現代という幕間 第1章:薬理的均衡(ケミカル・バランシング)
アラームの音は、僕の脳内にある脆弱な受信機を、無理やり定常動作モード(安定して動作し続けている状態)へと引きずり戻した。
薄暗い自室の空気は重い。視界に入るのは、もはや地層と化した衣服の山、期限の切れたコンビニのレシート、そして半分だけ解かれた構造力学の演習ノートだ。エントロピー(系の乱雑さや無秩序さの度合い)は極大に達し、僕というシステムは、その混沌の中心でただ微弱な待機電力を消費するだけの存在となっていた。
僕は枕元にあるプラスチックの瓶を手に取る。中には、僕の日常を物理的に支えている「アトモキセチン(脳内のノルアドレナリンを増やし、不注意や衝動性を改善する非刺激性の治療薬)」が収められている。
主治医との相談の結果、今月からその用量を増やすことになった。
かつて僕は、コンサータ(中枢神経を刺激し、ドパミンの再取り込みを阻害することで強力な覚醒効果をもたらす薬剤)を試したことがあった。服用した直後の数時間は、まるで脳内の霧が晴れ、世界が高解像度のディスプレイのように鮮明に見える魔法のような時間だった。しかし、その代償はあまりにも大きかった。
夕方、薬の効果が切れる頃、僕の脳は「電気が切れるように」突如として機能を停止した。
それは穏やかな日没ではなく、落雷による全系停電に近い。思考は急速に沈み込み、指一本動かすことが苦痛になるほどの虚脱感が僕を襲う。あの極端なオン・オフの切り替わりは、僕の脆弱な制御系を焼き切ってしまうのではないかという恐怖を抱かせた。
だから今の僕は、アトモキセチンによる「穏やかな底上げ」を選んでいる。
アトモキセチンの増量は、僕の脳内のベースライン(基準となる動作レベル)を静かに押し上げた。かつてのような爆発的な集中力はない。代わりに、一日を通して致命的なシステムエラーを起こさない程度の安定性が供給される。しかし、ノイズが消えた後に残ったのは、どこまでも透明で、どこまでも冷たい「虚無」だった。
「……頭は働いている。でも、何もしたくない」
僕は天井を見つめながら独り言をこぼす。
父の助言で始めたtDCS(経頭蓋直流電気刺激:頭皮に微弱な電流を流し、大脳皮質の活動性を調整する非侵襲的な手法)も、一定の効果を奏していた。前頭前野(思考や創造性、行動の抑制を司る脳の部位)に陽極刺激を加えることで、確かに霧(ブレイン・フォグ:頭に霧がかかったようにぼんやりし、思考が働かない状態)は薄まり、論理的な思考回路はスムーズに回転し始めている。
しかし、肝心のエンジンを回すための燃料――すなわち「興味」や「意欲」が、僕の内部からは完全に失われていた。
僕の父もまた、ADHD(注意欠如・多動症)の診断を受けている。しかし、父の特性は僕とは正反対のスペクトル(分布の範囲)に位置していた。
父は、常に新しい刺激を求め、多方面に情熱を燃やすハイパー・アクティブ(多動性が強く、極めて活動的な性質)な人間だった。週末になれば登山やカヤック、マウンテンバイクといったアウトドアスポーツに明け暮れ、僕たち家族を強引に連れ出した。
幼い頃、妹と一緒に何度も行ったキャンプの記憶は、今でもセピア色の断片として僕の中に保存されている。
焚き火の爆ぜる音、夜の森の湿った匂い、父が自慢げに語る星の配置。あの頃の僕は、不注意で忘れ物ばかりする子供だったけれど、世界はもっと色彩に溢れていたはずだ。父が見せてくれたあの鮮やかな世界に、今の僕の手は届かない。
今の僕は、高性能だがユーザーのいないコンピュータのようなものだ。
OS(オペレーティングシステム:コンピュータ全体を管理する基本ソフト)は正常に起動し、バックグラウンド(ユーザーに見えない裏側で動作するプロセス)では緻密な計算が行われている。しかし、入力デバイス(キーボードやマウス)はどこにも接続されていない。何に対しても興味が湧かず、心が動かない。この「アパシー(無関心・無感動な状態)」こそが、薬理的な均衡の果てに辿り着いた、僕の新しい牢獄だった。
僕はのそりと起き上がり、部屋の惨状を眺める。
片付けなければならないことは分かっている。服を洗濯機に入れ、ゴミをまとめ、書類をファイルに綴じる。それらは工学的な手順としては極めて単純なタスクだ。しかし、その最初の一歩を踏み出すためのトリガー(動作を引き起こすための引き金)が、僕の脳内ではどうしても引かれない。
部屋のエントロピーが増大する一方で、僕の意識はしばしば「白昼夢」へと逃避する。
それは無意識のうちに展開される、精緻なシミュレーションの世界だ。現実の僕が散らかった部屋で立ち尽くしている間、僕の脳内では、完璧にメンテナンスされた工場のラインが動き、美しい数式が虚空に描かれている。そこは摩擦もエラーもない、完全な真空。
適応的白昼夢(創造性を高めるための建設的な空想)と、不適応的白昼夢(現実から逃避し、生活に支障をきたすほど没頭してしまう空想)の境界線上で、僕は危うい均衡を保っていた。
だが、現実は残酷なインターラプト(割り込み処理:実行中の処理を中断し、緊急性の高い別の処理を優先させること)を仕掛けてくる。
来週から始まる「ジョブ体験(就業体験:実際の職場環境で業務の一部を体験する、大学の必須課題)」。最低三日間、外部の企業に身を置き、組織の一員として機能しなければならない。
自室のゴミ一つ捨てられない僕に、見知らぬ他者と同期(シンクロナイズ:複数のシステムが同じタイミングで動作するように調整されること)し、社会的責任を果たすことなどできるのだろうか。
「……やるしかない」
僕は自分に言い聞かせるように、アトモキセチンの錠剤を飲み込んだ。
喉を通る微かな苦味は、僕がまだ現実という名のネットワーク(接続網)に繋ぎ止められている唯一の証拠だった。情熱はなく、興味も枯れ果てている。それでも、僕は「正常な学生」を演じるための擬態を続けなければならない。
低電圧のまま駆動を続ける僕の人生。その新しい章が、不本意ながらも幕を開けようとしていた。
第1章・完




