核を運ぶ艦――深海の雷撃
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昭和二十年四月二十一日、午前十時二十分。
マリアナ諸島テニアン島東方約百海里、マリアナ海溝東縁海盆域。
水深八十メートルの深海には、外界の激しいスコールを遮断した、太陽光の届かぬ暗黒と濃密な水圧の静寂だけが淀んでいた。
その漆黒の海中を、時速四十八ノット――秒速二十四メートルを超える猛烈な速度で疾走する六つの鉄塊があった。
大日本帝国海軍・潜水艦「伊五十八」から放たれた、九五式酸素魚雷。
全長七・一五メートル、直径五十三センチ、重量一・六トン。純酸素燃焼機関によって推進されるその巨大な魚雷は、通常の圧縮空気式魚雷のような排気窒素の白泡(雷跡)を海面に一切残さない。
それは、青黒い水塊の中を音もなく突き進む、不可視の死神の槍であった。
だが、その航走軌道を支えていたのは、昭和の職人技や勘ではない。
水温躍層の直下、深度百二十メートルから海上自衛隊のそうりゅう型潜水艦「そうりゅう」が、ZQQ-7統合ソナーのフランク・アレイと低周波曳航ソナー(TASS)を駆使して算出し続けた、完全な「未来予測射線」であった。
米護衛駆逐艦が放つ探信儀(QCソナー)のピンガー音が水温躍層の境界面で乱反射し、音響探知が完全に遮断されたわずか数十メートルの「死角回廊」。
魚雷のジャイロスコープは、その回廊のど真ん中を貫くよう、伊五十八の水雷科員によって狂いなく調定されていた。
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「そうりゅう」の発令所。
鈍い赤色灯に照らされた室内で、先任水測員・石倉先任伍長が、両耳の大型ヘッドセットを両手で強く押さえ込み、微動だにせず受聴器のノイズに全神経を注ぎ込んでいた。
コンソールのウォーターフォール(音響周波数時間軸表示)画面には、伊五十八が放った六軸の高回転プロペラノイズが、微弱な輝線となって目標の音紋へと吸い込まれていく様がリアルタイムで描かれていた。
「……魚雷航走音、依然として正常。針路二六五、調定深度四メートルを維持」
石倉の声は、極限の緊張によって掠れていた。
「目標、米重巡インディアナポリス。速力十七ノット、ジグザグ運動の変針点手前直進区間! 敵前衛フレッチャー級駆逐艦、依然として左舷回廊の魚雷接近に気づいていません! ……会合まで、あと二十秒!」
艦長・竹中二等海佐は、耐圧殻に右手を当てたまま、海図台の時計の針を凝視していた。
その背後では、副長の深町二佐、機関科先任曹長・佐久間が、呼吸音すら殺して立ち尽くしている。
残弾二本。底をつきかけた蓄電池。
この一瞬のために、自らの艦の安全を削り、八十年の時空を超えてこの深海へ潜り込んできたのだ。
外れれば、次はない。
インディアナポリスがテニアンへ到達すれば、数カ月後には広島、長崎、小倉、そして帝都・東京の上空で四つの原子爆弾が炸裂し、日本の歴史そのものが灰燼に帰す。
「十秒……五、四、三、二、一……!」
石倉が叫んだ。
「マーク!」
直後――。
受聴器が拾い上げたのは、深海のすべての海洋生物を沈黙させるほどの、暴力的で破滅的な音響衝撃波であった。
ズガァァァァァンッッ!!
深海を揺るがす第一撃の炸裂音。
続いて、間髪を容れず二度、三度と重々しい破壊音が叩きつけられた。
ズドォォン! ドガァァァン!
