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告白  作者: 柘榴石
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後編

 大学からの帰宅途中 慧は冬の終わりと春の初めの入り交じった夜空を見上げた。


 白く浮かぶ月を見て高校の時、透花と付き合う前に一度だけ彼女と言葉を交わした事を思い出す。


 その日は文化祭の最終日で、締めくくりに秋の暗くなりかけた夜空に小さな花火が数発打ち上げられた。

 文化祭と言えば、学生の告白イベントの一つとも言えて、慧はその日も数名の女生徒から告白を受けていた。後夜祭が始まり、このままではまた誰かに声を掛けられるであろうちょとした煩わしさから人気のない教室に逃れたのだ。その教室……正確にはベランダに透花は佇んでいた。

 藍色の空の下、打ち上がる花火の音も光も届いていないかのように、彼女が見ていたのは月だった。

 月を見上げて、苦渋を滲ませる眉根と反対に口元はうっすら微笑んだ。静かに閉じた瞳から涙が一筋流れ、はぁと小さく息を吐いた後唇が「さよなら」と動く。

 人を衝動的に抱き締めたいと思ったのは初めてだった。

 勿論、その時そんな事はできずに彼女のスマホが着信のメロディを奏でるまでこちらも立ち竦んでいるだけだったが。

「ごめん。今、教室にいる。すぐ下に行くね。……うん。分かった」

 おそらく友人からの連絡だろうそれに、透花は落ち着いて返事をして振り返り、教室の中に黙って立つ慧の姿を目に止めた。濡れたままの瞳が大きく見開かれ、気まずそうに一瞬逸らされたが改めて向き直ると躊躇いがちに微笑んだ。強がりだと一目で分かる微笑み。けれどそれは、差し込む月明かりの下で儚く壮絶に美しかった。

 そうして、そそくさと慧の脇を抜けて行こうとする彼女の細い腕を慧は知らずに掴んでいた。

「あ、の?……」

「あ、ごめん。その、大丈夫?」

「え?」

「泣いてたみたいだから」

「ありがとう。平気」

 それが彼女と初めてした会話とも呼べない会話。


 後であの日の事を尋ねたら「覚えていたんだ」と驚いた後、同時期に入院していた年の近い子が亡くなったと連絡があったのだと教えてくれた。


 文化祭の代休が終わって、慧は透花の様子を伺おうとした。文化祭の最終日に人目を避けて泣くなんて。そして「さよなら」という言葉。付き合っていた彼氏と別れたか、それとも振られてしまったか。そう思った。それとなく彼女のクラスを覗いて見てもその姿はなく。彼女のクラスにいた友人に訊けば、休んでいると言われた。

「何、お前宝生さん狙い? 彼女、可愛いけど他校に彼氏がいるって噂だぞ」

「……文化祭にそいつ来てた?」

「さあ? ……え? 何? マジそうなの!?」

 その質問には答えなかった。

 実のところ、透花の事は入学当初から知っていた。

 緩く癖のある柔らかそうな長い髪と黒目がちな大きな瞳が印象的で、小柄でどこかか弱い印象が庇護欲をくすぐる彼女は男子に人気があった。

 彼女は目にする度にいつも楽しそうに笑っていて、それを見てなぜかホッとする自分がいたのだ。

 たまにふと視線が絡む事があって、普通女の子は恥ずかしそうに視線を剃らすのに、透花はにこっと微笑むのだ。可愛くてついこちらの表情も緩んでしまった。

 可愛いなと思っていた感情はあの日を境に大きく膨らんでいたのだけれど、もしかしたら彼氏がいるのかもしれない、または別れたばかりかもしれない彼女に告白するには至らなかった。正直に言うと、告げるのがたぶん怖かったのだ。彼女はいつも視線を外さないから、きっと返事も真っ直ぐに返してくれるだろう。只の憶測だが、彼女は『なんとなく』『まあ、いいか』で男と付き合ったりはしなさそうに思えた。クラスも違い接点のない自分が受け入れられる可能性は低く、「ごめんなさい」と言われればそれは覆し様がないようで、自分の想いの行き場がなくなることを恐れた。更には断られたからと言って彼女を諦められるかも分からなかった。想いを口にして伝える事で確固たるものにしてしまったら、彼女を追い詰めかねない自分に気づいたのだ。


