30 外れた箍と必要な枷
※グロ・拷問表現注意
ふんふんと鼻先が動いて辺りの匂いを嗅ぎまわる。やがてチビの目線は一点を捉えた。ウォン! と元気よく吠えたチビの耳の後ろを掻いてやれば甘えたように鼻を鳴らす。男は空いていた片手を、目の前のドアに伸ばした。
「はいはい、いらっしゃーい」
が、拳となった手がドアを叩くよりも早く向こうから開かれる。丸まったアクアマリンに人畜無害な笑みが映った。
「何してんの、入んなよ」
ノックの体勢のまま固まっていた男に、家主――バリーは背を向けた。男はチビと顔を合わせると、その背を静かに追う。
リビングへと直行したバリーは男に椅子を進め、自分はキッチンへと向かった。椅子に座って待っていると、チビが足元に身体を擦りつけてくる。最近慰められてばかりだ。
「おまたせしましたー」
軽い声音と共に戻ってきたバリーは片手にグラスとボトルを掲げていた。反対の手にはチーズとジャーキーの盛り合わせ。何とも言えない表情で眉をひそめる男をよそに陽気な声で告げる。
「飲もうよ」
バリーはテーブルの真ん中に皿を置くと、男と自分の手元にグラスを置いて赤ワインを注いだ。ジャーキーを1つ摘み上げてチビの鼻先にちらつかせるとぽいっと放る。勢いよく喰いついたのを見て笑うと、やっと席に着いた。
「聞きたいことと言いたいことどっちが先?」
「……言いたいことはそんなにないかな」
そ、と言ったバリーはチーズを摘み上げると口に放り込んだ。続けてワインで舌を湿らせると、笑顔のまま口を開く。
「僕ね、ヒューマーを殺したことがあるんだ」
明日は雨かもしれないね、とそんな世間話と同じトーンで告げられた事実に、男の目が僅かに揺れた。不穏な気配を察知したのか、チビの耳がピンと立つ。
「……それはついさっき?」
無意識に低くなる声。あからさまに疑われているというのに、バリーは気にした風もなく笑って見せる。
「ううん、10年以上前」
あっけらかんとそう答えたバリーはその当時の事を笑顔のまま語り始めた。それは今から17年前――当時バリーが6歳の頃の出来事だった。
◆◆◆◆◆
バリーは見た目の通り、大人しい子供だった。気の強い子にいじわるをされても困ったように笑って背を丸めるような小さな子供だった。
母親は身体が弱く、バリーを産んだ時に亡くなっている。そのため、父親であるディラスとの2人暮らしだ。
その日は午前中だけで学校が終わり、バリーは早々に家路に着いていた。大人たちが走り回っていて、何となく街全体が騒がしかったのを覚えている。
「おとーさん、ただいまー」
ドアを開ければ笑顔の父が迎えてくれる。それがいつもの事だった。ぱたんと閉じたドアの窓から入り込んだ光が玄関を照らしていた。父の笑顔はそこにはなかった。
「ナンだ、ガキがいたのかよ」
代わりに鼓膜を揺さぶったのは低く掠れた知らない声。鉄錆の臭いが鼻を掠め、バリーはその臭いの元を視線で辿った。
視界の片隅に捉えた、開きっぱなしのリビングの扉。とろとろと広がっていく赤い水たまり。そこに横たわった、バリーと同じ色の頭。ぴくりとも動かなかった。
「悪いな、僕ぅ。この家しばらく使わせてもらうぜ?」
大きな手のひらが頭を覆い、ぐりぐりと撫でまわした。バリーは固まっていた眼球を動かして声の主の顔を見る。そうして首を傾げた。
「チッ、せっかく収容所から逃げ出してきたってのによぉ。女はいねぇし、金目のモンもねぇし……外れだったな」
話している言語が聞き取れない。顔が見えない。これは何だろう、と見つめていると、不意にその塊は動いた。
「おい、聞いてんのか、ガキ。テメェも父ちゃんのとこ行くか? あ?」
床に広がったものと同じ赤色が滴る銀色の刃。それを振り上げた、ナニか、を。
「あぎゃああぁああああああッ!!」
――気づけば片手にぶら下げていた。
濃くなった鉄の臭いが鼻腔を満たして、とろとろと赤い水が身体の表面を撫でて流れ落ちていった。メキメキとこめかみから嫌な音が聞こえる。太くなった血管が鼓膜の近くで暴れ狂うのを感じる。
「あ」
ばつん、とシャツのボタンが弾けて転がっていった。速度を増した血流が身体中を巡る。その負荷に耐える為の身体が、急速に構築されていく。
肥大していく翼がシャツの背中を引き裂いた。広がった影が目の前で転げ回るものを覆いつくす。透明な水にまみれた顔がこちらを向いて引き攣った。
「ひ、ひッ……たすけ」
ひゅん、と空を切る音。骨と骨がぶつかる鈍い音がそれを追って、壁にぶち当たる。
――素手じゃダメだ。直ぐに殺しちゃう。
