呉の残照――誰も知らない終戦への海図
## エピソード89 呉の残照
昭和二十年四月二十二日、午後六時。
呉軍港外泊地。
西の空が、赤く染まっていた。
戦艦「大和」の巨大な艦影は夕映えの中に黒く沈み、その右舷後方には護衛艦「まや」が錨を下ろしている。
二隻とも、機関は必要最小限の待機状態。
砲口は沈黙し、対空戦闘配置も解かれていた。
だが、平時の停泊とは程遠い。
呉側の警備艇が距離を保って周囲を巡り、岸壁や防備所からは双眼鏡が絶えず「まや」へ向けられている。
未来艦は、味方でありながら、まだ完全には信頼されていなかった。
「まや」の右舷ウイングに、高梨一等海佐が立っていた。
背後で足音がする。
振り返ると、大和艦長・有賀幸作大佐が交通艇から上がってきたところだった。
二人は黙って敬礼を交わした。
「どうです、未来の軍艦から見る呉は」
有賀が尋ねた。
高梨は夕暮れの工廠を見た。
「知っている景色ではありません」
「未来にも呉はあるのだろう」
「あります」
少し間を置く。
「ですが、私の知る呉と、今ここにある呉は、もう同じ場所ではない」
有賀が眉を動かした。
高梨は続ける。
「本来なら大和は四月七日に沈んでいました」
「うむ」
「私は、その後の歴史を知っていました。沖縄がどうなるか。広島と長崎に何が起きるか。日本がいつ降伏するか」
夕風が二人の制服を揺らす。
「だが、もう使えません」
「未来の知識がか」
「はい」
高梨は大和を見た。
「大和がここにいる時点で、我々の知っている歴史から外れています」
原子力空母レーガンは沖縄東方で損傷し、後退した。
「そうりゅう」は最後の魚雷を撃った。
首里では牛島が全軍特攻を退け、自決を禁じた。
東京では中立国を通じた外交接触が動き始めている。
どれも、本来の歴史には存在しない。
有賀は低く笑った。
「なるほど。未来人も、これから先は未来を知らんわけか」
「そういうことになります」
「なら我々と同じだな」
その言葉に、高梨は僅かに目を細めた。
「同じ?」
「明日が分からん」
有賀は穏やかに言った。
「軍人など、元来そういうものだ。敵がどこから来るか。弾が当たるか。自分が明日の朝まで生きているか」
そして大和を振り返る。
「我々は、それでも判断してきた」
高梨は黙った。
有賀が問う。
「『まや』は、まだ戦えるのか」
高梨は即座に答えなかった。
「限定的には」
「限定的?」
「レーダーも機関も生きています。五インチ砲や近接防御火器もあります」
だが、と続ける。
「長射程対空ミサイルは払底。残存誘導弾も僅少。燃料、交換部品、電子機器の予備も限られています」
「呉の工廠でも直せんか」
「船体や配管なら支援を受けられるでしょう」
高梨は首を振った。
「ですがレーダーの送受信モジュール、演算装置、誘導弾、ガスタービンの精密部品――この時代の工作機械と材料だけで完全に再生産するのは無理です」
有賀がゆっくり頷く。
「つまり、もう神風にはなれん」
「最初から神風ではありません」
高梨は静かに言った。
「我々は、少し先が見えていただけです」
「その目も、もう先を見通せぬ」
「はい」
二人の視線が、夕陽へ向いた。
大和の艦尾旗が風に鳴る。
「不安か」
有賀が尋ねた。
高梨は少し考えてから答えた。
「怖いですよ」
有賀が意外そうに見る。
「歴史を変えることが?」
「違います」
高梨は言った。
「変えた以上、最後まで責任を取らなければならないことがです」
有賀は何も言わなかった。
「歴史の修復などという都合の良い言葉は使えません」
高梨は続ける。
「正しかったかどうかも、今は分からない。ただ、我々が選んだ結果として、この大和も、沖縄の人々も、これからの日本も別の未来へ進む」
有賀の表情から笑みが消えた。
「ならば、その未来を途中で投げ出すことだけはできんな」
「はい」
しばらくして有賀が言った。
「出撃した時、私は大和と共に死ぬつもりだった」
「知っています」
「今は違う」
有賀は夕日に照らされた四十六センチ主砲を見上げた。
「死ぬより難しい仕事が残った」
「戦争を終わらせることですか」
「生きて、その結果を見ることだ」
高梨は深く頷いた。
午後六時十九分。
呉の山影へ夕陽が沈み始めた。
これまで高梨たちは、歴史という海図を持っていた。
どこに暗礁があり、どこで嵐が来るのか。
完全ではなくとも知っていた。
だが、その海図はここで終わる。
高梨は静かに呟いた。
「ここから先は、我々の知る歴史にはない」
有賀が隣へ並んだ。
「誰も見たことのない海、か」
「はい」
有賀は赤く染まる瀬戸内海を見つめた。
「ならば航海するしかあるまい」
二人の背後で、大和と「まや」は静かに錨を下ろしていた。
昭和の戦艦と、未来の護衛艦。
その二隻の前に広がっていたのは、もはや既知の歴史ではない。
誰も海図を持たない、新しい海だった。
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