40 呪いの果てに
※グロ注意
途切れた声を繋ぐように、ごぼりと水音が鳴る。呼吸の度に息と血が溢れだしていく。
「な、ん……」
ゴーシュがやっとのことで紡いだ言葉を遮るように、弾丸が空を切る。パシュッと空気の抜けるような音を立てて打ち出されたそれは肉に穴を空け、血を抜いていくのだ。腕と脚を撃ち抜かれ、ゴーシュは床を揺らしながら倒れ込む。
「ぁぐ……ッ」
悲鳴は上がらない。声帯を震わせるはずの息が風穴から漏れていってしまうからだ。辛うじて弱々しい声を絞り出したところで、与えられるのは肉を抉る水の弾丸だけだった。
「ひッ……!」
呆然と佇んでいたソラノが息を詰めたのを聞き、ラビはそちらを見もせずに人差し指を彼女に向けた。一瞬にして凝縮した水滴はサッカーボールほどの大きさとなり、そのまま真っ直ぐに飛来する。
「きゃ――がぼッ……!」
上がりかけた悲鳴は敢え無く溺れた。ソラノは首を振りたくり、喉を掻きむしりながら頭を覆う水球から逃れようとするが、道徳心を怒りに融かしたラビがそれを許すことはない。くい、とラビが指先を動かせば、浮かぶ水球に連動するようにソラノの足が床から離れていった。
「アンタはさ……」
不意に魔法使いが囁く。ごり、と伏した頭を踏みにじりながら、ラビはゴーシュの顔を覗き込んだ。ひゅうひゅうと息を漏らしながらも辛うじて命を繋いでいる。
「コイツの事好きなんだよね」
ぼんやりとした問いに、ゴーシュは答えない。喉に空いた穴のせいもあるが、今のラビは2人の生殺与奪を握っているのだ。下手に口は開けなかった。
「……好きじゃないの?」
「ぐ、ぁ……ッ」
脇腹を水の弾丸が抉る。色を間違えた小さな噴水のように、勢いよく血が湧き出した。
「好きなんだよね?」
ゴーシュはこくこくと頷いた。惚れているのは本当なのだ。ふぅん、と無理矢理口を割らせたにしては興味なさそうに相槌を打つラビ。彼は再び指先を動かすと、水球からソラノの鼻先だけを解放した。
「死んでほしくない?」
微かに頭が上下する。ふぅん、とラビの声が微かに弾んだ。どこか嬉しそうな、そんな声音だった。
「じゃあ、見ててね」
ラビが片手を掲げる。その手のひらに拳ほどの水球を作り出すと、それは瞬く間に無数の小さな弾に分かれてラビの周りを飛び回り始めた。
「好きな人が死ぬところ」
死神が愉悦に笑った。空中でピン留めされたようにぶら下がっていたソラノ目掛けて、無数の弾丸が飛来する。無色透明の弾を染め上げ、壁や床に雑な水玉模様を描きながら、赤い間欠泉が無数に噴き出した。
ソラノは文字通り泡を吐きながら、一瞬だけ痙攣してそのままピクリとも動かなくなる。ラビはそれをゴミでも放るかのように床に投げ捨てる。そうして母親そっくりの赤みがかった桃色の瞳でゴーシュを見下ろした。
「……ちゃんと見てた?」
ラビはゴーシュの頭から足を下ろした。特に返事を待つこともせずにラビは水の蛇を作り出すと、ゴーシュの身体を無理矢理に立たせる。
「魔物やデミヒューマーを殺してもいいなら、ヒューマーだって殺していいよね?」
そう言うと再び手のひらサイズの水球を生み出した。手足を投げ出していたマリオネットの顔が引き攣る。が、その顔が溶けるように歪んだ。
「……まえ、は」
微かな声が弾が飛び回る音に紛れる。耳障りなノイズにしかなり得ないそれを消し去ろうと、ラビは真っ直ぐに手を伸ばす。
宙を踊る弾丸がその身体を蜂の巣にする直前、ゴーシュはラビに呪いを吐いた。
「――おれ、の子……だな」
その言葉は、血しぶきと共にラビの心臓に染み付いた。
その後ラビは新しく使えるようになった水魔法を駆使して部屋を清掃すると、2人の死体を人気のない路地へ捨てた。