 だから突然彼女の方から告白された時には本当に驚いた。

 好きだと言いつつ一ヶ月という期限を設けられた時には真摯だと思い込んでいただけに不信感と怒りが湧いて、案の定問い詰めたりもしたが。


 彼女の笑顔を可愛いとは思っていたけれど、恋人として見たそれは思った以上の破壊力だった。嬉しそうに屈託なく微笑まれれば理性など木っ端微塵で。

 自分が好きな相手に対して、意外にも積極的な事や執着することを初めて知った。

 透花は自分から好きだと言ったり、手を繋ぎたいと言うことには積極的なくせに、此方からの行動には戸惑い恥じらった。そのギャップにまた唆られて直ぐに夢中になった。

 中学の時に二人の女の子と付き合ったが、今更ながらに申し訳なく思う。元々、告白されて強く断る理由もなく、押されるまま何となく付き合ってしまったのだが、自分の態度はあまりにも素っ気なかった。自分からはデートに誘うことはおろか、電話すらしたことがない。誘われて従うだけ。彼女という名のその他大勢の友人だったと言える。

 感情が伴うだけで行動がこんなにも違うものなのだ。


 透花と付き合った最初の一ヶ月、進路の話になったことがあった。

「科学式って苦手」

 返された答案用紙を前に透花は眉根を寄せていた。

「そう? 化学記号と基本さえ覚えれば出来るよ」

「その基本が苦手なの!」

「苦手って言いながら出来てるし」

 覗いた科学のテストには82点が付いている。同じ科目のテストでも文系クラスの問題は理系クラスよりは簡単ではあるがそれでも進学校だから問題のレベルは高い。勿論82点は平均点以上だ。

「その場かぎりの暗記だから、テスト終わったら忘れてる。数学も一緒。点数良くても身になってないの」

「はは!」

「笑い事じゃないし。出来る人には分からないよ」

「でも、国語と英語は全部90点以上とれてるから凄いよ」

 透花は文系クラスの成績上位者だった。特に国語に強くて現代文も古文も満点に近い点数を取っている。

「九条君、今回学年3位だったね。進路どうするの?」

「俺は法学部行くつもり」

「将来、法曹界!? すごいね!」

「身内に法律に詳しい人がいて困ることもないだろうからさ」

「九条君って社長子息って本当?」

「上に二人いるから継がないけどね。透花はどうするの?」

「私は管理栄養士の資格を取ろうと思ってて。資格があった方が将来的にいいし、料理も好きだし」

「それって文系なの?」

「どっちでも大丈夫みたい。でも化学式とか数学の基本的知識も必要」

「基本なら教えてあげるよ」

「本当!? やったー!!」

 この時、自分は一ヶ月で別れる気は毛頭なかったので勉強を教える事を提案したのだが、透花の方はその気持ちが嬉しくて喜んだのだと言っていた。彼女の中で一ヶ月という交際期限は揺るぎないものだったらしい。

「ちょっと意外だな。普通に文系の大学とか行くのかと思った」

「う~ん。文系大学出てOLっていうのもいいけど、本当はCLSがいいななんて思ってたんだ」

チャイルド()ライフ()スペシャリスト()って何?」

「闘病中の子供の不安をできるかぎり軽減してあげたり、成長とか発達を支援する仕事」

「へえ、そんな仕事あるんだ。そっちの方が文系っぽいけど何でならないの?」

「日本で資格がとれないんだよ。海外留学が必要なの」

「留学すれば?」

「海外って旅行ならいいけど、留学とか怖くて。けど、勉強だけでもしておこかとも思ってる」

「……一緒に行ってあげようか。留学」

「海外の弁護士資格もとるの?」

「それも良いかもね」

 不思議そうに首を傾げる透花に笑って答案を返した。

 別に海外の弁護士資格が欲しかったわけじゃない(日本で特に役に立つわけでもないだろうし)。スキルはあるに越したことはないが、ただ、彼女を一人で留学させるのは自分も嫌だっただけだ。たった数日付き合っただけなのに。

