欺瞞の航海――大和を生かして呉へ
昭和二十年四月十九日、午後十時。
薩南諸島東方、九州南岸沖約八十海里。
夜の闇は底なしの深さで東シナ海から太平洋へと連なる海原を覆い尽くしていた。見上げる空には厚い乱層雲が垂れ込め、月光も星影も完全に遮断されている。波頭を白く砕きながら、北北東――豊後水道の入り口を目指して進む四隻の艦影があった。
先頭を進むイージス護衛艦「まや」。その後方千五百メートルを巨躯を軋ませて追随する戦艦「大和」。そしてその両翼を警戒する駆逐艦「雪風」と「初霜」である。
艦隊の速力は十四ノット。
ガスタービン主機用軽油の残量が二十パーセント台へ落ち込んだ「まや」にとっても、ボイラー重油を限界まで切り詰めた大和にとっても、これ以上の増速は許されない経済速力であった。
しかし、その遅い足取りは、夜間哨戒を広域展開する米軍のレーダー網に対して、格好の餌食となる危険を常に孕んでいた。
「まや」の戦闘指揮所(CIC)。
青白いコンソール光と機器冷却ファンの乾いたノイズが充満する室内で、電子戦士官・三条律二尉が、ヘッドセットを片耳に強く押し当てながらコンソールの波形表示を凝視していた。
「……パッシブESM(電波探知装置)に感あり。方位二八〇、高度三千五百フィート。米陸軍航空軍のB-24改造電子偵察機、あるいは海軍のPB4Y-2プライバティアと思われる長波捜索レーダー波を受信しました。パルス反復周波数、スキャン周期ともに哨戒パターンです」
高梨艦長が腕を組み、即座に問い返す。
「本艦の反射波を敵が捉えた兆候はあるか」
「まだです」三条は首を横に振った。
「現在、敵哨戒機は薩南諸島沿いを南北に往復走査中。しかし、このままの針路を維持すれば、あと六分で敵レーダーの有効走査円の中に大和の巨大なレーダー反射断面積(RCS)が突入します。七万トンの鋼鉄の塊です、一九四五年の粗いメートル波レーダーとて、海面反射の中から確実にその輝点を炙り出します」
大和の存在が露見すれば、鹿屋や沖縄周辺の米機動部隊、そして夜間戦闘機部隊へ即座に通報される。
だが、迎撃ミサイルSM-2は一発も残されていない。五インチ単装速射砲や大和の高角砲で撃ち落とそうと火蓋を切れば、その砲炎自体が夜の海で最大の標的となる。
「高梨艦長、力任せのノイズジャミングは逆効果です」
戦術幕僚の助言に、高梨は頷いた。
「分かっている。強力なホワイトノイズを放射すれば、レーダー画面を白濁させることはできても、『ここに妨害源がある』と方角を教えてしまう。……三条二尉、NOLQ-2のトランスポンダ欺瞞モードを使え」
「了解! NOLQ-2電子戦システム、受動即応欺瞞シーケンス起動!」
三条の指先が素早くキーボードを叩いた。
現代のイージス艦が誇る電子戦装置「NOLQ-2」の真価は、ただ電波を撒き散らすことではない。敵が発信したレーダーパルスを受信し、その周波数、パルス幅、振幅を瞬時にデジタル記憶装置(DRFM)で複製・遅延させ、極小の位相ズレを加えて撃ち返す能力にある。
「敵PB4Y-2のレーダー波を受信……パルス解析完了。複製エコーを生成します。放射角度、方位三一〇、本艦の実位置より北西へ十二海里離れた海域へ偽装エコーを投射!」
マスト側面に備えられた指向性フェーズドアレイ送信アンテナから、不可視の電磁パルスが鋭く撃ち出された。
***
高度一千メートル、暗雲の下を飛行する米海軍哨戒機PB4Y-2の機内。
電波担当の見張り員は、円形走査ブラウン管(Pスコープ)に突如として現れた鮮明な輝点に目を留め、機内インターホンへ怒鳴り声を上げた。
「機長! 方位〇四五、距離二十二マイルに大型水上目標を探知! 反射強度は戦艦級です!」
操縦桿を握る機長が計器板から顔を上げる。
「戦艦だと? 大和か!?」
「位置はトカラ列島北端、口永良部島の西側です! 針路北西、速力二十ノットで東シナ海奥深くへ退避中と思われます!」
「よし、探信針路を北西へ向けろ! 接触を維持しつつ、第5艦隊司令部へ緊急打電だ!」
PB4Y-2は大きく左へ旋回し、偽装された「巨大な幽霊」を追跡すべく、暗闇の空を北西へと飛び去っていった。
彼らが追っているのは、海自の電子戦装置が作り出した、大気中に漂う電子の残像に過ぎない。
***
「……敵哨戒機、変針を確認。偽装エコーの方向へ釣り出されていきます。本艦および大和の実エコーは、海面反射の底へ完全に沈降しました」
三条の冷静な報告に、高梨艦長は深く息を吐き出した。
CIC内に安堵の空気が微かに広がる。
敵の眼を潰すのではなく、偽りの真実を掴ませてあらぬ方角へ誘導する。実弾を一発も撃たず、敵の航空索敵線を欺瞞し、大和の北上ルートを夜の闇の中に完全に隠蔽した瞬間であった。
高梨は専用VHF無線機のマイクを取った。
『各大和、こちら護衛艦まや。敵哨戒機の欺瞞に成功。現針路〇一五を維持されたし』
直後、大和第一艦橋の有賀幸作艦長から、低く抑えられた声が返ってきた。
『大和了解。……電波の檻で敵の目を眩ますとは、未来の戦法、恐るべきものよ。だが、高梨艦長、そちらの燃料は保つのか』
『ギリギリです』高梨は率直に答えた。
『屋久島沖を抜けて豊後水道へ滑り込むまで、機関の回転数を一分たりとも上げられません。大和も、機関の負荷を最小限に抑えてください』
『承知した。我らもまた、罐をいたわりつつ進む。呉の灯が見えるまで、何としても油を持たせねばならんからな』
通話を切った高梨は、海図台の上に視線を落とした。
コンパスの針が指し示す先には、九州・大隅海峡の暗い海と、その先に口を開ける豊後水道の狭水道があった。
本土の入り口はすぐそこに迫っている。
だが、そこを突破した先に待っているのは、温かい祖国の港だけではない。
狂乱の特攻精神論に憑りつかれた大本営の参謀たち、そして四発の原子爆弾という未曾有の破滅の足音であった。
「まや」の電子の盾に守られながら、大和は漆黒の夜の海を、一歩、また一歩と母港へ向けて踏みしめるように進んでいた。
誰一人として死なせないための、そして戦争という巨大な狂気を止めるための、静かなる欺瞞の航海は、深い静寂の中でなおも続いていた。