家族の死体は簡単な墓標を作ってアパートの庭に埋葬した。木の棒を組んで作った十字架と、彼の形見として残った宝石が盛り上がった土の上に乗せられているだけの簡素なものだ。
「……クル」
そっと呼ぶ声にいつもの愛らしい鳴き声は返らない。現実を押し付けてくる十字架と小さな宝石に、ラビの目の前が歪んだ。ぽつりぽつりと亡骸を覆った土に水が染み込む。握り拳と額を土に汚しながら、ラビは静かに泣いていた。
――そんな彼の頭を撫でるものが現れる。不思議に思い、顔を上げれば濡れた頬を拭う小さな小さな手があった。キラキラとした黒曜が、ラビの顔を覗き込んでいた。
「クル……?」
きゅ、と小さな声が返る。ぺたぺたと触れてくる手に温度はない。驚いて止まってしまった涙の名残が、小さな獣の頭に落ちた。途端、溶けるようにクルの頭がへこんだ。が、瞬く間に元の姿を取り戻す。
「あ……土人形……?」
己の墓の上で両手を広げるクルは、ラビの魔法だった。ラビはあまりにも精霊に愛されていたのだ。無意識の願いと覚醒した魔力が混ざり、あまりにも精巧なクルの人形を創り上げてしまった。
そしてそれは、ラビに喪失感を突き付ける結果にもなった。
「……ごめん、ね……っごめん」
ラビが零す涙を拭おうすると小さな指先が、水滴に触れる度に崩れ落ちては再生する。自分の涙すら、クルを傷つけている気がして苦しかった。涙を落とさないようにと両手で顔を覆っても、優しい幻覚は気遣うように小さな手でラビの手をぺちぺちと叩いてくる。
どうして、こんなことになったのだろう。ひび割れた精神が、ゴーシュの最期の言葉を繰り返しラビの耳の奥に反射させる。
アイツらから産まれたのが、全ての始まりだったのだろうか。この世に生まれ落ちたその瞬間から、こうなることは決まっていたのだろうか。
「う、あぁ……ぁああ……!」
己の生を呪うしかなかった。体の中に流れる血を一滴残らず絞り出してしまいたかった。心臓を引きずり出して踏みにじってやりたかった。
それでも死ぬわけにはいかない。ラビは子供たちを護らならなければならないのだ。
――あぁ、そうだ。護るために仕方のないことだったんだ、これは。アイツらはいずれ子供たちを傷つけていただろう。いや、アイツらだけじゃない、この街にはそんな危険な化物がうじゃうじゃいるんだ。
歪んだパズルのピースを無理矢理押し込むように、思考が組み立てられていく。それはきっと、幼い精神を護るために必要な自己暗示だったのだろう。
元より、肉親を殺したことに対する罪悪感はなかった。彼らは死ぬべきだ。誰かが殺すべきだった――それが、自分だっただけのことなのだ。
戻れないのなら、進むしかない。誰も引き止めてくれなかったラビはただただ前に歩くしかなかった。ラビは護るためだと己に言い聞かせ、子供たちに害をなした第一世代を殺し始める。子供たちの為なのだと、この街の為に必要なことなのだと。それを誰かに分かって欲しかったが故に『代行者』を名乗り、罪の意識を薄めていた。
だが、積み重ねられていった歪みはやがてラビの足元を揺らがせる。それでも外からの支えはない。崩れていく道にしがみつくために、大義が必要だった。そうしてラビは夢を見るようになる。
ギムレーの金網が取り払われ、デミヒューマーと魔物、ヒューマーが共に生きる世界。その世界に、増え続ける第一世代は邪魔だった。
――1人残らずいなくなればいい。そんな考えに取りつかれるのは必然だった。
◆◆◆◆◆
「……ラビ?」
遠慮がちに名を呼ばれ、ラビは現実へと戻ってくる。一瞬にして脳裏を巡った過去に、再燃した怒りが耳の奥で鼓動に似た音を立てた。
