマーを傷つけてはならないと、本能の深い部分に刻み込まれている。
そのリミッターを他でもないヒューマーの手によって外された魔物が、今目の前にいるケルピーなのだ。古き友人の息子、名をくれた主人――バイパーにとっては憎き魔族にすぎないその人を幾度も傷つけられ、怒れる黒馬。バイパーが初めて対峙する、敵意を抱いた魔物。
『意味ないって言ってるでしょ』
声と共にぽたりと目の前に水が滴った。思わず上げた視線の先で、天井が軋みを上げてたわむ。重いものに押しつぶされるように。
「……ッ!」
咄嗟に前へ転がる。木々の破片を巻き込んだ濁流が頭上から押し寄せ、床を抉った。体勢を整える間など与えられるはずもなく、弾けた水流に押し流される。近くにあった柱に叩きつけられてそれを破壊し、奥の壁にぶち当たっても水は引かない。穴だらけの廃屋の中に水が満ちていく。
「がッ……ぐ、ぅ」
水の流れに翻弄され、まともに身動きが出来ない。口元ぎりぎりで波が立つ度に水が肺に迷い込みそうになる。明確に突きつけられる死から逃れるすべがない。
――水は、生命維持には必要不可欠なものだ。しかし、同時に容易く命を奪うものでもある。高圧にして放てば鉄板にすら穴を空け、空気の代わりに肺に詰め込めば窒息する。
グレイほどの魔力があれば、この場で王都を濁流に沈めてしまうことすら簡単にできる。多くのヒューマーの命を奪い、長い歴史を紡いできたこの国を、容易く終わらせることが出来る。
「グレイ頼む、やめてくれ!」
張り上げられた声も濁流に呑まれて届かない。エドワードたちはグレイの放出する魔力に気圧され、近寄ることすらできずにいた。
「グレイ!」
グレイは振り向きもしない。赤みの強くなったアメジストでヒューマーを睨みつけている。
「このままじゃ、殺しちゃうよ!」
ベティを強く抱きしめたナツナの瞳が揺れる。彼の激情に小さな友人が引きずられないか不安だった。何せ、ビーストテイマーである碧の望みを振り切るほどの怒りなのだ。ましてやケルピーは高位の魔物。ジャッカロープとは加護を授けた精霊が違うとはいえ、下位の魔物を従えるだけの圧倒的強さを持っている。
「クソ……ッ」
エドワードは風を巻き起こして空高く舞い上がった。塞がっていない傷から滴った血液が眼下の濁流に溶ける。深く息を吸って魔力を引き出し、力強く言霊に乗せた。
「流転の精霊よ、加護を受けし者に応え、無翼なるものを天空へ導け!」
渦を巻く魔力が濁流を引きずり上げていく。竜巻が水を抱き、遥か上空へと導く。雲の上で爆ぜたそれは、細かい霧となって辺りに舞い散った。霞を風で掻き分け、エドワードは怒れる黒馬を真っ直ぐと見つめる。
「グレイ、もうやめろ」
『どいてよ、こんなんじゃ全然足りない……!』
いなないたグレイの前に無数の水球が浮かび上がる。その内の1つでも頭に被せてしまえば、後ろで憐れなほど咳き込んでいるヒューマーの命は絶たれるのだろう。
彼の生死そのものはどうでもいいのだ。だから、エドワードは苦しむバイパーを振り向きもしないし、助けることもない。ただ、グレイと向き合っていた。温度の違う拳を握り締め、腹の底から吠える。
「親父の……親父の魔法は、そんなんじゃなかっただろ!!」
アメジストに澄んだ水面が映った。脳裏に過ったのは、同じ色を持った古い友人。湿った土の匂い、雨上がりの空の匂いが記憶から呼び起こされる。
『グレイ、の魔法……』
キラキラと光を反射して輝く水球。弾けた飛沫の中に見えた虹。冷たくて柔らかい水のクッション――彼はそんな楽しくて優しい魔法だけを教えてくれた。
優しい魔法の持ち主は、優しいエルフだった。言葉を交わすことも出来なかったケルピーを慈しみ、話をしてくれた。己を嫌うヒューマーと恋に落ちて、命を繋いだ美しいエルフ。
ケルピーだったころに会うことはついぞ叶わなかったが、彼が愛したものは優しいものなのだと信じていた――信じていたかった。
エドワードとジェレミーのように。ジェレミーとチビのように。いつか異質が受け入れられ、日常になる日が来るのだろうと期待して待っていた……待って、いたかった。
ぽつり、と。魔力を持たない水滴が濁った水面に落ちて混ざる。ぎりりと食い締めた歯が音を立てた。が、それは直ぐに解かれ、浮いていた水球が空気へと溶けるように消える。
「グレイ……」
その息子によって与えられた名に、ケルピーは俯く。臓腑を焼くほどの炎は当然治まってはいない。それでもケルピーは際限なく放出していた魔力をふつりと途切れさせた。それを体感で知ったエドワードはグレイに歩み寄るとわしゃわしゃと鬣を撫でまわしてやった。
「ん、ゴメンな。我慢ばっかりさせて……」
『……エドのせいじゃない』
未だ燻るアメジストがエドワードの肩越しに石畳に転がるヒューマーに突き刺さる。とうに意識を失っているのだろう、彼はぴくりとも動かなかった。その視線を遮るように頬を包んだ掌がグレイの顔を下向かせる。
「ビーストテイマーの件、どうだ? ……まだ、やれるか?」
『……ヤダ』
そうか、とエドワードが小さく応え、軽く指を鳴らした。途端に風が巻き起こり、2人のデミヒューマーと2匹の魔物を宙へと舞い上がらせた。一拍遅れて喧騒が駆け寄って来る――船を模した紋章を身に付けた騎士たちだ。街外れの廃屋とは言え、派手にやりすぎたようだ。
ナツナが静かに陽炎の魔法を唱える。2人と2匹の姿が風景に溶けるように掻き消えた。上昇を続ける彼らの眼下には燦々たる光景が広がっていた。
元々ぼろ屋とは言え建物だったものは瓦礫と化していた。それも水流によって押し流され、あちらこちらへと細かく散らされている。粉々に割れた石畳の上に倒れていたバイパーを別の騎士が揺り起こすのを尻目に、エドワードたちはその場を去って行った。
ここまで来たら諦めるしかないですね。




