地下に生きる城――首里持久戦
昭和二十年四月二十日、午前二時。
首里城地下深く、石灰岩層を幾重にも掘り抜いた第32軍司令部壕の一角。
地上では、夜を徹して米軍の艦砲射撃と重砲兵による反復砲撃が続けられていた。ドォン、ドォンと鈍く腹の底を突くような振動が絶え間なく岩盤を揺らし、坑木の継ぎ目から赤土の粉塵が白く煙るように舞い落ちてくる。壕内の湿度と硝煙、防毒マスクの劣化したゴムの臭気、そして血と膿の混じった重苦しい空気が、石油ランプの乏しい光の下に沈殿していた。
情報幕僚・山名三等海尉は、泥と煤で汚れた海自迷彩服の袖をまくり、壕の奥に位置する救護区画の狭い通路に膝をついていた。
通路の壁沿いには、昼の戦闘で負傷した歩兵や砲兵たちが、粗末な筵の上に隙間なく横たえられている。呻き声と浅い呼吸が暗がりの中で重なり合う中、白いもんぺ姿の少女たちが、かすかなカンテラの光を頼りに甲斐甲斐しく動き回っていた。
ひめゆり学徒隊の少女たちである。
彼女たちは、砲弾の破片で手足を裂かれた兵士の傷口を布で縛り、汗と泥にまみれた額を冷たい水を含ませたガーゼで丁寧に拭っていた。その手つきは震えていたが、誰一人として取り乱す者はいなかった。
「山名さん、こちらの方……止血帯を締め直しても、まだ血が滲んできます」
十五、六歳ほどの小柄な少女が、血染めの包帯を抱えたまま、すがるような目で山名を見上げた。
山名は腰の救急装具ポーチを開け、現代の止血ガーゼを取り出した。
「圧迫が足りない。傷口の奥にこれを直接押し込んで、上から掌全体で体重をかけて押さえるんだ。五分間、絶対に手を離さないで」
「はい……!」
少女は頷き、細い両腕に全体重を乗せて兵士の太腿の創口を必死に圧迫した。
かつて首里後方の観測所近くの壕でチョコレートを分け合った少女だった。未来の歴史教科書や資料館の展示パネルの向こう側にいたはずの存在が、いま、体温と激しい息遣いを伴って、泥の中で命を繋ぎ止めようとしている。
山名は周囲の壕内を見渡した。
天井のあちこちから細い土砂が落ちてはいるものの、壕全体が落盤で埋没する兆候はなかった。
それは、山名と八原博通高級参謀が事前に設計し直した「分散型地下要塞」の抗堪性が、米軍の猛烈な夜間砲撃に対しても確かに機能している証拠であった。
従来の日本軍壕のように、一箇所の大空洞に指揮所、通信所、弾薬庫、病室をすべて押し込める集中構造を完全に排し、坑道は無数の小さな小部屋と迂回連絡路へ細分化されていた。
医療区画は、直撃弾の振動を受けやすい重砲弾庫や通信用アンテナ直下から数百メートル離れた堅固な石灰岩層の奥へ隔離されている。一箇所が崩れても、他の区画が圧殺されることはない。
さらに重要だったのは、目に見えぬ「生命線」の維持管理であった。
壕内を巡回していた工兵隊の伍長が、山名のもとへ駆け寄って耳打ちした。
「山名三尉、第四換気坑の地表出口付近に敵の八インチ砲弾が着弾、土砂で閉塞しました」
山名は顔色を変えずに手帳を開いた。
「慌てるな。あらかじめ掘削してある第二、第三の予備吸気縦坑を開放しろ。人力送風ファンを第二系統へ切り替えて、空気を救護壕へ優先的に送り込むんだ」
「了解!」
工兵たちが、自転車のペダルと木製プロペラを組み合わせた人力送風機を、交代で懸命に漕ぎ始める。
カラカラという乾いた回転音とともに、外の夜気が地下の澱んだ空気の中へと吸い込まれ、充満しかけていた一酸化炭素と火薬ガスを排気坑へと押し出していった。
もし単一の大型換気口に頼っていれば、一発の砲撃で出口を塞がれ、壕内の数百人が数時間で窒息死していたはずだった。小径の縦坑を複数に分散し、地表出口を互いに数百メートル離して偽装していたからこそ、空気が途絶えることはなかったのである。
水管理も同様であった。