誰かがそう囁くのが聞こえていた。だから、バリーは片手にぶら下げたままだったものをこん棒のように使って殴りつけた。柔らかいそれで殴ったものは予想通り、わめきながらも息をしている。
「げほッ……はァ、ま、待ってくれ! 殺さないで――がはぁッ!!」
もう一度、同じように横薙ぎに殴りつける。廊下の向こうまで吹っ飛んで行ったので、バリーはのんびりと後を追った。
「あ˝ぁああああ˝あああッ!!」
目測を誤って投げ出されていた足を踏みつけてしまったらしい。小枝を踏んでしまった時と同じような感覚が走り、バリーは緩慢に足元を見下ろす。骨が皮膚を突き破ってしまったのだろう、鼓動と同じリズムで赤を吐き出しているのが見えた。
「はひゅ……ひゅ、……」
言葉を紡ぐ気力もなかったのだろう。が、唐突に静かになったのでバリーは独り首を傾げた。まだ死んでない筈なのに。
バリーはそれの直ぐ傍にしゃがみ込んだ。顔を覗き込もうと更に身体を畳む。ひゅ、と小さく息が聞こえた。と、同時にお腹の辺りにこつりと何かが当たる。
「……?」
「ひ、な、なんで……刃が、通らな……!」
ボロ布と化したシャツから覗く腹筋にナイフが突き立てられている。痛みはない。不思議に思っていると、きん、と小さな音が足元で鳴った。音の方を見やればナイフの切っ先が転がっている。バリーの腹筋に負けて根元から折れてしまったらしい。
「あっ……あぁッ、嫌だ! やめろ、放せぇ!」
バリーは黙ったまま、突き出されていた手首を握った。向こうは必死で引きはがそうとしているのか、ぶんぶんと首を振りながら腕を引いている。バリーはゆっくりと、力を込めた。
「いっ、が……ぎぃあああああああッ!!」
伸びた爪がじわじわと食い込み、肉が押しつぶされて、骨が砕けていく。その全てはバリーの指先での出来事だった。
「ぎ、いぃぃぃぃぃっ……! いぎゃっ、ぎゃあぁああああ!!」
バリーは何となく手首を掴んだまま立ち上がった。折れた足では支えられない体重が、萎びたように歪んだ手首にかかる。限界まで腕を伸ばせばとうとう足が床から離れた。耳鳴りが聞こえる。
――もういいかな。
誰かがそう呟いたので、バリーは終わりにすることにした。パッと手を放すと、ぐしゃりと落ちてその場に丸まる。
「はッ、はぁああ……」
這おうにも片腕をもがれ、残った腕も歪んでいる。片足は折れているし、無事だった足も落下の衝撃で力が入らない。せめて上半身を起こそうともがく頭に、衝撃が走った。
「がふッ!」
バリーは這いつくばっていた頭に足を乗せた。これから自分の身に――頭に、起こることを察したのか、ここを先途とばかりにもがき始める。が、バリーが決めたことが覆ることはない。
「あ、ぎ……ぐ、がぁああああ――あっ」
べきょ、と一際大きな音がして、インク袋は盛大に中身をぶちまけて動かなくなった。途端にバリーはそれに興味を失う。
ふらふらとディラスの元へと向かうと、ぽてんと倒れ込んだ。血だまりが音を立ててバリーの半身に染み込んでいく。音も温度もない胸に顔を擦り寄せると、バリーはそのまま目を閉じた。
そうして騒ぎを聞いて駆けつけた警備隊が、ディラスの傍らで眠っていたバリーを保護した。この後のバリーの記憶は酷く霞がかっていて、不明瞭だ。ただ、黒い服を着て、眠る父親の棺に花を添えたのだけを鮮明に覚えている。
因みにバリーが引き裂いた血袋はギムレーに来たばかりのヒューマーだった。輸送船から居住区へと移される際に隙をついて逃げ出し、ギムレーに潜んでいたらしい。その全てはバリーにとっては至極どうでもいい情報だった。
◆◆◆◆◆
「以上がバリーさんの昔話ですよ」
冗談めかしてそう締めくくると、バリーは空になっていたグラスにワインを注いだ。男のグラスの水位は最初の位置から動いていなかった。
「バハムーンの覚醒能力にさ、バーサクモードってのがあるのって知ってる?」
「……聞いたことは」
ヒューマーを除く全ての種族には固有の能力があるとされている。とは言え誰もがその能力に目覚めるというわけではない。能力開花には大きな切欠や一定以上の才能が必要となる。文字通り覚醒状態に近いのだろう。
バハムーンの覚醒能力がバリーの言う『バーサクモード』だ。身体の全てを戦闘の為だけに一時的に創り変える。肉体も血流も、翼や思考、その全てが戦う為だけのものになる。
「あの時に僕、能力開花してたんだよね」