 彼女が留学を怖がる理由が、ただ国外が怖かっただけでなく、国外で一人で病気になるのが怖いと思っているのだとわかったのは随分と後になってからだ。

 後から思えば彼女の希望進路は両方とも病気の人に寄り添うものだった。管理栄養士は傷病者に対する療養のため必要な栄養の指導などが出来る資格だ。CLSに管理栄養士、どちらも自分には馴染みが薄く、栄養士と管理栄養士の違いも知らず、共通点が見つけられなかった。そこに看護師が加わっていれば、もう少し彼女の状況を察することが出来ただろうか。

 けれどそもそも、普段の透花に病気の陰が見られないのだ。体育の授業も出ていたし、欠席が多いわけでもない。月に一度の通院など聞かなければ分からないし、食べ物の制限もなかった。

 癖のある髪は抗がん剤で髪が抜け落ちた後で、こうなったと説明されたときには驚いた。そして、治療後髪が伸びてからは短くしたことがないとどこか寂しそうに言っていた。思春期を迎える女の子が髪を無くすということ。そんなこと一つも彼女に不安の影を落としているのだろう。

 今の彼女を見て病気と結びつける者はいないはずだ。

 一緒にいてわかったのは、手洗いと手指消毒を細かに行っていることと、感染症が増えてくるとマスクをすることだ。

 後は変わらない。本当に普通の可愛い女の子だ。

 好きな事を好きだと屈託なく言う。けれど代わりに嫌いなことをあまり話そうとしない。だから彼女はいつも笑顔だった。


 彼女から病気の話を聞いたとき、戸惑ったことは否めない。面倒で別れるかどうかというよりは、万が一再発となったとしたら支えられるかが不安だった。なによりも不用意な発言や行動で彼女を傷付けないでいられる自信がない。何故なら自分は無知だから。


「人を振り回した自覚はある?」

 そう言ってしまった時、きっと彼女を傷つけた。彼女は振り回したくないから一ヶ月という期限を出したのに、それを受け入れなかったのは自分で、訳を無理やりに訊いたのも自分だ。なのに、あっさりと自分と別れる選択が出来る彼女に憤ってぶつけてしまったのだ。

「はい。嫌な思いをさせてごめんなさい」

 それなのに彼女は真っ直ぐに謝った。全てを受け入れて終わりにしようとしているのだ。

 彼女と自分とでは立ち位置が違い過ぎた。


 少し考えると言って、色々調べてみたが、回答は得られない。そうなったとき、どう思い、どう行動するかはその人次第だ。

 回答なんてあるわけがない。

 自分は別れたくはない。でも、彼女はこれ以上傷付く事、傷付けることを恐れ、別れを望んでいる。


 葛藤はたった一つの出来事で吹き飛んだ。

 彼女の髪に触れようとした男を見てカッと頭に血が昇った。

 自分以外の男が(例え善意だとしても)彼女に触れるなんて許せなかった。

 一日一日を大事にと言うのであれば、今この感情を大事にして何が悪い。

 そう思ったのだ。

 そうして情けないことに幼子のように彼女に縋って手にいれたのだ。



 築年数の浅いマンションのエントランスで応対するコンシェルジュに軽く挨拶し最上階へと向かう。階毎にもロックがついていて防犯対策のしっかりとしたここに住むようになったのは大学生になった春。ナンバーロックを自分で解けばいいのにインターフォンを鳴らし中の住人の応答を待つ。こちらの顔を確認したのだろう、嬉々とした声が返ってきた。

