Utopia
この回と次回は一日前倒しで更新します。
まさか、と思った。
――確かに僕は日本のヒーローだからね。赤信号を堂々歩いていても向こうから止まってくれるほどのヒーローさ。
――その車の運転手は決まって怒るだろうね。
――僕はその運転手を脅すんだよ。
――まだこの計画は一回もやったことがないんだよね。車が一台だけ走っている状況ってなかなかないじゃない。僕の散歩コースは人気が少ないんだけどまだ出会ってないんだ。そうだね、どうしよう。いつもより早く起きて町中歩こうかな。
酒井首相はまさか、これを……。
数分後、救急車が到着した。乗組員達は事故現場のキャストにひどく驚いていたがその中のリーダーらしき男が「救命に人の名前など関係ない!」と鶴の一声を掛け、彼らは担架と気合いを持って作業に入った。血塗れの酒井首相は担架に乗せられて救急車へ運ばれ、俺は怪我をしているとはいえちゃんと意識を持って歩けるので自分の足で救急車に乗った。
その際、俺は乗組員のひとりに「通報者の司馬さんですか?」と確認された。俺は本名よりこの名前を使うことが多いので、咄嗟に芸名を使ってしまったのだ。
救急隊の人たちはきっと気合いを入れて俊敏に救命を行ったのだろうが虚しくも酒井首相は緊急救命中に亡くなった。今までの誰よりも庶民派だった日本のトップは庶民らしく亡くなった。
それと比べ俺は軽傷だったから日が暮れる頃には退院した。しかし俺が退院して向かった場所は家でも記者会見場でもなく警察署だった。
そういえば刑事役も犯人役もやったことがないな、とまず思った。取調室という所に入ったのも初めてだ。まあ、生身の警察官をこの目で見るのもいい勉強になる。
だが、事態はそんな悠長なこと言っていられないレベルらしい。
世間では事実になっているらしいことを聞き、俺は焦った。警察に連れて行かれたのも任意同行ではなく逮捕だったのだ。「俺、交通違反とかしてないと思いますが」
そう言うと俺の目に座っている怖い顔の四十代くらいの刑事がアルミか何かでできた金属製の机に両肘を置いてまっすぐ俺を見つめた。
「でもな、あんたが赤信号を渡ったという目撃者がいるんだが」
「いやいや、」もちろん俺は否定した。あそこには誰もいなかったはずだ。「多少の前方不注意があったことは認めます。でも、俺は確かに青を渡りました」
「でもなぁ……目撃者が五人もいるんだよ」
そんなバカな。「ちゃんと確認しましたよ。首相を轢いた時、俺の目には確かに青信号が映りました」
俺がそう弁明すると彼は溜息を吐き、鼻をポリポリと掻いた。「俺、結構あんた好きだったけど失望したよ。そんな苦しい言い逃れするなんて」
彼の俺が悪いと一方的に決めつける態度に腹が立ち、俺は金属製の机を両手でバン、とドラマのように叩いた。
「言い逃れじゃありません! 確かに俺は青を渡りました! 信号無視したのは首相の方です!」
「そんなわけないだろ。わざわざ燃費の悪い高級車に乗らずにエコカー乗ったり普通に歩いたりするあの人が信号無視なんてするわけがない。あそこは真っすぐな道だから車が来ていたことが分からないはずがない。絶対に安心だと信じ込んでいる青信号を渡らない限りは」
「でも!」
「状況も証言もお前に過失があると物語ってるんだ。いい加減認めろよ。見てないんだろ?」
「違う! 首相はあえて赤信号を渡って、俺の車を止めようとしたんです!」
ん? と彼は眉をしかめた。「何のために?」
「俺を、脅すために……」
「は? いい加減な妄言吐くんじゃねえよ」
「本当です!」
「お前、刑務所から出ても住む場所ないだろうな」
「……!」
――それがあいつの狙いなんだよ!
メッセンジャーの言葉が頭の中でよみがえる。
――誰かが「酒井首相に殺されかけた」と訴えても今のお前みたいに「そんなバカな」と笑われて誰にも相手にされない社会を作るのがあいつの狙いなんだよ! あいつはただの一回も国のことなんて本気で考えたことはない! 自分が好き放題犯罪できる社会を作るために国のことを考えている演技をしているだけなんだ!
