中立国ルート――戦場から外交へ
## エピソード85 中立国ルートの模索
昭和二十年四月二十二日、午前十時。
東京・霞が関。
空襲で傷ついた外務省庁舎の一室に、数枚の電報用紙が並べられていた。
外務大臣・東郷茂徳は、その一字一句を繰り返し読み直していた。
昨夜から状況は変わった。
戦艦「大和」は呉へ帰還した。
未来から現れた護衛艦「まや」の存在も、もはや軍内部では否定できない。
沖縄では米原子力空母「ロナルド・レーガン」が後退し、第32軍は玉砕ではなく持久を選んだ。
そして何より、未来側が示した原子爆弾という兵器が、戦争をこれまでとは全く異なる段階へ移そうとしていた。
東郷は万年筆を置いた。
「これ以上、軍事で時間を買うことはできん」
机を挟んで外交官たちが黙っている。
「大和も『まや』も、沖縄の部隊も、すでに十分な時間を作った。その時間を政治が浪費すれば、彼らを戦わせた意味そのものがなくなる」
一人の参事官が尋ねた。
「外相。接触先はソ連ではなく、中立国とするのですか」
東郷は頷いた。
「今回は米国へ意思を届けることが目的だ。仲介国に我が国の運命を委ねるのではない」
壁に掛けられた通信系統図を見る。
「ベルンとストックホルム。二経路を同時に使う」
スイス。
スウェーデン。
ともに欧州で外交関係を維持し、日本側がまだ利用可能な通信経路を持つ国だった。
「駐スイス公使・加瀬俊一へ」
書記官が鉛筆を構える。
「米国側外交代表との非公式接触の可能性を探れ。日本政府が戦争終結の条件について協議する意思を有することを伝える」
「条件は明示しますか」
東郷は少し考えた。
「最初から細部を詰めすぎるな」
前夜の協議で最重要事項とされたのは皇室と国体の扱いだった。
だが、最初の打診から最後通牒のような文面を送りつければ、交渉の入口そのものを閉ざしかねない。
「皇室の存続を重大条件としていることは伝える。ただし、これは降伏文書ではない」
東郷は言った。
「まず、米国に交渉の意思があるかを確認する」
書記官の鉛筆が走る。
続いて、
「駐スウェーデン公使・岡本季正へも同趣旨を送れ」
「二重経路ですか」
「ああ」
東郷は即答した。
「片方が遅延し、遮断されても、もう片方が届く可能性がある」
外交にも冗長性が必要だった。
戦場で一つの通信線に全てを依存しないのと同じである。
ただし、内容は必要最小限に絞る。
大和の現在位置。
「まや」の兵装。
沖縄の具体的な防御配置。
原爆に関する未来側の詳細資料。
それらは一切載せない。
もし電文が第三国に傍受されても、日本の軍事情報を渡さないためだった。
東郷は草案を読み上げた。
「――日本政府は、現在の戦争をこれ以上拡大することなく終結させる可能性について、米英両国政府と協議する用意あり」
誰も動かない。
「――日本政府にとり、皇室の存続および国家統治の継続性は重大な問題である」
さらに、
「――米国政府に協議の意思ある場合、中立国政府の仲介または外交代表を通じ、速やかに接触方法を提示されたし」
読み終えた東郷が紙を置いた。
「これでいい」
参事官が慎重に尋ねた。
「米側が、これを単なる時間稼ぎと判断する可能性もあります」
「当然だ」
東郷は答えた。
「だから大和が必要なのだ」
一同が顔を上げる。
「大和が呉に生きている。伊藤長官も有賀艦長も生きている。そして未来の日本艦が実在する。それが、今回の打診が従来の和平工作とは違うという裏付けになる」
東郷は窓のない部屋で、しばらく沈黙した。
「だが忘れるな」
声を低くする。
「大和の生還を、米国への威嚇に使うのではない」
「では」
「交渉する時間がまだ残っているという証拠にする」
通信課長が入室した。
「外相。ベルン、ストックホルム両系統、送信準備が整いました」
東郷は決裁印を取った。
一度だけ草案を見る。
昨日まで、戦争を終わらせるために必要だったのは砲弾だった。
潜水艦は魚雷を使い切った。
護衛艦はミサイルを撃ち尽くした。
大和はその巨砲を撃ちながら呉まで戻った。
だが、ここから先に必要なのは、そのどれでもない。
「発信せよ」
印が押された。
通信員が電文を受け取り、部屋を出ていく。
やがて外務省の通信設備から、暗号化された外交電報が海外回線へ送り出された。
ベルンへ。
ストックホルムへ。
二つの経路を通じて、同じ問いが米国へ向かう。
――まだ、話し合う余地はあるか。
昭和二十年四月二十二日、午前十時十三分。
沖縄では兵士たちが撃たずに陣地を守り、
呉では大和が砲を沈黙させ、
東京では一本の外交電報が戦場を離れて欧州へ向かった。
戦争を止めるための主役が、初めて兵器から外交へと移ろうとしていた。
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