「おかえりなさい!」

 ロックの外された扉を抜けて奥の角部屋へ向かうと、目指す部屋の扉から小さな人影が走り寄ってくる。

「おかえりなさい。慧君」

「ただいま。大人しく部屋にいていいのに。防犯の意味ないよ。透花」

 自分だって出迎えが嬉しくないわけがない。わざわざインターフォンを鳴らすのだって、一緒に住んでいるのだと実感できるからだ。だが、とりあえずは嗜める。

「そんな顔で言っても説得力ない」

 クスクスと笑う彼女の肩を抱いて部屋にはいるとオートロックの扉がカチャリと音をたてた。

 肩を抱いていた手でそのまま小さな顎を掬い上げて、おかえりとただいまのキスをする。幸せそうに微笑んでぎゅっと抱き寄って来るのが堪らなく可愛いらしい。


 透花がおそらく冗談で言った結婚は高校を卒業するとほぼ同時に叶えた。

 透花の預かり知らぬところで根回しを進め互いの進路が決まったところで、透花が着たいと言っていたブランドのドレスを扱う店舗に連れていった。予約もちゃんととっていたのだが、透花には内緒だったので突然の事に入るのが怖いと抵抗されたのもいい思い出だ。

 付き合って暫くして、自分の親には透花を紹介して病気の事も話した上で考えは伝えた。流石に高校卒業後直ぐに結婚したいと言ったら驚かれたが、大きな反対はなかった。その代わりに大学生になったら必要なときに父の会社の接待に顔を出すことと会社の顧問弁護士としての勉強をするよう言われた。海外とも取引のある会社だ。いっそ本当に透花がCLSになるために留学するのならその国の弁護士資格をとってもいい。だから、そんなことでいいならと二つ返事で了承した。結婚祝いに現在住んでいるマンションと一般では考えられない額の祝儀を貰った。慧が働いて透花を養えるようになるまではそれを使えと言うことだろう。受け取るかは分からないが過剰分は出世払いで返すことを心に決めて、素直に家が裕福な事に感謝した。

 透花の両親については、お決まりの「まだ早い!」との反対が父から形だけあって、「本当に望むのなら思う様にしなさい」と許しが出た。彼女の両親もまた、出来うる限り彼女の望みを叶えたいと思っているのだろう。

 透花は何もかもに驚いて慌てて、その姿を思い出すと今でも笑える。


「? なんで笑ってるの?」

「思い出し笑い」

「何思い出してるの?」

「怒るから内緒」

「……弓道場で見学してるだけなのに、足痺れて動けなくなったときの事?」

「ははは! それも面白かったけど違う」


 じゃあ何だと唇を尖らせる彼女の頭を撫でて、ふと、慧がテーブルの上にあるペットボトルに目を止め、怪訝な顔をする。

「それエナジードリンクだろ?」

「え? そうなの? 試供品で貰ったんだけど、ただの炭酸ジュースじゃないの?」

「炭酸のエナジードリンクだよ。没収!」

 言うが早いか慧はペットボトルの蓋を空け、それを口にした。

「あ! ズルい! 少し位ならいいでしょ! 味見したい。折角冷やしたのに!」

「ダメ。夜こんなの飲んだら眠れなくなる」

「そんなお子様じゃないよ! ケチ! もう嫌い!」

「何て言ってもいいけど『嫌い』は言うな!」

 眉を顰め、本気でそんな事を言う慧に思わず透花も綻んでしまう。

「……うそ。ごめんなさい。ありがとう」

 ぎゅうっと透花は慧の引き締まった身体に抱き付き、顔をその胸に埋めた。

 今の飽食の時代、人工的に作られた様々な食べ物や飲み物が容易に手に入るが、人体に影響があると言われるのはずっと後になってからで、幾つかのものには発ガン性物質が含まれていると言われるものがある。健康な人には問題がない量であっても、出来れば摂取しない方がいいし、透花の様なリスクのある者はますます気を付けるに超した事はない。

「透花、謝るときはどうするんだっけ?」

 透花は慧を見上げ、むうっと眉を寄せて顔を赤くした。

「そこまで悪くないと思う」

「悪いと思ったから謝ったんだろ」

 ニヤリと笑って顔を近付ける。と、ぶつけるような勢いで唇同士が触れ合った。

「ごめんなさい!」

「下手くそ」

 ごめんなさいと言いつつも不本意とありありと分かる顔をする透花にふっと今度は優しく笑って、頬に手を添えて上向かせる。

「んっ」

 触れる場所を少しずつずらすように満遍なく唇同士を触れ合わせ、啄むように口付ける。吐息を零し、薄く開いた唇に馴れた動作で舌が忍び込む。舐め、なぞり、吸って、絡めとり、透花の瞳が熱に潤んでくると、大きく節ばった手が胸の膨らみに伸びた。