ぐっ、と全身の筋肉が収縮した。
全て酒井首相の思い通りに世の中は変わってしまったんだ。酒井首相の理想郷に……。
メッセンジャーはこんな中で戦っていたのか……。
悔しい。権力とヒーローとしてのイメージに勝てない自分が、とてつもなく悔しい。
拳を握る。爪が皮膚に食い込むくらい握る。手の甲に青い血管が浮かび、皮膚から飛び出そうになるくらい力を入れる。
「俺は……、やってない……!」
はあ、と刑事溜息を吐き、独り言のように呟いた。「往生際が悪いな」
往生際が悪いと言われても、やってないものはやってないんだから仕方がない。
「世間は、どう見てるんですか?」
職業病が出た。どこにいようとタレントはタレントであり続けなければならないらしい。
「まだあんまり時間は経ってないが、少なくとも俺の意見と世論は一致してる」
「そう……ですか」
当然といえば当然だけど、現実は悔しいものだった。
助演男優賞俳優もヒーローの前では膝を折るしかないのか。
「事務所解雇されるのも時間の問題だろうな」
「……」
職業病だろうか。事務所の社長が大量の報道陣の中「司馬孝明を、解雇します」と頭を下げる絵が鮮明に思い浮かぶ。
そうなる、だろうな。師にも会えない上に、居場所もなくなるんだな。
そこでひとつ、気になることが頭に浮かんだ。「じゃあ、落書きはどうですか?」
「落書き?」
「一週間続いてたっていう落書き。あれ、確か今日が『アノジケンノシンソウヲ バクロスル』っていう日でしたよね」
「ああ、あれか」彼は頷き、俺から視線を逸らした。「今日は何も聞いてないな」
「え?」
「結局ただのいたずらだったんじゃないか? 俺もあれは興味あったんだが、がっかりだったな」
「そんなバカな!」
「ん? 何か知ってるのか、お前」
「あ、いや……」
どうなってるんだ……。メッセンジャーが有言実行しないわけがない。
見つからないような場所に書いているのか? いや、そんな場所に最後のメッセージを書くはずがない。それに、この刑事の様子じゃマスコミやインターネットにも、あのボイスレコーダーは流出してなさそうだ。
なんで?
「連続、といえば今日は轢き逃げも発生していたな」飴と鞭と言うのだろうか。刑事は俺が落書きなどの事件に興味があることを知り、そこから信頼関係を築こうとでも思ったのだろう。話を本筋から逸らした。
「それ、今朝現場見ましたよ。車止められました」
俺のその返事を聞いて彼は「おっ」と目を丸くした。「そうか。運がいいのか悪いのかだな。そこで車止められずに数秒早くあそこを通っていれば、轢かずに済んだかもしれないのに」
「……」
でも、多分それはない。酒井首相は俺が来るのを見計らって赤信号を渡ったんだ。俺が腕時計に気を取られているとも知らずに。
「人を轢いた現場を目撃した後に人を轢くとは、まるでドラマだな。全く笑えないが」彼は呟く。
「……その、轢かれた人はどうなったんですか? 犯人は?」
「轢き逃げの方か? それなら被害者は死亡、犯人はなおも逃走中だ」
その言葉を聞いた時、電線と電線が繋がって電気が通るような衝撃が頭の中で爆発した。
まさか、その轢き逃げで死亡したのは、メッセンジャーなのか?
「その亡くなった被害者は男ですか?」
「なんだよ急に。質問をしてるのはこっちだぞ」
「いいから答えてください!」舞台から客席全体に声を届かせるような音量で叫び、睨んだ。
「……」彼は嫌そうに目を細めて答えた。「……男だよ」
「年齢は?」
「五十だ。それがどうかしたか」
「いや、……」
五十歳の男。彼と条件が合う。しかも最後の落書きと告発が起きなかったというのだから間違いない。
そんな偶然あるのか。この人口一億人超の日本でただひとりの今日告発する予定だった人物が、ただひとりの轢き逃げ犯によって殺されるなんて。しかも告発のことを知っていて証拠も持っているただひとりの男が、告発されるただひとりの人間を殺して警察行きなんて。
運命、なのか?
酒井首相の理想郷は、こんな天文学的な偶然さえも引き起こしてしまうのか?
完全に告発の手は失われた。もしかしたら彼の家や俺の家を捜索して証拠のボイスレコーダーが見つかるかもしれない。でも、それを見つけるのは俺たちの関係者じゃない。警察だ。
――僕の友達には警察庁の長官だって警視庁の警視総監だっているんだから。
見つかったところで隠ぺいされるに決まっている。今更ヒーローを悪魔だとばらしても誰も特などしないのだから。
打つ手は絶たれた。もうどうしようもない。もう酒井首相は死んだと言えど、彼の悪行は公開しなければならない。公開されない限り、勝ったとは言えない。
メッセンジャー。どうやら俺たちは負けたようだ。
そう目を瞑った時だった。
――肩、貸して……くれないか
誰かの声が聞こえた。これは、俺の声……意識が遠のいているような掠れ声だ。確か、これは学生の時の……。
――もちろん。
この声は……今、弁護士になっている俺の親友だ。
――ひとりじゃないんだから。肩なんていくらでも貸してあげるよ。まあ、二つしかないけどね。
どうしてあの時の会話が……。
その時、また全身に電流が走った。そして電流と共にひとつのアイデアが思い浮かんだ。
「……!」
