第10章:存在遷移局の地獄
2050年夏の終わり。東京都庁の旧庁舎を接収して設置された「存在遷移局(Transition Bureau)・新宿第4特別登記所」の空気は、物理的な熱気と、計算機が発する電子的な排熱、そして死を待つ者たちが放つ特異な老人臭(加齢に伴う皮脂の酸化と代謝産物の変化による特有の体臭)が混ざり合い、文字通り「地獄」の様相を呈していた。
新人事務官の松崎日向は、顔に張り付いた防護マスクの不快感に耐えながら、手元のホログラフィック・タブレットに表示される膨大な「未処理リスト」を睨みつけていた。彼女の役割は、第9章で発令された「第零次転回宣言」に基づき、肉体の維持が困難となった高齢者に対し、その意識をシリコン基盤へと移送する基盤独立化(サブストレート・インディペンデンス:意識を特定の生体脳から切り離し、デジタル環境などの異なる基盤上で実行可能にすること)の手続きを執行(法令や計画に基づき、強制力をもって内容を実現すること)することだ。
「……嫌じゃ。わしは、この体で死にたいんじゃ」
目の前に座る、皮膚が紙のように薄くなった老人が、震える声で絞り出した。彼のカルテには、サルコペニア(加齢に伴う筋肉量の減少および筋力の低下を指す症候群)が進行し、心肺機能も閾値(しきい値:生体反応を引き起こすために必要な最小限の刺激量、あるいは境界となる値)を下回っていることが記されている。物理的な死は、あと数時間以内に訪れることが数理モデル(現象を数学的な式や論理で表現し、予測や解析を行う手法)によって確定していた。
「おじいちゃん、聞いて。今ならまだ、あなたの記憶も、その『死にたくない』という意志の揺らぎも、すべて高解像度(情報の密度が高く、細部まで精密に再現されている状態)で保存できるの。肉体が朽ちてしまったら、すべては熱力学的死(エントロピーが最大に達し、あらゆる活動や情報の生成が停止する宇宙の終焉的状態)の中に消えてしまうわ」
日向は、地域課時代に培った正義感(道徳的な正しさを信じ、市民を守ろうとする強い情熱)を必死に奮い立たせ、説得を試みる。しかし、彼女の言葉は虚しく響いた。彼女が提示しているのは、トランスヒューマニズム(科学技術を用いて人間の身体的・知的な能力を飛躍的に拡張させようとする思想)の極致であり、目の前の老人が信じてきた「人生の終わり」という宗教的・実存的な物語を根底から解体(既存の枠組みや定義をバラバラに分解し、無効化すること)するものだった。
その時、背後から冷徹な足音が近づいてきた。
「松崎事務官。情動的な説得は、計算資源(コンピュータが処理を行うために必要な計算能力やメモリ、電力の総量)の無駄だ。我々の任務は、彼らの感情をケアすることではなく、国家の全エントロピーを管理することにある」
内閣府・存在遷移局長官、久住健。かつて「公安の魔物」と恐れられた彼は、冷酷なまでのリアリズム(理想や感情を排除し、冷徹に現実の利害や合理性のみを追求する姿勢)を纏ってそこに立っていた。
「久住長官……。ですが、彼は自らの意志で肉体的な死を望んでいます。これは自己決定権(個人が自分の生き方や死に方を、自らの意志で自由に決定できるという基本的人権)の侵害ではありませんか?」
久住は、日向の抗弁を無機質な視線で一蹴した。
「日向、君が言っているのは旧時代の倫理だ。現在の日本において、個人の死はもはやプライベートな事象ではない。肉体が朽ちる際に失われる膨大な情報量(その人が一生をかけて蓄積した知識、経験、クオリアなどのデータ量)を放置することは、公的な資源の遺失(社会的に価値のある資産を失うこと)と同義だ。我々は今、パターナリズム(強い立場にある者が、本人の意志に関わらず、その利益のために介入・干渉するという保護主義的な考え方)を、種全体の生存のために発動させている」
久住は老人のタブレットを奪い、指先ひとつで「強制遷移プロトコル(本人の同意をスキップし、行政権限によって意識の抽出を開始する手順)」を起動させた。
「待ってください! そんな、無理やりなんて……」
「黙って見ていろ。これが『地獄』の真実だ」
老人の頭部に取り付けられたナノマシン・インターフェースが青白く発光を開始した。それは、脳内の全コネクトーム(神経細胞の接続パターンを網羅的に記述した地図)を走査(スキャン:対象の情報を細かく読み取ること)し、デジタル化していくプロセスだ。
この「地獄」のフロアでは、同じような光景が数千、数万と繰り広げられている。広報官の須賀圭介は、表向きには「永遠の命というギフト」という言葉を並べ、若者と組織の緩衝材(対立する両者の間に立って衝撃を和らげる存在)として振る舞っているが、その裏で日向が見ているのは、生の尊厳が効率という名の目的関数(最適化問題において、最大化あるいは最小化を目指すための数式的な指標)に塗りつぶされていく惨状だった。
「萌さん、データの整合性(複数のデータ間に矛盾がなく、一貫性が保たれている状態)はどうですか?」
日向は、通信回線を通じて特別補佐官の西園寺萌に問いかけた。
「問題ないわ。松崎さん。今、彼の脳から抽出されたクオリア・パターン(主観的な質感や体験を符号化した情報の断片)が、四条四季さんのJOKERへ転送されている。彼の『嫌じゃ』という拒絶反応も、貴重な『意志の揺らぎ(決定論的な予測を裏切る、人間固有の不確定な選択のパターン)』として、システムの多様性を維持するための摂動(せつどう:系に与えられる微小な乱れ。ここでは計算の修正項としての役割)として処理されたわ」
萌の言葉には、一点の曇りもなかった。彼女にとって、この地獄は計算の精度を上げるための巨大な試験場に過ぎない。
数分後、目の前の老人の体から力が抜けた。物理的な心拍は停止したが、タブレットの中では彼の意識が、情報の波形として脈動し続けている。
「……彼は、救われたのでしょうか。それとも、殺されたのでしょうか」
日向の問いに、久住は冷たく答えた。
「救済と殺害の境界は、認識論(人間がどのように事物を認識し、その正しさを判断するかを研究する哲学の一分野)的な解釈の差でしかない。だが、彼は今、太陽系という名の情報の庭で、永遠のピース(情報の安定した断片)となった。それが、私がこの国に課した『幸福』の定義だ」
久住はそれだけ言い残すと、次の「地獄」の処理へ向けて歩き出した。日向は、動かなくなった肉体の傍らで、自分の手が震えていることに気づいた。彼女はプロとして成長しなければならない。しかし、その成長の代償として捨て去るべき「人間らしさ」が、あまりにも重いことを痛感していた。
第10章、存在遷移局の地獄。それは、物質世界を卒業する人類が通過しなければならない、血の通わない産みの苦しみであった。日向は、再びタブレットを握りしめ、次の「未処理リスト」を読み込んだ。
「次の方、お入りください」
彼女の声は、冷徹な事務処理の中に、わずかな、けれど消えない不協和(ふきょうわ:音や事象が調和せず、不快なズレが生じている状態)を刻んでいた。




