第8章:公安の魔物の決断
内閣府・存在遷移局(Transition Bureau)の最深部、電磁遮蔽(外部からの電磁波を遮断し、情報の漏洩や干渉を防ぐ技術)が施された戦略決定室。室内の空気は、精密機器が発する微かな排熱と、久住健が好む安価な合成タブレットの無機質な香りに満ちていた。
久住は、大型ホログラフィック・ディスプレイに映し出された日本の地図を凝視していた。しかし、そこに描かれているのは地形ではない。国民一人ひとりの「意志の揺らぎ」をリアルタイムで数値化した、巨大なサイバネティック・ヒートマップ(生体フィードバックや社会活動データを用いて、集団の心理状態や活動密度を視覚化した動的な地図)である。
「長官、プロジェクト『RE-UNION』の最終フェーズ(段階的な計画における最後の行程)への移行準備が完了しました」
背後で、新人事務官の松崎日向が報告する。彼女の声には、依然として消し去れない倫理的葛藤(道徳的な正しさと職務上の義務の間で生じる激しい心の葛藤)が混じっていた。
「……本当に、これを進めるのですか。物理的なインフラ(道路、電力網、水道などの社会基盤)の維持を完全に放棄し、全資源を情報空間の構築に振り向ける。これは、国民から『現実』を奪う行為です」
久住は振り返らず、冷徹なリアリズム(徹底した現実主義。個人の感情や理想を排し、冷酷なまでに事実と合理性のみを追求する姿勢)を湛えた声で答えた。
「日向。君が見ている『現実』とは、老朽化したコンクリートと、維持不可能な社会保障制度の残骸(機能しなくなった過去の制度の跡)に過ぎない。このまま物理的な生存(炭素基盤の生命体としての生存)に固執すれば、2050年を待たずしてこの国は熱的死(物理学において、系内のエネルギーが均一化し、あらゆる活動が停止する終焉の状態)を迎える。我々の義務は、肉体を守ることではない。日本という『種』の意志のパターンを、恒星間宇宙に耐えうる情報構造へと再編することだ」
久住が決断したのは、国家のあり方を「領域の統治」から「情報のメタプログラミング(プログラムの動作そのものを制御・構築する高次元の記述)」へと転換する、極秘プロジェクトの始動だった。
「AI教育システム『イザナミ(IZANAMI-9)』を起動しろ」
久住の命令が下された瞬間、戦略決定室の床が微かに振動した。地下に埋設された超伝導量子コンピュータ・クラスタ(量子ビットを用いて超高速演算を行う計算機の集合体)が、膨大な計算負荷(コンピュータにかかる処理の負担)を伴って再起動したのである。
イザナミは単なるAIではない。国民の認知アーキテクチャ(知覚、記憶、思考といった人間の認識プロセスの構造)を、情報空間に適応させるために再設計する、究極の教育・統治プログラムである。
「イザナミ、初期化プロトコル(システムを動作可能な状態に設定する一連の手順)を開始。対象:日本全域のホログラフィック・インターフェース。目的:現実世界のレンダリング優先順位の恒久的ダウングレード(特定の処理の優先度を意図的に下げ、計算資源を節約する処置)」
日向の目の前で、日本の地図から「物理的な実在感」を示すエフェクトが次々と消え、代わりに抽象的な「意志のベクトル(方向と強さを持つ数学的な量。ここでは個人の行動意欲の指向性を指す)」の光が溢れ出した。
「日向、これが私の正義だ」久住は、ようやく日向の方を向いた。その瞳には、公安の魔物(国家の安定のためには手段を選ばず、非情な決断を下す切れ者の警察官)としての圧倒的な覚悟が宿っていた。「国民には、もはや『空腹』や『病痛』を物理現象として知覚させる必要はない。すべての感覚はクオリア・符号化(主観的な体験や質感をデジタルデータに変換する技術)によって制御される。彼らは、情報の海の中で、永遠に枯れない桜を見、磨り減ることのない意志を持ち続ける」
「それは……魂の偽装(本来の精神的実体を、精巧に作られた偽の情報で覆い隠すこと)ではありませんか」
日向の抗弁に対し、特別補佐官の西園寺萌が、暗算による数値検証を終えて冷淡に割って入った。
「松崎さん、あなたの言う『本物の魂』なんて、坂上先生の理論によれば、ただの確率論的なノイズ(統計的な規則性から外れた予測不能な乱れ)の集積に過ぎないわ。私たちがやっているのは、そのノイズの中から、真に価値のある『揺らぎ(決定論的な予測を裏切る、人間固有の自由意志のパターン)』だけを抽出(特定の要素だけを選び出すこと)し、恒久的な記録媒体(情報を長期間保存するための物理的な装置やシステム)へ移し替える作業よ」
萌の傍らでは、ボディーガードの浜中深が、その圧倒的な身体能力(鍛え上げられた筋肉や反射神経による、物理世界での高い行動能力)を使いこなす機会を失いつつあることに戸惑いながらも、萌を守るという一点において自身の「揺らぎ」を維持していた。
久住は、イザナミの最終承認画面に手をかざした。
「本日をもって、物質世界としての日本を『減価償却(時間の経過に伴う価値の減少分を費用として計上する会計処理。ここでは物理世界の役割が終わったことを意味する)』する。我々は、情報という名の新大陸へ版図(国家の統治権が及ぶ範囲)を広げる。反発する者は、鵜飼に処理させろ。彼は既に、物理世界の綻びを見張る番人となっている」
イザナミが、最初のアウトプット(システムからの出力結果)を生成した。それは、全国の市民端末に一斉送信された、新しい教育カリキュラム――「現実の再定義」という名の、集団的催眠(集団に対して同時に行われる、暗示や心理操作を用いた意識の変容状態)の開始だった。
久住健。かつて現実の闇を這い、国家を守ってきた男が、今、最大の現実逃避を国家の最終目標として採択(複数の案から最適なものを選び、正式に決定すること)した。それは、種としての人間が生き残るための、最も冷徹で、最も献身的な裏切りだった。
「日向。プロとして成長したければ、この光景を焼き付けておけ。これが、神の代わりに世界を再構築する男の背中だ」
久住の影が、イザナミの発する蒼い光に照らされて、巨大な魔物のように壁に映し出された。第8章、公安の魔物の決断により、物質としての日本は静かに解体を開始し、人類は情報の螺旋(二重らせん構造を持つDNAのように、情報が複雑に絡み合いながら上昇・進化していくイメージ)へと足を踏み入れたのである。