「そうりゅう」の耐圧殻がミシミシと軋み、天井の復水管から冷たい水滴が一斉に乗員たちの肩へと弾け散った。
「命中! 魚雷命中!」
石倉がヘッドセットを片耳浮かせ、興奮を押し殺した絶叫を上げた。
「一番、二番、三番魚雷、目標の右舷喫水線下に直撃! 爆発深度調定四メートル、敵艦首部弾薬庫直下、ならびに前部機械室キール(竜骨)付近で起爆しました!」
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海面上。
荒れ狂う雨雲の下、時速十七ノットで巡航していた米海軍ポートランド級重巡洋艦「インディアナポリス」の巨大な艦体は、突如として海中から突き上げられた巨大な鉄槌によって、文字通り跳ね上げられた。
炸薬量五百五十キロを誇る九五式酸素魚雷の炸裂威力は、米軍が想定していた通常魚雷の倍近かった。
一本目の魚雷が右舷前部、一番砲塔直下の弾薬庫外板を粉砕し、艦首フレームを一瞬で断ち切った。
吹き上がった数百メートルの巨大な水柱が、前部甲板を覆い尽くす。
二本目は右舷中央部、罐室(ボイラー室)の真横で爆轟。高圧蒸気パイプが破断し、ボイラーが水蒸気爆発を起こして艦腹に直径十メートルを超える巨大な破孔を穿った。
そして三本目が、推進軸とキールを直撃し、一万トンの鋼鉄の巨躯の背骨を完全にへし折った。
インディアナポリスの艦内照明が一瞬で全滅した。
停電した通路を、数千トンの海水と黒煙、そして高圧蒸気が猛烈な勢いで逆流していく。
艦首はすでに海面下へと没し、艦尾のスクリューが宙に浮き上がって空転を始めていた。
通信室の無線機は電源を喪失し、救難信号(SOS)を外部へ送航する発信器の針は微動だにしなかった。
前部甲板のハッチからは、火炎に包まれた水兵たちが逃げ惑い、阿鼻叫喚の怒号が吹き荒れていた。
だが、その艦の最深部――厳重に施錠された特別貨物区画(クレーン室直下)には、木箱に収められた四つの鋼鉄のキャニスターが固定されていた。
テネシー州オークリッジで濃縮されたウラン二三五の高濃度パウダー、ロスアラモスで削り出されたプルトニウム二三九の爆縮型コア、そして超精密信管。
日本本土の四つの都市を更地にし、数十万の命を一瞬で蒸発させるはずだった「破滅の果実」。
その鋼鉄の箱は、浸水した海水の奔流に呑み込まれ、船体の歪みとともに、暗黒の船底深くへと沈み込んでいった。
被雷から、わずか十二分。
重巡インディアナポリスは、艦首を垂直にして海中へ突き刺さるように傾斜し、断末魔の構造破壊音を響かせながら、海面からその姿を完全に消し去った。
海面に残されたのは、激しく噴き上がる巨大な気泡の群れと、黒々とした重油の膜、そして投げ出されたわずかな木片だけであった。
***
「……目標の推進器音、完全に消失。船体圧壊音を複数探知後……沈黙しました」
「そうりゅう」の水測室で、石倉がヘッドセットを外し、静かに目を閉じた。
「インディアナポリス、轟沈。沈没地点、北緯十二度一五分、東経百三十四度四〇分。水深三千二百メートル。……積荷の浮上反応は一切ありません」
深町副長が、壁の時計を見上げた。
「原爆は……沈んだのだな」
「ああ」竹中艦長が低く、重い息を吐き出した。
歴史の分岐点。
広島、長崎、小倉、そして帝都・東京へ向けて振り下ろされようとしていた核の刃は、このマリアナの深海において、確かに叩き折られたのだ。
だが、祝杯を挙げる時間は、一秒たりとも与えられなかった。
石倉が再びヘッドセットを耳に当てた瞬間、その顔色が一変したからだ。
「艦長! 敵護衛駆逐艦三隻、陣形を解除! 最大戦速で反転、アクティブソナーを全開照射しながら、雷跡の起点へ突進しています!」
受聴器から、けたたましい高周波のピンガー音が幾重にも鳴り響き始めた。
キィィィン……ピィィィィン……!
「前衛駆逐艦、伊五十八の潜航海域へ急速接近中! 爆雷投下軌条の開放音を探知! 伊五十八が、敵の対潜包囲網に完全に捕まりました!」
発令所の空気が、再び氷点下まで凍りついた。
核の輸送艦を葬り去った過去の友軍に、米駆逐艦の猛烈な報復の牙が迫っていた。
深海の暗闇の中で、歴史を変えた代償を巡る、もう一つの凄惨な死闘が幕を開けようとしていた。




