落日の雷撃――ロナルド・レーガン航行不能
落日の雷撃
昭和二十年四月二十一日、午後三時。
沖縄本島東方沖。
海面下を走る二本の十八式魚雷には、もはや人間の目に映るものは何もなかった。
あるのは、海水そのものを通じて伝わってくる巨大な機械音だけだった。
十万トンを超える船体。四軸の推進器。減速装置。補機。海水を激しく叩くプロペラ翼。
それらが生み出す低周波の騒音は、暗黒の水塊の中に、巨大な壁のような音響像を作り出していた。
目標――米海軍原子力航空母艦「ロナルド・レーガン」。
「一番、二番魚雷とも正常航走!」
海上自衛隊潜水艦「そうりゅう」の発令所で、兵装員の声が飛んだ。
赤色非常灯の下、艦長・竹中二等海佐は海図台の縁を握ったまま動かなかった。
つい数分前まで、彼は魚雷を撃たずに済ませようとしていた。
だが交渉を引き延ばす裏で、米側は駆逐艦の探信儀を展開し、ついには爆雷を投下した。
船体各部にはその衝撃が残っている。
天井からは結露と微量の漏水が滴り、艦内には高濃度の二酸化炭素と機械油の臭気が混じっていた。
それでも竹中が下した命令は変わらなかった。
撃沈するな。
可能であるなら、足を止めろ。
もっとも、魚雷という兵器に「舵だけ」「推進器だけ」を切り取るような外科手術はできない。
水中爆発は、その瞬間に生じる圧力波と巨大なガス気泡によって、船体のどこへ、どこまで損傷が広がるか完全には予測できない。
だから竹中が与えたのは、推進器そのものへの一点照準ではなかった。
空母後部――推進軸、操舵機構、機械区画が集中する艦尾側水中部。
そこへ二本の魚雷を誘導する。
それ以上は、海と機械と確率の領域だった。
「有線誘導、継続」
副長・深町二佐が低く告げる。
「目標運動、変化なし。二本とも最終誘導区間へ移行」
竹中は一瞬だけ目を閉じた。
「……誘導を維持。原子炉区画へ近づけるな」
「了解」
誰も「必ず舵だけを壊せる」とは言わなかった。
誰も「必ず沈まない」とも言わなかった。
それでも、撃つ以上は目的に最も近い場所へ導く。
それが今の彼らにできるすべてだった。
***
同時刻。
米原子力空母「ロナルド・レーガン」。
艦尾後方でディッピングソナーを下ろそうとしていたMH-60Rのセンサー員が、ヘッドセットの中に飛び込んできた異常な高速音を捉えた。
一瞬だった。
海中雑音の中を、人工的に規則正しい高周波成分が急速に近づいてくる。
「高速水中接触!」
機上戦術士官が叫ぶ。
「複数! 空母艦尾方向へ接近!」
警報はデータ回線と音声で直ちにレーガンへ送られた。
CDC。
「艦長! 対潜ヘリより緊急! 高速水中目標二――魚雷の可能性!」
ロバート・ウェルズ大佐の顔色が変わった。
「距離!」
「近すぎます! 数千ヤード以内!」
「回避!」
ウェルズが作戦卓を叩いた。
「速力上げ! 面舵――」
言い終える前に、彼自身がその命令の無意味さを理解した。
十万トンを超える船体。
どれほど巨大な原子炉と蒸気タービンを持っていても、慣性そのものを消すことはできない。
まして、発見された魚雷はすでに近距離へ入っていた。
「護衛艦、デコイ――」
対潜戦士官が叫ぶ。
だが、時間がなかった。
ウェルズは歯を食いしばった。
「総員、衝撃に備えろ!」
艦内放送が鳴り響いた。
『魚雷警報! 魚雷警報! 全乗員、衝撃に備えよ!』
飛行甲板。
整備員たちが甲板へ身を伏せる。
格納庫では航空機固定索が増し締めされ、機械室では当直員が咄嗟に手すりへ身体を固定した。
その数秒後。
第一の魚雷がレーガン艦尾下方へ到達した。
直接、プロペラ翼へ衝突したわけではない。
艦尾左舷寄り、水面下。
設定された攻撃ロジックが巨大な船体の存在を捉えた直後――。
爆発した。
ドォォォォン――ッ!!
