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結局最後の落書きや告発が世に出ることはなかった。世間ではただのいたずらとして処理されてしまっているらしい。
そして遂に裁判の日が来た。
俺はそれまで拘置所でとある不可解な二点について考えていた。
一つ目はいるはずのない目撃者だ。
俺の考えでは、あれはあの総理の信者たちではないだろうか。彼らは自分たちが信じる首相のために、見てもいないものを見たと言ったんじゃないだろうか。
――見ていないものを見ていると証言してくれそうな信者だってたくさんいる。
首相はあのボイスレコーダーの中で確かにそう言っていたはずだ。
そして二つ目。もしかしたら酒井首相はメッセンジャーの計画を全て知っていたんじゃないだろうか、ということ。
――もうとっくに見つけて監視してるんだよね。
酒井首相は中学の時にターゲットにしていた人物を監視していた。おそらく同じようにあの男のことも監視していたのだろう。おそらくずっと。東京に異動してからも、ずっと。だから彼がボイスレコーダーを用意していたことくらい知っていたのかもしれない。それを知った上で彼に会い、残酷なことをわざと話した。自分の本性をあえて露わにしたんだ。そして彼は決定的な証拠を掴んだと喜ぶ。もちろんぬか喜びだ。何故なら彼が自分で掴んだんじゃなくて、酒井首相がわざと掴ませたんだから。そして証拠は持っているのに信憑性に欠けて公表しようにもできず、どうしようもない状況を作りあげた。きっとその姿は酒井首相の好みに添うものなのだろう。でもあの男――メッセンジャー――はその打開策を思いつき、行動した。
落書きだ。
それを見て狡猾な酒井首相はどう思ったのだろうか。
「早く証拠を隠滅しよう」か? いや、違う。「ギリギリまで思い通りにさせておいて、最後の最後に証拠を奪って絶望感を与えてやろう」だろう。そしてメッセンジャーは自分が酒井首相の掌で踊らされていることも知らずに計画を遂行していった。
そこでメッセンジャーにも、酒井首相にとっても思いもよらないことが起きた。俺が現れたことだ。
酒井首相は彼が俺に何を言おうと、俺が信じることはないとでも高をくくっていたのかもしれない。しかし、俺は信じてしまった。更にメッセンジャーは俺にボイスレコーダーのバックアップを渡した。これは酒井首相にとってはまずい状況なはずだ。
もしメッセンジャーから最後の最後に証拠を奪って殺したとしても、それを俺が知ってしまったらきっと公共の電波を使って公表するだろう。その話を誰も信じないなんてはずはない。何故なら俺は知名度も人気も高い俳優だからだ。ファンの数なら首相にも負けないかもしれない。結局、今の俺は彼のイメージの前に負けているわけだが。
まあ、そこはなんでもいい。とりあえず酒井首相はメッセンジャーを「ただの連続轢き逃げ事件の被害者」として殺し、証拠を隠滅したんじゃないだろうか。絶対的な権力を持ち、広い顔を持つ彼ならば捜査機密だって知ることができても不思議じゃない。もちろん連続轢き逃げ事件の現場に置かれていた花の種類だって。
酒井首相が本当の連続轢き逃げ犯であった可能性もあるけど、メッセンジャーの話やボイスレコーダーの録音を聞く限り、あの人はそんな直接的な手を取るようには思えない。
つまり、酒井首相は連続轢き逃げ事件を模倣して横断歩道を歩いていた(あるいは歩かされていた)メッセンジャーを殺し、彼が持っている証拠や告発文章を隠滅したんじゃないだろうか。
そのついでに酒井首相は手を打った。俺にも口封じをすることだ。
俺はこの前まで、酒井首相はボイスレコーダーに入っていたように「朝早く誰もいない路地で赤信号を渡り、車を止めてその人間を脅して精神を壊す」ということをやろうとして、その車に乗っている相手が偶然全てを知っている俺だった、と思っていたけど、そんな偶然あるだろうか? 絶対にありえない、とまでは言わないけど、もし、あれが偶然じゃないとしたら?