「ん! ダメ!!」

「何? 風呂行ってから?」

「話があって……」

「……検診で何か言われた?」

 今日は透花の定期検診日で、いつもなら夫である慧も一緒に行くのだが、今日は試験があって行けなかった。とりあえず大丈夫だったと連絡はもらっていたが。

 電話では言えないようなこともあったのか。

「…うん。ちょっと」

 透花は人の目をしっかりと見て話をするが、流石に後ろめたいことや話し辛い事には視線が下がる。人として当たり前だが普段無邪気に人を見つめるので、特にわかりやすい。

「どうした?」

 透花の華奢な身体を抱えあげ、そのままソファへと腰かける。透花は慧の膝の上に対面で座ることになる。

「うん。あのね、病気は平気なんだけど問題が…」

「うん」

「……何て言ったらいいのかな……ちょっと困った事っていうか」

「うん」

 慧はこういうとき、先を急かさない。大丈夫だと言うようにじっと見つめて待ってくれる。透花はぽすんと慧の肩に額を当て息を吐いた。ぽんぽんと優しく背を叩かれるのに促され心を決める。

「……………赤ちゃんがいる、って……………」

「……………」

 とても小さな声になってしまったが、慧の耳には届いたらしい。その証拠に慧の心臓が一つ大きく跳ねた。

「………本当に…?」

「………うん。どうしよう…」

「どうしようって、妊娠ってそんなに透花の身体に悪いの?」

 慧の反応が思っていたものと違う事に驚いて顔をあげれば、大きく温かな手で頬を撫でられる。

「……妊娠、も出産も今のままなら問題ないって………」

「じゃあ、何が困ったことなわけ?」

「だって私達まだ学生だし……」

「ああ、学校は休学届け出すしかないよな」

 顔に落ちた髪を耳に掛けてやると 、ぱちぱちと長い睫毛を瞬かせた。

「……嫌じゃないの?」

「はあ? 俺の子供だろ?」

「! それは勿論そうだけど!」

「産みたくない?」

「そうじゃない!! そうじゃなくて! 子供がいたら……」

「別れるときに困る? 」


 透花は結婚する際に一つの条件を提示した。

「別れたくなったら、直ぐにそう言うこと」

 付き合った時と同じ条件。みくびるなと感情のままに怒るのは簡単だ。でも、人の負担になることを恐れる彼女は真剣なのだ。だからそれで少しでも彼女の気持ちの負担が減るのならと「分かった」と頷いた。


「……もし、私に何かあったら慧くん子持ちになっちゃうし……」

「子供可愛がれる人と再婚すればいいよ」

「本当に嫌じゃないの?」

「嫌ならちゃんと避妊したし」

「出来ないと思ってしなかったんじゃあ……」


 抗がん剤の副作用は生殖機能にも及ぶことがある。幸い透花は排卵もちゃんとあって、妊娠は可能だと言われていた。が、しにくいかもとも言われた。実際、結婚して避妊もせず一年近く出来なかったのだから慧に問題がないとしたらそうなのだろう。

 骨髄や臍帯血移植をした人などはほぼ妊娠は望めないらしいし、卵子を保存しておいても弱った体内で育てることは難しく、代理出産の認められていない日本ではお守り位にしかならないという。

 女性としては恋愛や結婚に消極的になってしまうだろう。男性についても同じだ。子供を作れない自分と家庭を築いてくれとは言いにくいだろう。

 ガンという病気もその治療もこんなにも人生を狂わせてしまう。


「本当のところ出来ればいいと思ってた。子供がいたらもう少し執着するかと思った」

「執着?」

「俺といること。俺だけじゃ足りないみたいだし? 子供がいたらそうそう別れてもいいなんて思わないんじゃないかって」

「……慧君……」

 透花は眉尻を下げて慧を見つめた。

 少し意地悪な言い方をした。本当は透花の本意何て分かりきっているのに。別れてもいいんじゃない。彼女は別れが来ても受け入れる覚悟をしているだけだ。詫びるように優しく肢体を包み込む。