「大丈――」
「クルは、死んだんだ」
言葉にすれば熱いものが胸に込み上げる。冷たい宝石を握り締めて、ラビは口を開いた。
「殺されたんだ、だから殺した」
「え……?」
焦点を失った瞳に戸惑いを浮かべた碧が映り込む。ラビは衝動的に手を伸ばした。そのまま碧を抱きすくめ、肩に頭を預けながら耳元で声を紡ぐ。
「家族だったんだ、唯一の。それをアイツらが殺したんだ。だから殺したんだ」
それは要領を得ない言葉の羅列だった。殺された、殺したと仕切りにそう繰り返すラビに、碧の中で疑惑が鎌首をもたげ始める。彼は動転しているのかもしれない、と心の片隅が囁く。しかし、ラビが握り締める赤い涙が疑いを色濃くしていく。
「要らないんだ、あんな奴ら。この世界に。皆そう思ってるはずなんだ」
自身を正当化したいが為に定めた理由。それでもラビはそう信じるしかない。他に何もないのだ。澱んだ精神と、汚泥のような身体の他に、何一つ持っていなかった。
「僕がやらなきゃ。こんなこと他の誰にもやらせたくない。だって僕はアイツの息子なんだから」
生まれたときからアイツらを殺すことは決まっていたのだ。それなら、2人も5人も10人も変わらない。どれ程の血しぶきを浴びたところで、同じ赤なら変わらない。汚れるのが自分だけなら、ラビの世界は綺麗でいられる。
「殺さなきゃ。いなくなるべきなんだ。あんな奴ら」
ラビは碧に縋り、喘ぐように息を絞り出す。握り締めた手のひらと、掻き抱いた腕に力を込める。放した瞬間に底なし沼に落ちていくのだろうとそう思っていた。気づきたくないのだ。肯定して欲しいのだ。このままでいいのだと。自分が正しいのだと。
不意にラビの頭に腕が回される。反対の手でぽんぽんと背中を緩く叩かれ、ラビは目を見開いた。碧は何も言わない。ただぐずる子供を寝かしつけるように、頭を撫でて背中をさすった。ただ、それだけのこと、なのに。
「……ッ、ぅ」
じわりと目の奥が熱くなった。母親から、父親から、終ぞ与えられる事はなかった体温だった。喉元で凝り固まっていた何かが、質量を増して息が詰まる。
「頑張ったね」
独り言のようにぽつりと落ちた言葉に、ラビはびくりと肩を揺らした。
それはきっと、正しい道ではなかっただろう。それでもたかだか10数歳の子供が、これほどまでに歪むような何かに押しつぶされながら、ここまで歩いてきたのなら。
「もう、疲れたでしょ?」
疲れただろう。苦しかっただろう。前へ前へと身体だけを引きずって進むのは、辛かっただろう。
「もう、いいんだよ」
じんわりと肩口が湿っていくのを感じながら、碧はラビの髪を撫でる。碧にはラビの身に起きた不幸を知ることも、彼が抱える激情を受け止めることも出来ない。それでも、思ったことを伝える事は出来た。
「やりたくないなら、いいんだよ」
誰が決めたことでもないのなら、投げ出してしまっていいのだ。進みたくないのなら、戻ってしまっていいのだ。戻れないのなら、立ち止まってしまっていいのだ。嫌なことを嫌だと言ってよかったのだ。苦しいと、辛いと、言ってよかったのだ。
碧もついさっき、そう教えてもらった。誰もラビには教えてくれなかったのだろう。彼が正義感や責任感の強い子供だったことも一つの理由だったのかもしれない。
「帰ろう――待ってるから」
ラビが弾かれるように顔を上げた。呆然と濡れた瞳を見つめ返して、碧を耳をすませる。その声はずっとラビを呼んでいた。
そうしたかった訳じゃないんです。他に方法が無いと思っていただけ。
そうするしかないと、そうすべきだと思っていただけ。