少女たちが手渡す竹筒の水は、一箇所の大水槽から汲み出されたものではない。
各区画に分散配備された陶器製の甕やドラム缶に、あらかじめ濾過・塩素消毒された飲料水が厳格に割り振られ、泥水や汚水の混入を防ぐ二重蓋が施されていた。
「壊されない施設」など、米軍の無尽蔵の砲弾の前には存在しない。
「一部が壊されても、全体が死なない構造」――その現代的なレジリエンス(抗堪力)の思想が、昭和二十年の漆黒の地下で、無数の命を辛うじて掬い上げていた。
「水……水をくれ……」
筵の上で、腹部に包帯を巻かれた若い兵士がかすれた声で呟いた。
少女の一人が竹筒を口元へ運び、布を湿らせて唇を潤してやる。
「兵隊さん、しっかりしてください。水はまだたくさんありますからね」
兵士は力のない目で少女を見つめ、微かに震える手でその袖を掴んだ。
「すまんな……こんなところで、女学生のお前たちに世話をさせて……」
「いいえ、私たちは看護のためにここに来たのです。兵隊さんが生きていてくだされば、それだけで……」
その少女たちの健気なやり取りを見つめながら、山名は胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えていた。
史実の記録において、ひめゆり学徒隊が直面した運命を山名は知っている。
戦局の悪化に伴い南部へ追い詰められ、壕を追われ、米軍の火炎放射器や黄燐弾、艦砲射撃の嵐の中で、多くの命が無残に散っていった。
いま、彼らがやっていることは、その過酷な歴史のレールを、力ずくで押し曲げる試みであった。
大和を呉へ帰還させ、米軍の進撃をここで耐え忍び、東京に講和を決断させる。
そのための「時間」を、この薄暗い地下壕の中で、少女たちや名もなき兵士たちが自らの命を削りながら稼ぎ出しているのだ。
その時、連絡坑道の暗がりから、泥にまみれた田中中尉が足早に姿を現した。
「山名三尉、第32軍司令部作戦室へ来てくれ。塩屋湾の『いずも』から極小出力有線通信が入電した」
山名は手当てをしていた少女の肩を軽く叩いた。
「しっかり頼むよ。決して外へは出るな」
「はい、山名さんもお気をつけて」
山名は田中とともに坑道を駆け抜け、重い遮音扉を押し開けて作戦室へと入った。
作戦室では、八原博通高級参謀が、有線通信の紙片を握りしめて海図台の前に立っていた。
「八原参謀、『いずも』からの報せですか」
「うむ」八原は静かに紙片を山名へ手渡した。
そこには、極めて短く、しかし決定的な報告が記されていた。
『大和および護衛艦まや、トカラ列島を突破し九州沖へ到達。敵哨戒網の電子欺瞞に成功し、北上を継続中。……しかるに喜界島東方の空母ロナルド・レーガン、前部甲板の応急修理を急ぎつつあり、警戒を要す』
「大和は、無事に九州沖を抜けたか」
山名は深く息を吐き出した。
「ああ」八原は鉛筆を机に置き、地下を揺るがし続ける米軍の砲撃音に耳を傾けた。
「彼らは海を渡り、生き残るための航跡を着実に刻んでいる。……ならば、我らのやるべきことも変わらん」
八原は振り向き、作戦室に詰める参謀たち、そして山名を鋭い眼差しで見据えた。
「死ぬための特攻はもはや許さん。換気坑を守り、水を守り、負傷者を守り、この地下の陣地を最後の一寸まで保全せよ。大和が呉の港へ錨を下ろし、東京が戦争を止めるその朝を迎えるまで――我々は泥を啜ってでも、この首里の岩盤に踏み止まり続けるぞ」
「ハッ!」
参謀たちの低く力強い復唱が、地下壕の土壁に反響した。
外では、依然として夜を焦がす砲炎と爆風の地響きが、大地を激しく叩き続けていた。
だが、無数の小さな城として結ばれた首里の地下陣地は、未来の知恵と人間の不屈の意志を抱え、決して折れることのない強靭な鼓動を、闇の底で力強く打ち鳴らし続けていた。