もしあれが、俺を口止めするために行ったことだったとしたら? 俺を監視して丁度いいタイミングで現れただけだとしたら、全てつじつまが合う。巨大権力を持つ彼なら俺が師の家に行くことくらい簡単に知ることができるのかもしれない。
親と仲のいい俺だから、「喋ったらキミの大好きなかけがえのない両親を目の前で目も当てられないやり方で殺してあげるよ」とでも脅せば俺は黙るはずだ。しかしそこでまた思いもよらないことが起こった。
俺が前方不注意をして、酒井首相本人を殺したことだ。まさか彼は俺が止まらないなんて思いもしなかっただろう。自分があっさり死んでしまうことも。
嬉しいことなのかどうなのか、今回の裁判所の傍聴希望者はかなりの列になっているらしい。そのかすかな席は整理券によって決まるのだとか。
酒井首相のしたことを知っているのか知らないのか、恐らく信者たちはたくさんこの裁判の傍聴に来ているのだろう。そう考えると憂鬱になった。
しかし、悪い気分ではない。むしろ少し高揚している。
今、俺は扉の前にいる。手には手錠が掛っており、両サイドには警官が一名ずついる。
この扉の奥には人ひとりいるのかも分からない静けさが漂っている。もしかすると誰もいないのかもしれない、そんなことさえ思った。でも、ひとりは確実にいる。強大な気配を感じる。
俺の師だ。彼がいることは間違いない。
そしてその暗い扉が開けられた。
すると、さっきまでの静けさが嘘のように吹き飛び、耳をつんざくような声の塊がたくさん飛んできた。
「ワー」「司馬孝明だ」「本物」「死ね」「首相殺し」
さまざまな歓声と罵声が聞こえてきた。恐らく罵声は信者たちのものだろう。もしかすると俺をここに連れてきた感謝すべき人なのかもしれない。
とりあえず傍聴人席を一切見ずに被告人席へ向かった。
怖かったのだ。
俺が被告人席に座った時、年の割に髪の毛がしっかりある裁判官が「静粛に!」とよく通る声で怒鳴った。
一瞬で静かになった。
凄いな。この声なら少し訓練すればミュージカルの役者にでもなれるかもしれない。
「被告人は証言台に立ちなさい」
俺は重い腰を上げ、証言台に向かうと、かなりの視線を背中に浴びたのを感じた。それでも俺はその恐怖の海を見ることができなかった。
ゆっくりと証言台の上に立った。
「死ね」「首相殺し」
罵声だけが鳴った。
その罵声の中でとある一言が俺の脳内で響いた。
「死んで償え!」
昔、まだ売れてない頃、劇団でシェイクスピアの『ハムレット』を演じたことがある。
ハムレットは簡単に言うと、生きて苦しむか死んで楽になるかの葛藤の話だ。
「死んで償え?」俺は後ろを振り向き、その台詞を言った眼鏡で坊主の男を睨んだ。
空気はシンとし、彼は今にも眼球がメガネのレンズに当たりそうなほど目を大きく見開いて、驚いた。当然だ。彼は俺に見られている時にその台詞を言ったわけじゃないんだから。彼は俺の背中に叫んだのだ。もちろん俺だって彼がその台詞を言ったのを直接見たわけじゃない。傍聴人を見たのは今が初めてだ。
でも、分かる。自分でもよく分からないけど、あの台詞を言ったのはあいつだ。
そのハムレットから時が経ち、師匠に教えてもらうようになってから、彼に「ハムレットで、お前ならどちらを選ぶ?」と問われたことがある。
その時、俺は「死んだ方が楽ならそうする」と答えた。
そして、師は言った。
――俺なら、
「罪なら生き地獄で償ってやる」
この台詞を聴いたとき、俺はこの人のことを心から格好いいと感じた。行けるとこまで付いて行こうと思った。
そしていつの日か、どんなシチュエーションかは忘れたけど、俺は目を潤わせて師にそう伝えた。
すると、彼はハハハと笑った。
――いいか、付いて行くって志向じゃあ一流になれないな。どれだけ一流な人に対しても『いつか越えてやるから首を洗って待ってな!』ってくらいの意気込みがなければ一流にはなれないぞ。
俺は更に彼を尊敬した。
「お前らに罵倒されて、けなされて、戸籍を消されたとしても俺は生きてやる。絶対に死なない。死んでほしいなら今すぐ俺を絞め殺せ!」
「静粛に!」
静粛になった。
俺はフっと笑い、弁護士の方を向いた。
何をしてるんだ。彼の目から、聞こえないけどそう伝わってくる。
ごめんな。
俺は再び傍聴席の方を見た。
「俺は有罪だろうと無罪だろうと役者を辞める」
熱い物を触って跳ねるように、この空間そのものはざわついた。
「静粛に!」
少しだけ静かになったが、完全に静粛にはなっていない。