話を聞いている内に男も何となくそれは予想していた。戦闘に特化した種族とは言え、凶器を持った犯罪者を6歳の子供が一方的に嬲り殺しにするのは無理だろう。だが、それもバーサクモードに覚醒していたのなら苦も無く納得できる話だ。
「ただ、覚醒が早すぎてね。僕はまだ小さかったから、身体に力が収まりきらなかった」
バリーはグラスを再び干すと手の中でくるくると回した。そうしてぽん、と投げ落としてしまう。え、と男が声を上げたが、グラスは床を一度だけ跳ねて横たわっただけだ。それを目で追っていたチビが飛びかかる。前脚で楽しそうにじゃれついていたが、亀裂が入る気配すらない。
「対生物相手だとまだ普通に出来るんだけどね」
バリーは立ち上がるとチビからグラスを取り返した。そうしてまた手の中で回す。
「お嬢がドワーフに頼んで作ってもらった特別製……この硬度じゃなきゃ、僕は水も飲めないんだ」
「まさか、10年以上ずっと……?」
「ん」
バリーはグラスを置くと、詰襟のボタンを1つ外した。そうしてくるりと後ろを向く。
「ずーっと、収まらないままなんだ」
バハムーンの首筋には鱗が3枚並んで生えている。先のバーサクモードに入るとこの鱗が逆立つのだ。そして赤紫色の鱗は、当然のように逆立っている。
「これが僕が怒っちゃいけない理由」
リミッターが振り切れたままの身体と思考。長い年月をかけて思考だけはなんとかコントロール下に置くことが出来た。が、もしまた手放してしまうようなことがあれば危険極まりない化け物の再誕だ。
「それでも自制するには限界がある。特に僕らみたいな人種はね」
振り返ったバリーは男を真っ直ぐに見つめている。男は微かに顎を引いた。
『エドワードが傷つけられる』という切欠を得てから徐々に自制が効かなくなってきているのは男自身、ひしひしと感じている現実だった。ミズガルドでは兵士相手に怒りをぶつけてしまったし、ニダウェではカルラに対して声を荒らげてしまっている。
「僕にはね、自制するよりも強い理由があるんだよ」
「理由……?」
言葉の意味を拾いかねてオウム返しに尋ねる。
「僕はね、カルラの命令しかきかないように決めてるんだよ」
走れと言われればどこまでも走るし、捕まえろと言われれば全身全霊をかけて殺さないように捕まえる。笑えと言われれば笑みを作るし、怒るなと言われれば怒らない――逆も然りだ。
「だから自分を律する必要がないんだ」
「……命令だから?」
バリーは頷くと袖のボタンを外し、シャツごとまくりあげた。手首には革の腕輪が嵌められている。よくよく見るとそれは手首に合わせて二重に巻かれた首輪だった。それを指先で撫でて、バリーは告げる。
「アクアさんにもさ、僕にとってのカルラに近い存在があるでしょ?」
男は小さな手に引き留められたことを思い出していた。なだめすかすように背中を叩かれたこと。華奢な身体に抱き締められたこと。次々と浮かんでくる。
そうしてその程度のことで腹の底がすぅっと冷えていったことも。
黙ったままの男を見つめ、バリーは肩をすくめて袖を戻した。
「まぁでもあの子はまだやめといた方が良いと思うな」
「うん。俺もそう思うよ」
バリーが微かに糸目を開いた。食い気味の返事を予想していなかったのだろう。男は緩く首を振った。
「あの子は普通のヒューマーだ。カルラみたいに強い人じゃない」
受け止めてくれる優しさは持っている。だが、受け止めきれる強さは、碧にはない。
「別にカルラも最初っから強い人だった訳じゃないけどね」
バリーの眉が少し上がっている。語調も強い。
「弱いままでいるのはどうかと思うよ――君も、あの子も」
どこか嘲るような言い方だった。がたんッと椅子が倒れて跳ねる。真珠とアクアマリンの視線が火花を散らしそうな勢いでかち合った。
「あの子は弱いままでいいんだ」
「ふぅん……そっか」
やはりどこか小馬鹿にしたような物言いで鼻を鳴らすと、バリーは男から視線をずらした。その目の先では後ろ脚で立ち上がったチビが男の足にじゃれついている。男がその頭を撫でると、チビは前脚を床に戻した。
「……あー、えっと、参考になったよ。ありがとう」
「ん。どういたしまして」
ヒリついていた空気を急速に霧散させると、男は倒れていた椅子を直した。バリーはというと何事もなかったかのように座り直してチーズをつまんでいる。
「じゃあ、おっさんはおいとまするね。お邪魔しました」
「はーい、また明日」
そうして男はチビを連れてバリ―の家を出ていった。
相性が良くないのは双方自覚しているので揉めないように気をつけてます。
でもバリーはおっさんの事が気に食わない。




