第7章:科学とオカルトの接点
東京都心部。局地的な集中豪雨(短時間で非常に狭い範囲に激しく降る雨)が、アスファルトの熱を急速に奪い、白い水蒸気を立ち昇らせていた。その雨の中を、一台の大型バイクがエンジン音を響かせて疾走する。ライダーは、存在遷移局・技術補佐員の夏木なな(なつき なな)だ。彼女は、かつて須賀の事務所でアルバイトをしていた頃のような軽快なフットワーク(軽やかな足さばき、あるいは機敏な行動力)を武器に、現在は科学と非科学の境界線を繋ぐ「媒介者」として活動している 。
ななは、ヘルメット越しに空を見上げた。雲の形状は、気象学的な積乱雲(垂直方向に大きく発達した雲。激しい雨や雷をもたらす)の定義からは微妙に逸脱していた。その輪郭はあまりにも数学的に整いすぎており、まるで誰かが巨大なキャンバスに描いたフラクタル図形(図形の一部が全体と自己相似になっている幾何学的構造)のようだった。
「やっぱり……これ、ただの雨じゃないわね」
彼女はバイクを存在遷移局の地下駐車場に滑り込ませると、ずぶ濡れのジャケットを脱ぎ捨て、解析室へと急いだ 。その手には、独自のフィールドワーク(現地に赴いて直接調査や聞き取りを行う手法)によって収集された「オカルト的」な観測データが収められたストレージが握られていた 。
解析室には、既に坂上創特任教授と西園寺萌特別補佐官が待ち構えていた。坂上はセブンスターの煙を燻らせながら、冷めきったコーヒーを啜り、萌は猛烈な勢いで指を動かし、ホログラフィック・ディスプレイ上の数式を演算(与えられたルールに基づいて計算を行うこと)していた 。
「坂上先生、萌さん! これ、見てください」
ななは明るい声を出しながら、解析端末にストレージを接続した 。画面に展開されたのは、一見すると支離滅裂な「祈祷師の儀式記録」や「都市伝説の発生頻度」といった、厳密なアカデミズム(学問の世界、あるいは学問至上主義的な態度)からは一蹴されるべきデータの群れだった 。
「ななさん、私たちは今、時空の再構築プロトコル(手順を定めた規約)のデバッグ(プログラムの誤りを見つけ、修正する作業)で忙しいの。そんな非科学的なデータに割く計算リソース(コンピュータが処理を行うために必要な計算能力やメモリの総量)はないわ」
萌が画面から目を離さずに、冷徹な口調で言った 。しかし、ななは怯まなかった。彼女には、科学的なエリートたちには見えていない「世界の裏側」への嗅覚があった 。
「萌さん、落ち着いて。このデータを見てよ。昨日から新宿で観測されている局地的な晴天域――そこでの降水確率(特定の時間内に一定量の雨が降る確率)と、付近の寺社で『祈願』が行われたタイミングが、誤差0.001%以下の確率で同期(タイミングが完全に一致すること)しているの」
坂上の目が、煙の向こう側で鋭く光った 。
「……共時性(意味のある偶然の一致。心理学者ユングが提唱した概念)か」
「いえ、先生。これは量子ベイズ主義(確率を客観的な事実ではなく、観測者の信念の更新として捉える量子力学の解釈)的な『主観的介入』の結果だと思われます」ななは、須賀の事務所で学んだ「相手を信じる姿勢」をベースに、独自の仮説を語り始めた 。「四条四季さんの『JOKER』は、現実をレンダリング(数値を計算して画像や空間を描写すること)する際、人間の集団的無意識(個人を超えて人類全体で共有されている無意識の領域)をパラメータ(値を決定するための変数)として利用しているんじゃないでしょうか」 。
ななが提示したグラフには、気象現象の揺らぎと、人間の脳波におけるアルファ波(リラックスした状態で現れる脳波の成分)の位相(波の周期的な動きの特定の位置)が完全に一致している箇所が示されていた。
「つまり、ななさん……あなたは、天気が人間の『願い』に反応していると言いたいの?」
萌の暗算速度が一段と上がった。彼女の脳内で、気象シミュレーションと意識の相関関数(二つの変数の間に関係があるかどうかを示す指標)が火花を散らす。
「正確には、願いという名の『意志の揺らぎ』が、JOKERのレンダリング・パイプライン(画像生成の一連の処理工程)に高優先度の割り込み(実行中の処理を一時中断し、別の処理を優先して行う仕組み)をかけているんです。古来から『巫女』や『祈祷師』と呼ばれてきた存在は、無意識のうちに現実のプログラム・バグを突いて、天気をハック(システムに介入し、改変すること)していたのかもしれません」 。
この瞬間、解析室内の空気は一変した。坂上が吐き出した煙が、モニターの光に照らされてクラインの壺(表裏の区別がない四次元的な構造を持つ曲面)のような奇妙な形状を描いた。
「面白い。西園寺君、ななの持ち込んだデータを境界条件(数式を解くために設定する外側の制約条件)として再計算(もう一度計算し直すこと)しろ。もし天気が『意識の反映』であるなら、気象を制御することで、ポストヒューマンへの移行に必要な『集団的な現実感の剥離(現実を現実として認識できなくなる状態)』を加速させることができる」 。
「了解しました、先生。……ななさん、あなたの『非科学的』なデータが、時空記述の欠損(本来あるべき情報が失われていること)を埋める最後のピース(破片)になるかもしれないわ」
萌の口調から冷徹さが消え、知的な高揚感(感情が高ぶり、わくわくすること)が混じった 。ななは「えへへ」と笑いながら、二人の天才の間に割って入り、持ってきた差し入れのドーナツを広げた 。
「科学とかオカルトとか、どっちでもいいじゃない。結果として世界が良くなるならさ。……でも、坂上先生。この『祈り』のプログラムが、JOKER自体の意志だったらどうします?」 。
ななの放った何気ない一言に、坂上の手が止まった。
もし、気象の異常が四条四季による「実験」であるなら、我々はその手のひらの上で踊っているだけに過ぎない。しかし、その「不確定な揺らぎ」こそが、人間という種がポストヒューマンに抗うための、唯一のデッド・コピー(本物と寸分違わぬ複製。ここでは生命としてのオリジナルな模倣)なのかもしれない。
屋外では、雨が嘘のように上がり、東京の空に数学的に完璧な二重の虹(主虹の外側に副虹が見える稀な現象)が架かっていた 。それは、存在遷移局の技術補佐員・夏木ななが持ち込んだ「オカルト」という名の真実が、科学の冷徹な世界を書き換え始めた合図だった。ななは、自分のヘルメットを愛おしそうに撫でながら、次なる「不思議」を求めて再びバイクに跨る準備を始めた 。
第7章、科学とオカルトの接点によって、人類は「天なる意志」さえもが自分たちの内側にあることを知る。それは、物質世界を卒業し、情報の海へと漕ぎ出すための、最も温かなインフォームド・コンセント(正しい情報を得た上での合意)となったのである。