海面が内側から持ち上がった。
数百キログラム級の高性能炸薬が水中で解放した衝撃波が、ほとんど圧縮されない海水そのものを巨大な槌へ変え、レーガンの艦尾を下方から殴りつけた。
船体が震えた。
それだけでは終わらない。
爆発によって生じたガス気泡が膨張し、収縮し、再び水塊を激しく動かす。
船尾構造が何度も異なる方向から叩かれた。
左舷外側推進軸周辺で、金属が限界を超える。
軸受部に異常振動。
シール部損傷。
海水侵入。
プロペラ翼の一部が変形し、回転のバランスが崩れた。
「左舷外軸、振動急上昇!」
機械室で警報が重なった。
「軸受温度上昇!」
「海水侵入!」
「左舷外軸、切り離せ!」
当直機関士官が叫ぶ。
巨大なタービンの蒸気が遮断され、左舷側の推進系統が緊急停止へ移行した。
その直後だった。
「二本目――来ます!」
二発目。
今度は艦尾中央寄り。
ズンッ――!
最初の爆発ほど耳を裂く音には聞こえなかった。
しかし、レーガンにとってはこちらの方が深刻だった。
二度目の水中衝撃が、すでに損傷を受けていた艦尾構造全体を再び揺さぶった。
操舵機区画。
油圧配管の継手が破断した。
作動油が霧状になって吹き出し、圧力計の針が一気に落ちる。
「操舵油圧低下!」
「主舵応答なし!」
艦橋では操舵員が舵輪を操作する。
反応しない。
船はなお前進している。
だが、舵角の指示値だけが異常な位置で止まっていた。
「非常操舵へ切替!」
「応答ありません!」
さらに第一撃で損傷した左舷軸系から猛烈な異常振動が船体へ伝わり、軸路監視装置が次々と警報を吐いた。
残る推進系をそのまま高速運転すれば、損傷がどこまで拡大するか分からない。
艦長の判断を待つまでもなかった。
機関制御室からCDCへ報告が飛び込む。
『艦長、左舷外側軸系重大損傷! 左舷側機械系統を保護停止! 操舵系統油圧喪失! 船尾区画で浸水を確認!』
ウェルズは作戦卓に両手をついた。
「右舷軸は?」
『機械的には回せます。ただし船尾全体に強い振動があります。損傷範囲の確認まで高速運転は危険です!』
「推進を最低限まで落とせ」
ウェルズは即答した。
「全軸、いったん安全側へ。ダメージコントロールを優先!」
「艦長!」
航空団長ケイン大佐が振り返る。
「速度を落とせば、航空運用が――」
「分かっている!」
ウェルズが叫んだ。
「今は船を保つ!」
***
ロナルド・レーガンの巨大な艦体から、急速に速度が失われていった。
二十八ノット。
二十。
十五。
十。
やがて一桁へ。
右舷側の健全部を使えば、限定的な推進力を再び得られる可能性は残っていた。
だが、いまこの瞬間、船尾区画のどこまで損傷が広がっているのか誰にも分からない。
損傷した軸を無理に回せば、軸封部から浸水が増える。
異常振動が軸受や減速装置へ伝われば、損害をさらに広げる。
したがって、機関科が選んだのは速度ではなかった。
生存だった。
『第三区画、浸水封鎖!』
『軸路防水扉閉鎖!』
『非常排水開始!』
艦内放送と警報が入り乱れる。
消火服と救命胴衣を身に着けたダメージコントロール班が、傾斜した通路を走る。
レーガンは沈んでいない。
原子炉も健全だった。
艦内電力も失われてはいない。
それでも航空母艦として最も重要な条件の一つ――安定した針路と艦速――が奪われた。
航空管制室。
ケインは風向・艦速・甲板状況を表示する画面を睨んだ。
「発艦作業中止」
その言葉に、周囲の士官が振り返る。
「残存カタパルトは?」
「機械的に使えるかどうかは関係ない」
ケインは低く答えた。
「艦が安定していない。船尾損傷範囲も不明。回収作業も保証できない。この状態で次の攻撃隊を上げるわけにはいかん」
「では――」
「航空作戦、一時停止だ」
飛行甲板に待機していた整備員へ、発艦中止の指示が飛んだ。
第三カタパルト周辺で白く漏れていた蒸気が止められる。
黄色、緑、赤のジャージを着た甲板員たちが、航空機を固定位置へ戻し始めた。
わずか数分前まで沖縄へ向けて次の攻撃隊を放とうとしていた巨大空母から、航空機発艦の轟音が消えた。
***
「そうりゅう」発令所。
石倉水測長がヘッドセットに集中していた。
爆発の残響。
多数のプロペラ音。
護衛駆逐艦の探信音。
そして、その中心にある巨大なレーガンの機械音が明らかに変化していた。
「目標、減速!」
石倉が叫ぶ。