俺はお構いなしに続けた。
「別に頭がおかしくなったとかじゃない。いや、そう考えてくれればいい」
「被告人! 静粛に!」
その声は空間には響いたけど、俺の心には響かなかった。所詮は素人の声だ。
「別に辞めてどうするかは決めていない。ただ、俺は生きる。どこかでどこまでも生きる。気が乗れば探せばいい」
「静粛に!」
「あんたたちにとって、この今日という日が俺を見る最後の機会になるだろう。この裁判の結果がどうであれ俺は控訴しない」
横から溜息が聞こえた。
ホントに君は何をしてるんだ。分からないよ。もう好きにやればいい。
それと同時に傍聴人席のとある一席から「面白い。さあやれるだけやれ」と伝わってきた。
お前の天賦の才は本当にどう転がるか、最後まで分からなかったな。本当にお前は面白い。さあ、お前が旅立っていく姿を俺のこの眼にしかと映してくれ。
「俺は無実だと言い張ろう。お前たちが思っている正義のヒーローもただの人間だ。悪にでもなり変わる」
……静粛に……。
よく通る声だとはいえ、その声はもう誰の耳にも届かなかった。
傍聴人の嵐のようなざわめきも止まらない。それどころか検事や警官にすら伝染している。教祖を否定された信者たちに関しては、強烈な殺気を帯びた放送コードに引っ掛かる言葉を次から次へと叫んでいる。よくもそんなたくさん悪口のボキャブラリーがあるものだ。
そのざわめきたちが何故か、俺が初めて舞台のオーディションに合格したときのことを思い出させた。
二人の涙と心からの笑顔。
子が、実の子でなかろうと、旅立つというのは言葉にならないくらい嬉しいのだろう。
ごめん。裏切って。でも、俺が自ら選んだ道だ。できることなら、また、笑ってほしいな。
俺はあなたたちよりも、見ず知らずの男を選んでしまった。
そうか。この飛び交う悪口は今まで俺を支えてくれた人たちの心の声をそのまま表現しているのかもしれない。
ざわめきたちは止むことを知らない。宙に浮いて富士山の頂上まで飛んで行きそうなくらいのダークなエネルギーがある。
それに、さっきまでは少し怖いと思っていたけど、もう何も怖くなかった。むしろ楽しいくらいだ。
それは舞台と同じだった。一番緊張し、お客さんに対してある種の恐怖を感じ、すぐにでも家に帰って布団に潜りたくなるのは舞台に上がる直前。そして、一番楽しいのは舞台に立ってお客さんの前で演技をしている瞬間だ。
その中で一番楽しいのはアドリブだ。紙に書かれていない言葉を生み出して命を吹き込むのは最高潮の刺激と興奮がある。ジェットコースターやお化け屋敷を連想させる楽しさだ。
でもステージを作りだすスタッフたちにとっては迷惑でしょうがないらしい。
裁判官はまるでそんな裏方のように「もう、どうにでもなれ」と髪を爪で掻きながら黙ってうつむいている。
ここは俺の空間。俺が主役、俺のひとり舞台だ。そんなことをふと思う。
後は目的を果たすだけ。
俺は、弁護士の方を向く。
「ボイスレコーダー、貸してくれ」
「あ、うん……」弁護士の彼はカバンからそれを取りだした。
俺は彼の元に近づき、手錠の掛かった手を伸ばしてそれを受け取った。
禍々しいエネルギーが手から体へと流れてくる。この化け物が自分のものになると思うと、堪らなくゾクゾクしてきた。
「サンキュー」
彼との最初に面会の時、帰り際に俺はこんなことを頼んでいた。「俺の家にボイスレコーダーがあると思う。確か、枕の中だ。ない可能性もあるけど、それを持ってきてほしい。中身は聞かないでくれ。絶対に」
「……うん。分かったけど、ない可能性って何? 泥棒でも入ったの?」
「深くは聞かないでくれ」
「……」不服そうな口元だったけど、彼は自分を宥めるように小さく息を吐いた。「分かったよ。あれば持ってくる。絶対に、中身は聞かずに」
そして裁判の前日、弁護士の彼が再び面会に来た。
「やあ」暗い顔だった。おそらく「かけがえのない親友はヒーローよりも正しいと証明する」と言ったものの、かなり厳しいという顔だろう。寝不足なのだろうか、目の下にはクマができており、この前会った時よりも随分と老けて見える。まるでフェルマーの最終定理の証明に挑んで挫折した数学者のようだった。
そこまでして俺のために頑張ってくれたのかと思うと、涙が零れそうになった。まだ零すまい、と必死に我慢する。
「悪いな」
「謝らないでよ」
「ボイスレコーダー、あったか?」
「うん。あったよ」彼は鞄から黒いボディのそれを取りだした。「言われた通り中身聞いてないんだけど、何が入ってるの?」