「子供楽しみだよ」

「本当? 産んでいいの?」

「透花に命の危険が無ければね。不思議だな。こんなぺったりとした中にいるんだ」

 透花の薄い腹部に手を当てるとその上から柔らかく小さな手が添えられる。

「たぶん……宿ってそんなに経ってないと思う。……次の生理、一週間後くらいの予定だったし、私も全然意識してなくて……。尿検査で反応が出たからちゃんと産婦人科に掛かるようにって」

「うん。一緒に行こう。俺、透花似の女の子がいいな」

「えー、慧君似のかっこいい男の子がいいよ」

「本当は子供欲しかった?」

「……うん。産めるなら産んでお母さんになりたい」

 柔らかく微笑む透花はごめんねとでも言いたげで切なさが込み上げる。

「何でそう言わないかな。言えばもっと頑張ってたのに」

 冗談めいて言えば、透花は首まで真っ赤にした。

「ええ!? 頑張るって……あれ以上はいいよ!」

「俺に触られるの嫌なんだ?」

「わかってるくせに訊かないで! 体力的に無理ってこと」

「終わるとすぐ寝ちゃうし、途中で気失うこともあるもんな」

「言わないで! 慧君が体力ありすぎるんだよ!」

「妊娠中の事も調べないと」

「慧君のエッチ」

「男なんてそんなもんだよ」

 赤い顔で眉根を寄せ、怒っているんだよと言いたげな、それでいて自分には愛らしくしか見えない表情がやがてふっと和らぐ。

「慧君、ありがとう。大好きだよ」

 ふわりと大輪の花が開いたような笑顔。

 ああ、もう限界だ。


「……なあ、俺もう限界なんだけど」

「ごめん! 重い!?」

 慌てて膝から下りようとする透花の腰をもう一度拘束し、こつりと額を合わせる。

「そうじゃなくて」

「え?」


「別れることとか考えるの止めて欲しい」


 伝えた言葉に透花の瞳が大きく見開かれる。

「そんなこと考えながら一緒にいて欲しくない。何の不安もなく俺に甘えて欲しい。俺を誰にも譲りたくないって言って欲しいよ」

「……言わないよ。慧くんが幸せならいいよ」

 透花は小首を傾げて静かに微笑む。その頬に手を添えれば、甘えるように頬を刷り寄せた。

「嘘つきだな」

 透花は好きだと伝えてくれるけれど、束縛しようとはしない。ゼミや研究会の集まりも「楽しんで来てね」と言うだけだ。でも、いつも眠らずに慧を待っていて、帰ってくると明らかにほっとした顔で迎えるのだ。

「嘘じゃないよ。好きだから幸せになって欲しいよ」

 それも嘘じゃない。そうなのだろうが。

「俺、幸せなんだよ。こんなに可愛い嫁が家で待っててくれて」

「ふふ。こんなにカッコいい旦那様のいる私の方が幸せだもん」

 透花は幸せそうに目を細めて笑う。

 ああ、ずっとこんな風に笑っていて欲しいのに。

「あのさ……ずっと透花の負担が少しでも軽くなるならって我慢してたんだけど。でも、態度ではとっくに伝わってたよな」

「慧君………?」


「透花、好きだよ。透花以外の女なんか好きになれない。俺の方から別れるとか再婚とか考えられない」


「……言わな……で……」

 透花は懸命に冗談でしょと言うように微笑もうとするが、すでにその瞳は潤んでいた。

「もう無理。俺、透花の言葉も欲しいよ。もしも時間が限られているのだとしたら尚更。透花の俺に対する独占欲がみたい」

 透花の葛藤は何となくわかってきた。これだけ愛し愛される人に拒絶される恐怖と、与えるであろう苦渋。最初からそうなると覚悟して諦めていた方が楽だ。そうなったとき、「今までありがとう」と笑顔で別れたいのだろう。だから別れを切り出しやすいように執着する言葉は言わない。