「どうした?」
俺は思わずニッと笑った。
メッセンジャーよ。やっぱり俺たちはまだ負けてなんていないぞ。
「刑事さん、俺、やっぱり信号確認しませんでした」
そして俺は面会室に連れてこられていた。
透明のプラスチックか何かを越して、前にひとりの眼鏡を掛けた若い男が座った。
「久しぶりだね」彼の第一声は、喜びも悲しみも、何も込められてなかった。
「ああ、まさか本当に夢が叶うとはな」俺は喜びと懐かしみで口をほころばせた。
彼は俺が昔「俺が裁判に掛けられたら弁護してくれよ」と言った弁護士。つまり、親友だ。
「ホントにね」そこで彼はやっと緊張の糸が切れたように息を吐いた。「どんな顔していいか分からないよ」
「俺もだ」
「海外撮影はどうだった?」
「楽しかったよ。是非見てほしい」
「でも、残念ながらできそうにはないね」
「そういえば、そうだな」
あの映画含め、俺が出ている物はおそらく全てお蔵入りだろう。俺が無実でここから出て来ない限りは。今頃きっと、あの撮影に関わった百人以上のスタッフは困り果てているに違いない。
「前置きはこれくらいでいいかな」
「ああ」
「ではあなたは、」彼は友達としてではなく弁護士として質問をした。「酒井元首相を轢いたんですか」
「はい」俺も友達としてではなく一被疑者として答えた。
「前方は確認したんですか」
「いいえ、どうせ誰もいないと思って目を逸らしました」
「では、信号は確認したんですか」
「はい。確認しました」
「ん?」彼は眉をしかめ、鞄から何かの紙を取り出し、読み始めた。「あなたは信号を確認しなかったと供述して、ここに送検されたはずですが」
「はい。信号を確認しなかったと供述して、ここに送検されたはずです」
「……はっきり答えてください。確認したんですか? してないんですか?」
「はっきり答えます。確認しました」
「……なるほど。取り調べでの供述も裁判では証拠になるのですが」
「知ってます」
「知ってるのに自分に不利になることを言ったってことですか?」
「知ってるのに自分に不利になることを言ったってことです」
「……ふざけないで」
「ごめんなさい」
「……どうして自分が不利になる嘘の供述をしたんですか」
「閉所恐怖症であの取り調べ室が怖かったからです」
はあ、と彼は疲れたように溜息を吐いた。「十年来の付き合いだけど初めて知ったね。そんなこと」
友達の前で仕事モードを続けるのは、やはり無駄に体力を使うのだろう。「もう敬語やめるよ。柄でもない」
「俺もやめるわ。疲れた」
「念のために確認するけど、閉所恐怖症じゃないでしょ」
「ああ、違う」
「じゃあどうして嘘の供述を」
「まあ、なんでもいいじゃんか」
よくないよ、と彼は頭を抱えた。「もうひとつ確認するけど、ちゃん信号を確認したんだね?」
「ああ、したさ。だいたい青信号だと分かってないで俺が運転中に目を逸らすはずなんてないだろ。俺が目を逸らして見たのはカルガモの行列でも、露出狂の集団でも、アメリカの大統領でもない。ただの腕時計だ。いつでも見られる」
「つまり、君には目を逸らす理由がないってことだね」
「ああ。俺は青信号をちゃんと確認した。首相を轢いた時も俺の目に映ったのは青だったし、轢いてから車に出て119に電話した時にやっと赤になったんだ。間違いない」
「……なるほど」彼は少し間を置いて話す。「ってことは酒井元首相の方が信号無視したってこと?」
「そうだ。信号を守らなかったのは酒井首相の方だ。それにあの時、周りには誰一人といなかった」
「え?」彼は目を見開いて訊き直した。
こういう時って、大抵しっかり聞き取ってるんだよな、と思いながらも言い直す。「目撃者なんていなかった。いたなら気絶しかけながら車に出て周囲を見回してから、更に倒れているのが首相だと知って驚いて、それから119に電話した俺より先に誰かが119したはずだ。なのに、来た救急車は俺が呼んだ救急車だった」
「……」
「乗組員のひとりに「通報者の司馬さんですか?」と確認されたんだから間違いない」
「……なるほどね」そう言いながら彼は立ち上がった。「それなら、こんな所でうかうかしてられないね。知っているかもしれないけど、世論は完全に酒井元首相を支持して君を見捨てている」
「知ってるよ」俺は自慢げに答えた。自慢げに答える内容ではないだろうけど。
「さすが。何でも知ってるね」彼は一笑いし、俺をまっすぐ見て真顔に戻った。「でもこれは知ってる? 世間の中でも、君を見捨ててない人も少なからずいるんだよ。どんな人たちか分かる?」
「……分からないな」
「君が今までの人生で関わってきた人たちだよ」
「……」俺は驚いて言葉が出なかった。
「もちろん、僕もだよ」
そう言われると俺は、嬉しさのあまりにやけてしまった。その俺を支持してくれている人たちが皆でここに押し寄せでもしたら、きっと泣いてしまうだろう。
「世論をあっと言わせてやるよ。僕のかけがえのない親友はお国のヒーローよりも正しいって証明して」
「ああ。当たり前だろ」
俺たちは目でぎゅっと握手をした。
しかし、俺はきっと彼を裏切ってしまう。そのことは言わなかった。
次回、ラスト。
30日(月)午後10時更新。