間違いなくあのボイスレコーダーだ。どうやら首相はこれを回収する前に俺に殺されてしまったらしい。でも、中身だけ抜かれてるという可能性もなくはない。
「少しだけ再生してくれ。中身が生きてるかどうかだけ確認したい」
「うん」
彼がスイッチを押すと聞き覚えのある雑踏が聞こえてきた。
「酒井……」メッセンジャーの声が聞こえた。
「よし。もう消してくれ」俺は膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
彼はスイッチをもう一度押しつつ、驚いたような顔を見せた。「僕の聞き間違いじゃなければ、君が殺した人の名前が聞こえたような……」
「気にするな。全国に酒井さんなんていくらでもいる」
そしてまた傍聴人席に目を戻す。特に誰と目を合わすわけでもなく、むしろぼかす感じで見た。
ざわめきは随分うるさくなった。普通の人なら目の前の人と会話することもままならないほどだろうけど、俺は舞台上がりの俳優だ。声量なら十分すぎるくらいある。
「どうせこれ以降俺を見ることはないだろうし、ひとつ、土産話でもしてやろう」俺は手に持ったボイスレコーダーを顔の前に持って行き、スイッチに手をかけた。
その瞬間、この空間の無数の目のほとんどはこちらに向き、静粛になった。
自分の動きを見て場が鎮まるとは、芸人以外の芸能人にとってこれほどの快感はないだろう。最高の気分だ。堪らない。思わず目を瞑ってしまうくらいの快感だ。
でもこのエクスタシーもこれが最後なのか。そう考えると複雑だな。まあいい。きっとこれからもっと最高な気分になるのだろうから。
その時、とある可能性に気付いた。あの酒井首相ならボイスレコーダーの頭の部分だけを残して、後の部分を全て消しているかもしれない、と。ぬか喜びしていると途中で音が切れ、一瞬にして天地がひっくり返るような絶望感に苛まれる。それを向こうの世界から見て大笑い。ありえなくはないシナリオだ。
まあ別に何でもいい。その時はその時だ。もう進むしかない。
舞台に出る直前に台詞を確認するように、目を瞑ったまま小声で呟いた。
「世の中うまくいかないが、うまく行き過ぎないこともない。お前の思うようには行かないかもしれない。でも結果的にそれがお前の思うように転じるかもしれない」
すると、子供のように満足げに笑うメッセンジャーの顔が瞼の裏に見えた、気がした。
――俺はこの国の国民をごく一部でもいい、興味を引き付ける必要があるんだ。そして信じざるを得ない状況を作る。
彼はそう思って落書きをし、興味を引こうとした。しかし、ドラマや映画で活躍し、時にはバラエティにも出る上に助演男優賞まで獲った、知名度なら申し分のない有名な俳優が一国の首相を殺した。冷静に考えれば考えるほどこっちの方が素晴らしいビッグニュースじゃないか。町中の落書きとは規模も注目度も違う。そうだろ?
その時、とある日の師の言葉が頭に蘇った。
――孝明は演説が似合いそうだな。その内そんな役が回るかもしれないから酒井首相を見習っておけよ。
本当にそんな日が来てしまったな。決して役を演じているわけではないけれど。
ポイントは確か、「音楽記号のフォルテの強さを軸に、抑揚を付けながら一言一言はっきり話す。瞬きは極力少なくする。目は大きく開きすぎない。でも力強い眼力は必要だ。そして胸を張れ」
俺は瞼を開けて頬を緩め、また元に戻し、背筋を伸ばして胸を張る。
その時、傍聴人席の中の誰かがうんうんと首を小さく縦に振ったのが見えた。
――お前は俺の首を縦に振らせるくらいの役者に、いや、大きな人間になってくれたかな。
涙がツーっと零れた。抑えることなんて到底できなかった。
そんな俺を見て、傍聴人たちのほとんどは不思議そうな顔をしているに違いない。
俺は袖で涙を拭き、深く呼吸する。
もうこの世界に思い残すことはない。前に進もう。
もう一度深く呼吸をする。ゆっくりと息を吸い、肩を下げながらゆっくり吐く。
さあ、メッセンジャーよ。俺がお前のメッセンジャーになってやる。
「一人の犯罪者の話をしてやろう。聞きたくなければ目を閉じるなり耳を塞ぐなり好きにすればいい――」
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
感想、評価などを貰えると嬉しい限りです。
後書きなどは『人間観察家』シリーズが終わってからまとめて書きます。