 でも、それが欲しい。

 それを欲するほどに透花が愛おしい。

「透花のことがどうしようもなく好きなんだ。俺にもっと執着してよ」

「そんなこと、言われたら……離れられなくなっちゃうよ……」

「それでいいよ。我慢するなって言っただろ」


 我慢するなとあのとき言った。

 だから透花は願いは口にする。

 ただひとつ、執着心以外は。


「……とっくに態度で伝わってた?」

「まあね。帰り遅くなったりすると凄く甘えてくるし。だからもう遠慮しなくていいよ」

「本当にいいの?」

「そう言ってる」


 透花は苦し気に眉を寄せ、涙を湛えたまま慧の頸にしがみついた。


「誰のところにも行かないで。ずっと一緒にいて。ずっと好きって言って。私しか見ないで」


「いいよ。ずっと一緒だ。これまでもこれからもずっと好きだよ。透花だけだ」


 慧も答えるようにきつくきつく透花を抱き締める。透花は自分で言っていたように随分と臆病だ。

 一日一日を大切に、悔いの無いように過ごすようにしているという様に、彼女は出来るだけやりたいことをやるようにしている。が、それでもどこか後ろ向きだ。好きだと言いつつ付き合う期限を設けようとするあたりがいい例だった。

 仕方がないとは思う。ガンに罹ること、そしてその治療は精神的にもかなり負担になるらしい。

 そして寛解となって何年経とうが再発への不安は消えない。

 透花も検診の前日には必ずと言っていいほど抱き着いて甘えてくる。不安にならないわけがないんだ。初発に比べて再発は更に寛解率が大幅に下がるのだから。もしかしたらその度にこれが最後かも知れないと思っているのかもしれない。そんな不安は出来る事なら取り除いてやりたいけれど、そんなこと誰にも出来はしない。ずっと抱えて行かなければならないんだ。

 そして自分はその不安すらも受け止めてやらなければならない。

 重いとか辛いとかそんなこと言ってられない。

 そんなもの気にするよりも透花を欲したのは自分だ。


 これから先何があって、その時自分がどうするかなんてわかるわけがない。

 例えば、透花の白血病が再発したとして、闘病中の彼女を疎ましく思う事もあるのだろうか。

 ない。

 とは言い切れないだろう。自分は闘病の辛さも見守る辛さも経験したことがない。

 今は彼女の事が好きで好きで、本当に好きで。ずっと腕の中に閉じ込めておきたいとさえ思うことがある。付き合ってから3年、その内結婚してからは1年経つが、その思いはちっとも褪せずに、寧ろ募っていると言っていい。

 それでも、透花が言うように抗がん剤の副作用で髪が抜け、痩せたり太ったりした彼女を同じように思うことが出来るだろうか。たぶん、その点は大丈夫だと思う。外見はそれほど問題にならないだろうから。