「推定速力、急速低下! 複数軸の回転成分に変化あり。一部推進系統を停止した可能性!」
深町副長が竹中を見る。
「効いた……」
竹中は答えなかった。
「目標操舵運動は?」
「不安定です。直進状態を維持できていない可能性があります」
竹中は目を閉じた。
沈んではいない。
少なくとも、十万トンの艦体が崩壊するような音は聞こえない。
その事実に、胸の奥で固く張り詰めていた何かがわずかに緩んだ。
「撃沈はしていないな」
「はい」
深町が答える。
「しかし、航空作戦を継続できる状態でもないはずです」
竹中は静かに頷いた。
魚雷は魔法のメスではない。
どの軸を何本破壊したか、ここから断定することはできない。
だが、レーガンは減速した。
そして進路を乱した。
それで十分だった。
「こちらの残弾は」
一瞬の沈黙。
兵装員が答えた。
「……ゼロです」
発令所の誰も言葉を発しなかった。
最後の二本。
それを今、すべて使った。
もう「そうりゅう」に牙は残っていない。
竹中は通信士へ顔を向けた。
「まだ相手には、それを教えるな」
深町の目がわずかに動いた。
竹中は続けた。
「次は魚雷ではない。相手の判断を止める」
爆雷の衝撃で傷つき、電池も酸素も底をつきかけた潜水艦。
対するのは、損傷してなお巨大な原子力空母。
物理的な戦力差は、依然として比較にもならない。
それでも、戦場では相手が知っている情報だけが現実になる。
竹中は暗い発令所で、静かに通信文を組み立て始めた。
***
レーガンCDC。
「艦長、暫定被害報告!」
ウェルズは振り返った。
「左舷外側軸系に重大損傷。操舵油圧系統損傷。船尾複数区画で浸水。ただし防水隔壁は保持。原子炉および主発電系統に異常なし」
ウェルズはゆっくり息を吐いた。
沈没する状況ではない。
だが、その事実は慰めにならなかった。
「復旧見込みは」
「現時点では不明です。軸系の詳細点検が必要です。少なくとも直ちに高速航行へ戻るのは不可能です」
ケインが続けた。
「航空作戦も停止しました。安定した艦速と針路が回復するまで、次の攻撃隊は出せません」
CDCに沈黙が落ちた。
そのとき。
戦術通信スピーカーから、短いノイズが流れた。
ザッ――。
全員が振り向く。
ウェルズの顔が強張った。
海面下の「そうりゅう」からだった。
『――USSロナルド・レーガン艦長、ウェルズ大佐へ』
竹中の声。
静かだった。
勝ち誇った響きはなかった。
『先ほどの雷撃は、貴艦を沈めることを目的としたものではない』
ウェルズは拳を握った。
竹中の声が続く。
『我々の目的は一つ。これ以上、沖縄で互いの同時代人を殺し合わせないことだ』
海軍士官たちは誰も声を発しなかった。
『貴艦はまだ浮いている。我々もまだ生きている』
一拍。
『ならば、まだ選べる』
通信はそこで切れた。
ウェルズはしばらくスピーカーを見つめ続けた。
十万トンの空母は沈まなかった。
だが、沖縄へ向けて突き進んでいた巨大な機械の意思は、確かに止まった。
それを成し遂げたのは、敵を全滅させるほどの火力ではない。
撃てる弾を使い切りながら、それでもなお「沈めること」と「止めること」を区別しようとした、一隻の潜水艦の選択だった。
午後三時十分。
沖縄東方の海原で、ロナルド・レーガンは大きく速度を失い、不安定な艦首を波間へ向けていた。
甲板からは、もうジェット戦闘機は上がらない。
そしてその深い海面下では、魚雷をすべて撃ち尽くした「そうりゅう」が、残された最後の武器――相手にまだ何が残っているかを悟らせない「情報」だけを握りしめていた。
戦いは、火力の段階を終えようとしていた。
次に二つの時代の艦長が争うのは、弾薬でも速力でもない。
誰が先に、相手の決意を折るか。
深海の雷撃が止めたのは、巨大空母のスクリューだけではなかった。
沖縄へ向けて回り続けていた戦争そのものの歯車が、初めて、目に見えて軋み始めていた。
今回の改稿では、新プロットの「レーガンの推進・操舵能力を奪い、航空運用を停止」という結果を維持しながら、**左舷外軸そのものの重大損傷+操舵油圧障害+損傷確認のため残存推進系を保護停止**としており、「魚雷2本が都合よく全4軸を破壊した」という描写にはしていません。また、Ep74の「実際には魚雷ゼロなのに、まだ残弾があると思わせて停戦へ持ち込む」展開へ、そのまま接続できる終わり方にしています。




