牛島満の決断――玉砕をやめる日
---## エピソード84 牛島満の決断
昭和二十年四月二十二日、午前八時。
沖縄、首里城地下――第32軍司令部壕。
湿った石灰岩の天井から、水滴が落ちていた。
机上には前線から届いた戦況報告が重ねられている。
浦添、西原方面では米軍の砲撃が断続的に続いている。
攻撃そのものが終わったわけではない。
だが昨日までのような連続した地上突撃は、明らかに鈍っていた。
通信兵が受話器を置いた。
「塩屋湾より連絡!」
壕内の視線が集まる。
「潜水艦『そうりゅう』、今朝浮上。『いずも』舷側への係留を完了。乗員、生存しております」
小さなどよめきが起きた。
続いて、
「呉からも確認電です。戦艦大和および護衛艦『まや』、昨夜、呉軍港外泊地へ到着」
牛島満中将は、静かに目を閉じた。
「……届いたか」
八原博通高級参謀が頷く。
「はい、閣下。我々が稼いだ時間は、本土へ届きました」
さらに山名三等海尉が報告する。
「米原子力空母ロナルド・レーガンも、船尾損傷によって沖縄への航空作戦を停止し、東方へ後退中です」
その瞬間。
長勇参謀長が立ち上がった。
「ならば今こそ好機ではありませんか!」
拳が作戦卓を叩く。
「敵は混乱している。未来の空母も退いた。ここで全軍を挙げて総攻撃を敢行し、敵を海岸まで押し戻す!」
壕内に緊張が走った。
八原はすぐには答えなかった。
牛島も黙って長を見ている。
「閣下!」
長は続けた。
「我々はここまで耐えたのです。大和も生きて帰った。この機を逃せば――」
「長君」
牛島の静かな声が遮った。
「ならん」
長の表情が固まる。
「……閣下?」
「全軍突撃は許さん」
壕内が水を打ったように静まり返った。
牛島は作戦図へ歩み寄った。
「敵空母一隻が後退しただけだ」
指先が米軍陣地をなぞる。
「敵の野砲も、戦車も、艦砲射撃部隊も健在だ。兵員と補給は我々を遥かに上回る」
八原が続けた。
「こちらには予備兵力がほとんどありません。弾薬も食糧も医薬品も減っています。地下陣地を捨てて開豁地へ出れば、敵砲兵に捕捉されます」
長が歯を食いしばった。
「では、ただ壕の中で死を待つのか」
「違う」
牛島が言った。
「死なぬために壕へ残る」
誰も言葉を返せなかった。
牛島はゆっくり軍刀を見た。
「我々は、これまで死ぬ覚悟を軍人の務めと思ってきた」
そして顔を上げる。
「だが今、我々に必要なのは死ぬ覚悟ではない」
一語ずつ、噛みしめるように続けた。
「生き続ける覚悟だ」
八原の眼鏡の奥の目が僅かに動いた。
「大和は呉へ着いた。東京では、未来からもたらされた情報を巡って動きが始まっている」
牛島は作戦図上の首里を指した。
「ならば我々がここで全滅する理由はない」
長が低く問う。
「軍人に、降伏せよと命じられるのですか」
「まだ降伏ではない」
牛島は首を振った。
「陣地を守れと言っている」
そして通信参謀へ向き直った。
「全軍へ命令を出す」
鉛筆を握る音がした。
「第一。無許可の突撃、斬り込み攻撃を禁止する」
「第二。各部隊は現陣地を維持し、敵が侵入した場合のみ、準備した火力地域で撃退する」
「第三。弾薬、食糧、飲料水、医薬品を再集計し、無用な射撃を禁ずる」
八原が静かに頷いた。
まさに持久戦の原則だった。
「そして第四」
牛島の声が、さらに重くなる。
「自決を厳禁する」
長が息を呑んだ。
「閣下……!」
「軍司令部も同じだ」
牛島は言い切った。
「本土で講和が成るまで、我々は生きてこの陣地を保持する」
その言葉は、これまで第32軍を支えてきた価値観を根底から覆すものだった。
「死ぬことで責任を取ったつもりになるな」
牛島は壕内の将校たちを見渡した。
「我々が死ねば、そこで任務は終わる。だが生きていれば、一時間でも、一日でも敵の前進を遅らせられる」
八原が低く応じる。
「その一日が、本土の政治を動かす一日になる」
「そうだ」
牛島は頷いた。
「我らは敵を全滅させるために戦うのではない」
少し間を置く。
「この戦争を終わらせるために、生き残る」
午前八時十五分。
命令は有線電話と伝令によって、首里主陣地帯の各部隊へ送られ始めた。
――突撃を禁ず。
――陣地を保持せよ。
――自決を禁ず。
それは勇壮な攻撃命令ではなかった。
戦果を誇る命令でもなかった。
だが、戦争末期の沖縄で最も困難な命令だった。
死ぬな。
持ち場を捨てるな。
そして、戦争が終わる瞬間まで生き延びよ。
地下壕の外では、再び米軍砲兵の砲声が響き始めていた。
牛島はその音を聞きながら、静かに呟いた。
「死ぬことを目的にはせぬ」
そして作戦図へ向き直った。
第32軍の最後の戦いは、玉砕ではなく――生存のための持久戦へと変わった。