 ただ、強い薬は性格すら変えてしまうことがあるらしい。怒りっぽくなったり、沈み込む彼女を長い間支えることができるだろうか。

 表面上では優しい顔をしても、心では溜息をつくことがあるかもしれない。

 薬の副作用なのだから服用しなくなれば元に戻るのだけれど、おそらく互いに自分の行いや感情に後ろめたさを感じるのだろう。

 透花と家族はそんな思いを経験してきたのかもしれない。


「慧君は何でも願いを叶えてくれるね」

 抱き付かれているので顔は見えないが、すんと鼻を鳴らしたことから容易に泣いていることが伺える。

「叶えられないこともあるよ」

 透花の不安を拭うことはきっと一生出来ない。出来るとしたら子供を産んで孫を得て、夫婦で仲良く生涯を共にし命を全うしたその瞬間だけだろう。

「……そう言えば飲み会とかは行かせてくれないね」

「それは行く必要がないから」

「やっぱりケチだ」

 そんなことを涙で濡れた顔で嬉しそうに言う。

 本当に透花は慧を捕らえて離さない。

 頬を伝う涙をそっと口で吸いとった。


「ねえ慧君。私ね、本当は管理栄養士よりもなりたいものがあるんだよ」

「何? CLS?」

「ううん。専業主婦」

「……それ叶えちゃっていいの? 俺は嬉しいだけなんだけど。大学辞める?」

「ううん。資格は取るよ。慧君が路頭に迷ったら私が養ってあげるよ?」

「俺はそんなに情けなくない」

「知ってる。でも人生なにがあるかわからないからね」

「俺が先に死ぬこともあるだろうし?」

「それは駄目!!」

「駄目?」

「駄目。慧君がいなかったら私は何を支えにしたらいいの。私をこんなに甘やかしたのは慧君なんだから最後まで面倒見て」

 慧の頸に腕を廻したまま、ムッとした顔をする。

「はは。最後まで、か。漸く聞けた…。俺は透花より先には死なないよ」

「うん。絶対ね」

「死なない。俺が先に死んだら透花、再婚とかするだろ? 絶対やだ」

「再婚って……」

「透花は俺だけのものだよ」

「私だって再婚とかあり得ないよ。私にとっては慧君以上の男の人なんていないもん」

「撤回は聞かないよ」

「しないよ。ね、なんだろう。すごく幸せ。温かい」

「俺も。漸く透花が手に入った感じ」

 ごく自然に二人の唇が触れ合った。表面がそっと触れるだけなのにそれはひどく幸せだ。視線を合わせ、二人でくすりと笑う。

「やっぱり我慢はよくないな」

「そうかも。我慢出来ないときはお互い言えばいいよね」

「そうだな。そうしよう。透花。もう一度」

「ん」

 何を、とは聞かない。透花は上を向いて瞳を閉じ唇を差し出す。

 今度の触れ合いは深く長く濃厚だ。



「さっきも思ったけど、梅ガムの味がしたよ」

 腕に引き寄せていた透花がこちらを見上げてくる。

 今はただ、可愛い、好きだとしか思わないけれど。

「ん? ああ! あのジュース、ガムの味だ! 何かの味だと思ってたんだ」

「あんまり美味しくないね。全部あげる」

「あげるもなにも飲んじゃダメだって。まだ飲むつもりだったのか」

「だって美味しそうな色してるんだもん」

 透花が美味しそうというその色はイチゴのかき氷シロップを薄めた様な色をしている。

「知ってる? 治療に使う薬も赤とか青、黄色があってね。青いの入った時にかき氷のシロップみたいって言ったら昔はインクブルーって言ったんだよって先生が教えてくれたんだ。わりと美味しそうな色してるのにやっぱり吐き気が起きるんだよ」

「味するの?」

「直接血管に入れるんだもん。分からないよ。あ、でも、味のわかる薬もあるよ。麻酔薬でね、入れられた途端に喉が熱くなるって言うのかな、苦いって言うか…とにかく不味いの!」

「ふーん、飲まなくても味するんだ。俺はかき氷ならレモンがいいけど」

「え? そうなの!? でもお祭りとかでいつもイチゴ買うじゃん」

「それは透花が好きだから。いつも残すから、二つはいらないだろ」

「あ、ぁ…そうなの? じゃあ、今度はレモンにしよ?」

「うーん……間を取ってブルーハワイにしようか」

「いいよ。ブルーハワイも好きだよ」

 楽しそうに笑う透花に我慢できずにキスをする。

 こんなにも愛おしい存在を疎ましいと思うようになるとは思いたくはないけれど。


 ……………。

 ああ、もう、知ったことか! そんなこと!



 どうせ先のことなんか分からない。


「慧君、好きだよ」


 そう告げてくれる彼女を手離したくないと思っている限り手離さない。

 それでいいんだと思う。

 俺たちが生きて一緒にいるのは今で、

 今を積み重ねて未来を紡ぐ。


「俺は愛してるよ」


 だから嘘のない告白をずっと続けていくんだ。

ブックマーク、評価がつくとは思いませんでした。嬉しいです。

もし、当事者の方がいて気分を害されたら申し訳なく思います。

読んで下さりありがとうございました。

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